10月25日

 8時過ぎに目を覚ます。ある程度ゴミをまとめたあと、コーヒーを淹れ、たまごかけごはんを平らげる。食後、一息ついていると、ゴミ収集車の音がする(うちの地域は特にメロディを流しながら走るわけではないので、ゴミ収集車の純粋な可動音)。ああ、と急いでコーヒー豆と卵の殻をゴミ袋に入れ、階段を駆け降りたが、もう遠くに走り去ってしまっていた。「その二つも今朝のうちに捨ててしまいたい」と欲張ったのがいけなかった。

 午前中からS・Iというプロジェクトの映像を見返し、ドキュメントの案をぼんやり練る。昼、八百屋に行くも、オクラはもう見当たらず。店員さんに尋ねると、そうだねえ、そろそろ硬くなってきちゃうからねえ、もうちょっとすると沖縄のオクラが入ってくるんだけど――と段ボールをあちこち探してくれる。オクラが見つかり、買って帰る。昼は納豆とオクラと豆腐入りそば(温)。午後は明日の委員会のことを考える。検討本と、検討本以外で持ち帰った本をぐるぐる読む。

 ぽちぽちケータイをいじり、検索していると、去年の委員会でご一緒していた三中さんが『東京の古本屋』の感想を書いてくださっている。その中に、「著者と取材先との “距離感” —間の取り方—が心地よく揺れる」「ぐっとズームインしてすぐ隣りにいるかと思えば,すっとズームアウトして外側から見渡したり」「このスタイルは(…)著者のキホンなのだろう」とある。本の感想として、この距離感のことを書いてくださっているものをいくつか読んだ。たしかに、取材するとき、対象とは常に距離がある。ずっと取材している人たちに対してだって、距離は保っているつもりではある。ただ、それはぼくの人間性の部分で、原稿の中にあえて距離感をにじませているつもりはなくって、そうか、無意識のうちに滲んでいるのか、とハッとする。だとしたら、その距離感を自覚して書いたほうがよいのだろう。

 しかし、世の中の人は、他人とどんな距離感で生きているのだろう。ぼくは誰かが文章の中で「友人」という言葉を使っているのを見ると、途端にどぎまぎする。そっか、友達、いるんだ。自分にはごく数人しか友人はいなくて、その友人もきっと、世間が意味するような友人とは違っていて、定期的に連絡を取り合うようなことはなくても、ソウルメイトのように思っている相手や、取材する側とされる側の関係にある誰かがったりする。本筋とはまるで違う読み方の部分で名前を出すのも申し訳ない気もするけれど、「少女を埋める」を読んでいたときに、「そっか、普通に生きていたら、こういうときにパッと連絡できる友達というのがいるものなのか」と思った。

 日が暮れたあとも、毛布にくるまりながら、本を読んで過ごす。最有力候補の本をじっくり読んでいるうちに、知人が帰ってくる。今日の午後は、書評する本を吟味しながら、ずっと大根を煮ていた。今シーズン初のおでん、おおむね美味しくできたものの、大根だけはまるで美味しく作れなかったのが悔しく、しっかり大根を煮込んで、おでんを作る。今日は納得の出来。知人と『消えた初恋』を観る。ジャニーズのドラマだから、知人から「あなたにそれは無理だ」という旨の忠告を受けたのだが、面白くて一気に3話まで観る。知人は22時からオンライン会議を始めてしまったので、テレビをYouTubeにつないで、酔っ払いながら映像を観る。再生履歴を確認すると、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」や森進一の「襟裳岬」を再生したかと思うと、突然鎮座DOPENESSを立て続けに再生している。