9月7日

 締め切りが迫っている原稿もないので、今日は久しぶりにのんびりした気持ちで過ごす。何日か前に、実家から栗が送られてきていた。田んぼに植えてある栗の木からとったものだという。栗って……どうやって調理するんだ……と途方に暮れたまま、ポリ袋から出すこともなくテーブルに置いていた。今日は時間もあるし、ちょっとネットで検索してみるかと思いながらポリ袋を開封すると、栗から出た水分で湿っていて、よく見るとカビが生えている。もったいないことをしてしまった。

 栗を放置してしまったのは、調理に手間がかかりそうだというのもあったけれど、同封されていた手紙に「RK新報を取り寄せた」と書かれていたせいもある。「水納島再訪」に連載していることを書いてしまったせいで、それを読んだ父がRK新報社に電話をかけ、この人物が連載しているかと確認し、掲載されているときだけ送ってほしいと連絡したそうだ。掲載されているときだけ送ってくれって、また、迷惑なというのとは措くとして、自分が原稿を書くときに想定する誰かと、両親は遠いところにいるので、読まれるとなるとどうしても抵抗がある。「水納島再訪」を読んだ父から「倫史らしい文章」と手紙が届き、倫史らしいって、どこをどう知っているんだと視界が暗くなったことを思い出す。

 14時過ぎ、千代田線と東西線を乗り継ぎ早稲田に出る。駅周辺の風景が少し変わっている。坂を上がり、「丸三文庫」へ。『東京の古本屋』のお礼を言って、棚を見る。フジロックの話をしながら数冊選んで、実家からたくさん届いたまるか食品の「のり天」を一袋渡し、お店をあとにする。そのあと、「古書現世」にも立ち寄り、数冊買って「のり天」をお裾分け。明治通りから一本東側の住宅街を歩く。このあたりを歩くとセンチメンタルな気持ちになる。新目白通りを抜け、明治通りを北上する。いつだかお世話になった鍵屋さんが空き店舗になっている。「古書往来座」に立ち寄り、『東京の古本屋』の話を少しして、「ジュンク堂書店」(池袋本店)で海外文学を数冊買う。どのように物語を綴るのか、栄養素になるような本を欲している。

 最近はこんなふうにぶらつく機会も少なくなったので、早稲田から池袋まで散策しただけでも少しくたびれてしまった。知人から晩飯は洋風がいいとリクエストがあったので、西武のデパ地下を覗き、「RF1」で惣菜を――と思ったけれど、腹が満たせる量を買うとなかなかの額になりそうだ。こじんまりしたオードブルだけ買って、帰途に着く。最近は町内のワイン屋でちょっとだけ良いワインを買う生活になりつつあって、そんな贅沢を続けていたらあっという間にお金がなくなってしまうので、自分を戒めるためにもセブンイレブンアンデスキーパーを買って帰る。

 帰宅後、晩酌の前に「ジュンク堂書店」で買った『文學界』を開き、平民金子「めしとまち」を読んだ。8月16日の「ごろごろ、神戸Z」によると、自動筆記のように書かれたとあるけれど、たしかにするすると言葉が紡がれている(最後の引用の配置はばしっと決まっている感じがするけれど)。こういう、自動筆記のような文章を書いて味わいが出る人と、出ない人がいると思っていて、当然ながら自分は「出ない人」だと思っている。だから自分が書く原稿は、素材を一通り吟味した上で、いちどばらばらに解体して、設計図を書き、素材をふさわしい場所に配置し直す――という書き方になる。こういう、自動筆記のような文章が書ける人との違いはなんだろうかと、いつも考える。ひそかにずっと思っているのは詩に耽溺した時代があるかどうかで、ぼくには詩に夢中になった時代というのがない。