12月31日

 8時頃に目を覚ます。9時半に家を出て、千代田線と山手線を乗り継ぎ、秋葉原に出る。電車はほとんど貸切だ。2日から帰省する予定なので、今年最後のPCR検査を受けておく。初めて検査を受けるという人も多いのだろう、受付の列はなかなか進まなかった。そして、数日前の検査のときと、唾液採取キットが少し違っている。たぶんきっと、いろんな会社がキットを生産しているのだろう。

 千駄木まで引き返し、「ちよだ鮨」でパック寿司を買って帰る。横断歩道のところで、父親に手を引かれた小さなこどもを見かけた。紙でできたアンパンマンのお面をつけ、手を挙げながら横断歩道を渡っていた。12時になったところで、YouTubeにアップされている立川談志の「芝浜」を観ながら、寿司をつまむ。ビールも2本飲んだ。この噺を聴くのは久しぶりだったけれど、今まで気を留めたことがなかった、「なぜ彼は働きに出ないのか?」ということが気にかかる。一週間や十日ではなく、働きに行かなくなってもう3月になりそうだという。そして、夫婦や家族に対する感覚によって、この話はまるで違うのだろうなと思う。

 14時、知人と一緒に出かける。地下鉄で湯島に出て、上野松坂屋へ。デパ地下はわりと混雑しているけれど、クリスマスほどでもない気がする。まっすぐ「美濃吉」に行き、予約しておいたにしめ重を受け取り、外に出る。おせちや正月の買い出しにきているのだろう、上野松坂屋のまわりには路駐している車がたくさん連なっていて、パトカーがやってきて移動させている。不忍池に出ると、蓮はすっかり枯れている。外国語をしゃべる若者たちが、たむろしてお酒を飲んでいる。正月に里帰りもできなくて、こうして集まって過ごしているのだろう。「みんな靴がきれい」と知人が言う。弁天堂のあたりに5つくらい屋台が出ている。ケバブ、焼きそば、たこ焼き、海鮮焼。店員さんも、そこで買っている若者たちも、きっと外国からやってきているのだろう。「ありがとうございます」と日本語で言いながら商品を渡したあと、「日本語で言うのかよ」といった調子で、店員さんも買い物客も笑い合っている。

 風が冷たくて、手がかじかむ。歩きながらビールを飲みたいとはとても思えず、体を丸めながら根津まで歩く。15時、開店直後のバー「H」でハイボール。すぐにもう1組お客さんがやってくる。「『M』、すごい行列できてたよ」なんてHさんと言葉を交わしているから、きっとご近所さんなのだろう、カクテルを2杯飲んで、僕たちより先に帰ってゆく。壁に貼ってある「分断酒徒番付」を眺める。これを眺めるたびに、「ここに載っている人たちの文章をもっと読まなければ」と思うのに、今年もさほど読み進められなかったなあと思う。今年読んだなかで印象深かったのは、『ツボちゃんの話』と『薬を食う女たち』で、ここまで対象と向き合って書くのかと動揺させられた。ハイボールを2杯飲んだあと、「すみません、もう出してからずいぶん時間が経ってしまったんですけど」と、『東京の古本屋』を渡す。「ここにくるたびに、『ああ、今日も持ってくるの忘れた』って、ずっと言ってたんです」と知人が横から言葉を添えてくれる。

 バー「H」をあとにして、ここ数年のあいだにオープンした蕎麦屋に立ち寄る。少し前に年越し蕎麦のチラシが入っていたので、試しに予約してみたのだ。麺と出汁だけでなく、だし巻き玉子や棒寿司、刺身の盛り合わせも予約できたから、「大晦日の晩御飯に便利だろう」と思って予約しておいたのだ(感染が拡大していた去年の大晦日でも、デパ地下や「吉池」はそれなりに混雑していたので、混雑に巻き込まれるのが不安で、といって近所の酒場は30日までには営業を終えてしまうので、「ここで予約しておこう」と思ったのだ)。軒先にアルバイトスタッフがふたり立っていたので、予約表を渡し、「16時の受け取りで申し込んでいた橋本です」と告げる。ええっと、更級そば2つと、田舎そば2つと……と、商品を探してきてビニール袋に詰めていく。

 そばとツマミを自宅の冷蔵庫に入れて、ライブの現場に出かける知人と別れ、バスで出かける。17時にM&Gの事務所にたどり着くと、Fさんがひとりでおでんの仕込みをしているところだ。「大晦日ってどういうものを用意すればいいのか、よくわかってないんですよね」と言いながら、テーブルにスモークサーモンや生ハムを広げている。ふたりで正月の思い出や亡くなった祖母のことを話しているうちに、18時過ぎ、俳優のN.Hさんもやってくる。Nさんは福岡出身だけれども、両親はもう亡くなっていて、数年前から東京で年越しをしているという。Nさんにも正月の記憶を聞く。Nさんの両親は会社員だったのに対し、親戚は商売人が多く、小学生へのお年玉に1万円を包む人も多かったそうだ。Nさんの両親は、世間的には一般的な金額を包んでいたのに、「あそこの家に行っても、大した額のお年玉がもらえない」とこどもたちに言われていて、それが子供心につらかったとNさんは言う。Nさんの世代だと、当時はちょうどバブルの時代だったから、余計にその差があったのだろう。こどものときに、まわりの大人がどういう金銭感覚だったか、お金に対してどういう接し方をしていたかは、こどもに影響する部分があるような気がする。

 19時半に紅白が始まってからは、Nさんがradikoを起動し、NHKのラジオ放送を聴きながら飲んだ。22時過ぎからまた数人やってくるようだけれど、蕎麦屋でテイクアウトしたツマミがあるのと、知人からも「仕事を終えて帰宅した」と連絡があったので、21時過ぎに「細川たかしは画面越しに観たいので帰ります」と伝えて、タクシーで千駄木に急ぐ。高校生の頃は「演歌歌手なんて」と思っていたのに、今では重石のような演歌歌手の歌いざまが楽しみになっている。惚れ惚れしながら細川たかしの歌に聴き入っていたのに、最後に大泉洋が一緒に歌い出し、妙にがっかりした気持ちになる。23時過ぎにお蕎麦を茹でて、年越し蕎麦を平らげる。あれは白組のラストだったか、福山雅治が「道標」という曲を歌った。家族への愛と、自己犠牲がそこにある。家という場所の中で、やるせなさを抱えて生きている誰かがこの曲を聞いたらどんな気持ちになるんだろうかと(勝手に)想像しているうちに腹立たしくなり、終盤にこんな曲を演奏するのかと憤ってしまう。もう完全に酔っ払っているけれど、どうにか紅白を最後まで見届ける。知人はすぐにチャンネルを『ジャニーズカウントダウン』に切り替えた。知人と一緒に年越しを迎えるということは、そういうことになるのだとわかっていたものの、「ちょっと、『ゆく年くる年』が観たいんだけど」と言ってみる。ジャニーズの子たちが変わる変わるメドレーのように歌う合間に、一瞬だけチャンネルをNHKに戻してもらって、浅草寺の様子を一瞬だけ眺める。