1月12日
6時過ぎに目を覚ます。ストレッチをして、ジョギングに出る。不忍池に出たところで引き返すと、デイリーストア近くの路地で、買ったばかりのスポーツ新聞を広げて立ち読みしているお年寄りがいる。そんなに気になる記事が出ていたのだろうか。シャワーを浴びて、おでんの残りを平らげ、『ザ・ファブル』をラストの22巻まで読んだ。面白かった。続編が始まっているらしいので、『ヤンマガ』をまた購読しようか迷うところ。お昼前に近所の八百屋に出かけて、キャベツを買ってくる。肉屋にも立ち寄り、スジ肉があればおでんに入れるんだけどと思って眺めてみたけれど、やはり売っていなかった。昼はキャベツとベーコンのパスタを作って平らげる。
午後はおでんの仕込みをやりながら、原稿をゆるゆる書く。今年に入ってから、原稿を書くきれがいまいちだ。19時近くになってようやく、どうにかラストまで書き終わり、メールで送信する。19時過ぎ、おでんをツマミに『有吉の壁』を追いかけ再生する。最近はU字工事がリバイバルしつつある。知人は飲んでいるけれど、僕は今日も炭酸水にしておく。ポッカレモンを買っておいたので、レモンサワー気分で飲む。『壁』を観終えると、『ストレンジャーシングス』のシーズン1第2話を観る。知人は海外ドラマだと「顔の見分けがつかない」という。それに、「Eファイルみたいなやつ苦手なんよ」と言って、ケータイをいじりながら斜め見しているけれど、ときおり子役のビジュアルについて感想を漏らしている。それを観終えたところで、『水曜日のダウンタウン』を観た。
眠る前にケータイをいじっていると、「ドキュメンタリー」と「創作」についてのツイートが流れてくる。映像作品にしろ書かれたテキストにしろ、ドキュメントには常に編集が含まれる。だから、まったくの客観的な記録や記述というのは存在しないし、定点カメラで無編集のままだったとしても、そこにカメラを据えた時点で意図が介在している。だから、まったくのフラットなドキュメントはありえないけれど、それをもって「ドキュメンタリーも創作だ」ということには、やはり引っかかる(これは映画監督の言葉に対してというよりも、それを批判した物書きに向けられた再批判に対する違和感として)。僕が書いているノンフィクションも、僕の視点が必ず含まれているし、取捨選択もしているし、編集も加えている。でも、それは「自分が見聞きしたあの時間を完璧にパッケージするにはどうすればよいのか?」という、その一点に拠っている限りに成立するもので、そこで「ドキュメンタリーも創作だ」と言い切ってしまうと、そこから切り離されてしまう気がする。