10月21日
8時近くまで眠ってしまう。可燃ゴミをまとめて、コーヒーを淹れ、卵を割り、ゴミを出しに行く。すぐにごはんを解凍し、たまごかけごはんを平らげる。毛布にくるまって横になり、『海辺の光景』を数ページ読んではケータイを手に取る。途中で政党マッチングをやってみると、政策との合致度が高いのは立憲民主党(80パーセント)だった。
自分の選挙区の候補者を、あらためて調べてみる。公式ウェブサイトには政策とプロフィールがある。世田谷に生まれ、伝統ある中高一貫校に通い、東大を出てNTTに入り、ITベンチャーを立ち上げ、経営しながら司法試験に合格し――自分の人生とは遠すぎて、どういうきっかけで「政治家にならなければ!」と思い立ったのだろう。「諦めません」という言葉はあるけれど、なぜ、という気持ちが残る。
昼過ぎ、インターホンが鳴る。出てみるとカクヤスで、知人のビールが切れていたので箱で注文しておいたぶんが届く。2本は冷蔵庫に冷やしておき、近所の八百屋まで買い物に出る。この季節でもまだオクラがあるので(やはり沖縄産だった)、オクラと納豆と豆腐そば(温)を作る。ちょうど出来上がったところで再びインターホンが鳴り、ゆうパックの着払いの荷物が届く。石垣からの荷物が翌日に届くのかと驚く。荷物を包んだビニールに貼り紙があり、「リチウム電池の国連番号」や「包装基準」などが書き込まれている。一番外側の包みを剥がすと、ぷちぷちで厳重に梱包され、さらにホテルの封筒に入れられ、その上でビニールに包んである。部屋に文句を言っていただけに申し訳なさがこみあげる。
午後、『海辺の光景』を読み終える。第三の新人はエッセイばかり読んできた。ちょっと、どっしりと、小説を読もうという気持ちが湧いてくる。作品の世界に入るには体力が要る。自分の読書の速度を考えると、これから先の人生で読める小説というのはわりと限られているだろう。第三の新人と、古井由吉、富士正晴、藤枝静男、木山捷平……。寝そべりながらぼんやり思い浮かべていると、選挙カーの声が聞こえてくる。午前中にサイトを見ていた候補者を乗せた車が通り過ぎていく。思わず体を起こし、カーテンを開けて様子を伺う。それだけでは何も判断する気にはならなかったけれど、ただ眺める。
16時、K.Yさんと「古書ほうろう」で待ち合わせることになり、自転車で向かう。今日はもう寒いのではないかと、モッズコート風の服に初めて袖を通した上に、マフラーを巻いて出かける。「古書ほうろう」に到着してみるとすでにKさんがいて、「そんなに寒くないやろ」とKさんが言う。10年くらい前だったら、その言葉を過剰に受け取ってしまって「変な格好だったかな」としょぼくれてしまっていた気がするけれど、こういう、とすっ、とした言葉が小気味良く感じる。そういう些細な言葉をやりとりすることが一番少なくなっているからだろう。
不忍池に移動して、ベンチに座り、数日前の朝日新聞をいただく。『東京の古本屋』の新聞広告が出た日、それを探して歩いていたことを知ってくださって、うちにあるのでよかったらとKさんからメッセージをもらって、急遽待ち合わせることになった。ぽつぽつ近況を話す。途中で近くに白い鳥が近づいてきて、Kさんが「あ、××」と名前を言う。ぼくは鳥というと、スズメとカラスと鳩と、あとはメジロか、街中で見かける鳥だとそれぐらいしか種類はわからず、あとは全部「鳥」としか認識していないなあと気づかされる(そしてKさんが言っていた名前ももう忘れてしまっている)。
話していたのはお互いの仕事のことで、Kさんとは同業者であるのだけれど、特に構えることなく普通に話せる(同業者に対して、どういうわけか、うまく話せないという意識がある)。あれこれ話しているなかで、橋本君の書いたものは東京より遠い場所を書いたもののほうが面白い、とKさんに言われてハッとする。今回の本が面白くないという意味ではまったくなくて、なんやろう、東京だと家に帰れるから、と話しながら、たしかに『東京の古本屋』の取材をしていたときと、たとえば関西(『あまから手帖』)や沖縄で取材するときとでは、抱えている緊張感の種類というのか方向性は違っている。東京をホームグラウンドだと思ったことはまだない気がするけれど、東京以外の場所だと、「ふらっとやってきて取材している人間に書けることなんてあるだろうか」という気持ちはある(それと同時に、ふらっときた人間だから書けることがあるとも思っているのだろうけれど)。
一時間ほど話して、またぽつぽつ話しましょうと約束して別れ、「古書ほうろう」に戻り、数冊購入する。角川文庫の安岡章太郎『ガラスの靴』があったのは、個人的にとてもタイムリーだった。最近は本を選ぶときにも、これから書くことの栄養を得ようと選んでいることが多くて、それは良いことばかりではないのだろうけれど、今はそういう時期なんだろう。半月くらい前、『東京の古本屋』を「結構な名著なのでは」と書いてくださっているツイートを見かけたことがあって、自分で言うのはアホだとわかっているけれど、わりとそう思っているところがある。というのは、これまでの本と違って、お店に流れる時間まで書けたという感覚があって、それを書けたのだとすれば次はそれ以上のものを書かなければという気持ちがある。
「海上海」でテイクアウトの注文をして、「往来堂書店」に立ち寄り、西加奈子の新刊を買い、「海上海」に戻り、やなか銀座の「E本店」へ。仕事帰りの知人と待ち合わせ、生ビールを飲んだ。先日里帰りしていた知人は、今はまだどうにかなっているけれど、もしも両親のうちどちらかが倒れたら、自分がしばらく帰るしかないと話している。自分だったら、どうするだろう。自分はそうした時間を「書く」ということにも変換し得るし、数年だけ郷里に戻って、自分が生まれ育った土地と向き直って何か書くということもありえるか――と考えながら、そんなことをまず連想するだなんて気楽なものだなと思う。コロナ以前から、犬の散歩の途中にここで生ビールを飲んでいく人は多かったけれど、犬を飼っている人たち同士の集会所みたいになっていて、2杯飲んだところで店を出る。