11月29日

 さすがに疲れが溜まっていたのか、昨晩は22時過ぎには眠っていたはずなのに、8時過ぎまで起きれなかった。布団の中でぽちぽちケータイを触っていると、平民金子さんが日記でぼくの名前が挙がっている。昨日、ツイッターで『東京の古本屋』のことを書いてくれていて、今のタイミングだったのにはきっと何か理由があるのだろうなと思っていたところだった。

 怒り――自分は怒りすぎなのかもしれないなと、つい最近も考えていた。インタビューしてもらった記事が届き、それに目を通したとき、ちょっとこれを掲載されるのは難しいなと判断して、その日のうちに掲載は見送ってもらえないかと返事をした。自分がそう言われた編集者やライターの立場になって考えてみると、面倒な人間だと思われたに違いないし、怒りをおぼえた可能性もある。それで悪い評判が立ってしまうのかもしれないけれど、たとえば地の文に「だからこそ一見すると重要とは思えないような人の記憶を聞き記し」と書かれているのを目にすると、そんなふうに自分のことを表現されてしまったほうが困ったことになるなと判断して、掲載を見送ってもらえないかと返事を出した。引っかかったのがその一箇所だけなら、そこだけ直してもらえば済む話なのだけれど、そういう引っかかり方をしてしまうところが何箇所もあって、たとえば坪内さんのことをカギカッコ内のぼくの発言として「彼」とまとめられているのをみると(当然「彼」なんて呼ぶことはない)、自分が大切にしていることを受け取ってもらえていないと感じたのだ(最終的にはQ&A形式にまとめ直してもらって、赤を入れる形になった)。

 最近で言うと、何度か面識がある相手から「ぜひ書評で取り上げてほしい」と連絡があったときも、瞬時に怒りが沸きそうになった。この人は一体なんだと思っているのだろう。知り合いから頼まれれば取り上げるとでも思っているのだろうか。ぼくが書評を書くことに、どれだけ神経を払っているか――もちろん相手はそれを知る由もないにしても、ひとりの書き手として、書評に対してそんな意識でしか向き合っていないのかと怒りをおぼえてしまった。委員になってから、ごく数回ではあるけれど、「ぜひ書評して欲しい」と書き手や編集者から送り先を尋ねられたことがあった。「橋本君にも読んでもらいたいと思って」と送られるならともかく、ぜひ書評をと言われるとげんなりしてしまう。第一、そんなふうに連絡してくる人のほとんどは、僕が委員をしていなければ絶対に本を送ってこないであろう人たちだ。書評をするかどうかは毎回真剣に頭を悩ませているし、「ぜひ書評を」と言われたからといって対象から除外することはないけれど、いざ書評を書こうとするときに、自分の筆が濁ってしまうような気がして嫌になる。

 そういう、他の人から見れば些細なことに思われるかもしれない神経のふれかたについて、『あまから手帖』の取材で関西に出かけるたびに平民さんと岸壁で待ち合わせ、酒を飲みながらぽつぽつ話した。ぼくはもともと世間話ができない上に、間を埋めるように話すとしょうもない言葉を吐いてしまいそうで、夜の海を眺めながら黙々と酒を飲んでいる時間も多かった。そんなふうに話せる(あるいは話さずに過ごせる)相手と出会えることも滅多にないので、その時間はとても印象深く残っている。そのときによく酒を買っていたセブンイレブンハーバーランド店がもうすぐ閉店してしまうのだと、日記を読んで知る。

 16時過ぎに家を出て、神保町へ。16時45分に本の雑誌社にたどり着き、100冊にサインを入れる。40分ほどで書き終えて、「東京堂書店」と「三省堂書店」をめぐり、最後に書評する本を探す。これかなあ、いや、これもアリか、どうだろう。明日の夕方までに判断しなければならないので、念のためにと6冊ほど買い求める。「ランチョン」に入り、生ビール2杯とメンチカツを平らげたのち、日本武道館へ。今日はカネコアヤノさんのライブだ。マネージャーの方からのお誘いに甘える形で、チケットを手配してもらっていたのだが、開演15分前に会場に到着すると関係者受付に長蛇の列ができていて、入場した段階でもう1曲目の歌声が聴こえてきていた。

 もっと早く来ておけばよかったと反省しつつ、2曲目から客席で聴く。ただただ楽しい2時間で、体を揺らしながら堪能していると、あっという間に終わってしまう。最後に演奏されたのは「アーケード」で、イントロのイントロのような演奏から、いよいよイントロが始まったところで客席の照明も含めてすべての照明が点灯された。それが会場のテンションをぶち上げ、それまでほとんど全員座ったまま静かに聴いていたところから、ほとんど全員が総立ちになり、踊りながら聴いている。それはとてもよい光景だった。ただし、1階席の正面という、とても良い位置にある関係者席だけほとんど全員座ったままで、じっと聴いている人が過半数で、お金を払ってきているお客さんに申し訳がたたないような気持ちになる。とはいえ、ひとりだけ立ち上がっても後ろの席の人が見えなくなってしまうので、椅子に座ったまま、ここまでにもましてノリノリで最後の一曲を聴いた。もちろんじっと聴いているからといって演奏に感じ入っていないわけではないと思うけれど、歓声が届けられなくなった今、「楽しんでるぞ!」という感情を、観客のひとりとして舞台上にいる人に伝えたいという気持ちがある。