9月26日

 4時過ぎに目が覚めてしまう。背中が痛い。やはり寝具の問題な気がする。ケータイをいじっていると、「そういえばこのところ(数年単位ですが)、「東京の〜」という本が目につく。編集者、社会史、古本屋。悪くはないが、東京以外の人はどう読むのかな。」という仲俣さんの投稿が目に留まる。まあ、その視点で何か言われることはあるかもしれないなとは思っていたけれど、東京を特別な場所として書いたつもりはないし、そもそも『ドライブイン探訪』、『市場界隈』、『東京の古本屋』、『水納島再訪』(仮)というラインナップで本を書いている人の著書も含む形で、そんな雑なことを書くのか、と思う。これまでも「その土地に縁がある人や、その土地を訪れたことがある人以外に、どうやって言葉を届けるか」ということはずっと考えてきたつもりではある。もちろん、そういう中身の話をしているわけではなくて、単に「立て続けに『東京の〜』という新刊が店頭に並ぶことがもたらす印象」ということについて言っているのだろうけれど、言葉に携わる仕事をしているのであれば、そんな薄い話で終わらせるのではなく、せめてもう一歩先のことまで言葉にしてほしい。ざっくりしたことを言われたままにしておくのもなんだから、リツイートした上で、いくつか投稿をする。

 知人は早くから仕事に出かけていった。洗濯機をまわし、溜まっていた洗濯物を干す。溜まっていたぶんの7割くらいしか洗えず、午後にもうひとまわししようかと思っていたが、体が重くてごろごろしてしまう。妙に疲れが溜まっている。起き上がれずに過ごしているうちに、盛林堂書房のOさんが雨が降ってきたとツイートしているのが流れてきて、ああ、ごろごろしていて(洗濯機を追加でまわさなくて)よかったと思う。どうにもならない感じなので、15時から湯につかり、書評するか悩んでいる本をぱらぱら読む。16時半に風呂から上がる。雨は降らないようなので、自転車こいで「BOOKS青いカバ」へ。『東京の古本屋』、残り3冊になっている。「順調ですね」とOさん。「どうっすか。ミリオンいきそうですか」とOさんは続ける(この「軽口」の感じ、うまくニュアンスが文字にできなくてもどかしいけれど、他のほとんどの人からそんな言葉を言われたら「馬鹿にしてんのか」と思ってしまうであろうところなのに、Oさんが言うと、ごく自然な言葉に聞こえるから不思議だ)。そうですねえ、これまでに出した本もずっと、それぐらい売れるんじゃないかと思ってるんですけどねと、正直に返す。いや、ミリオンとまでは言わないまでも、10万人ぐらいは手に取ってくれていいんじゃないかと思っていた。ドライブインのときも、ドライブインに思い出がある人たちも、「ドライブインって何」って人たちも、手に取ってくれるだろうと思っていた。『市場界隈』も、那覇市に住んでいる人だけでも30万人以上いるのだから、ああ10人にひとりが買ってくれたらそれだけで3万部だと思っていた。ほんとうにそう思っていた。

 今日の目当ては、『部屋をめぐる旅 他二篇』を買うことだった。先日、自分の本の隣に差されていたこの本を手に取って、ぱらぱらめくった。そのときから頭の片隅でぐるぐるし始めたものが、水納島のまえがきを書く上で栄養になるような気がして、買うことにした。直接的にどうこうというわけでもないし、きちんと通読するかどうかはわからないけれど、ぱらぱらめくってところどころ読んで、机にその本を置いておくだけでも、なにか考えがまとまりそうな気がした。自転車をこいで引き返し、参考文献リストの続きを作る。19時半に帰ってきた知人と晩酌しながら、Amazonプライム・ビデオに入っていた、かまいたちの濱家が、自分が生まれ育った町にある思い出のスーパーマーケットが閉店することになって、そこを再訪する特番を見る。濱家がずっと率直な言葉を口にしていて素晴らしかった。47年の歴史に幕、とあり、そうだよなあスーパーマーケットというものが日本に誕生してから半世紀ぐらい経っているんだよなあと思う。日本各地の商店街から、スーパー反対運動が起きていた時代もあるのだと思うと、感慨深くなる。それと同時に、各地のローカルスーパーの記憶をうまく拾った本があったらいいのになと思う。ただ、ただ単に取材しただけだとガイド本みたいになってしまうから、良い本にするためにはなにか批評性がなければ駄目だろうな。