2月26日

 6時過ぎに目を覚ます。今日の毎日新聞朝刊に、『水納島再訪』の短評が出ているはずなので、ビーチサンダルをつっかけてコンビニまで買いに行く。短評ではあるけれど、右上のトップの位置にあるので嬉しくなる。「著者は取材者として共同体に踏み込んでいくのではなく、旅行者として足を止め、寄り添うように人々の話に耳を傾ける」という一文は、ちゃんとじっくり読んでくれた感じがする。もちろん本のメインは島の歴史と現状ではあるけれど、ノンフィクションを書く人間として気にかけているのは、書き手である私をどこに置くのか、どういう距離感を保つのかというところでもある。

 昨日あたりから、天気予報では「週末からは気温が上がり、花粉が」と報じられていた。先週末あたりから鼻に症状が出始めていたので、6時半、上の階からこどもが駆けまわる音が聴こえてきたところで洗濯機をまわし、早めに干しておく。毎年通っている耳鼻科は9時半からインターネット予約が始まるので、薬をもらっておこうと9時半にサイトにアクセスし、予約申し込んだものの(9時ちょうどから現地で受付をしていた人たちがすでにいることもあって)ぼくの整理番号は22番、85分待ちと表示されている。花粉の飛散が増える前にと、10時半には洗濯物を取り込んで、耳鼻科のサイトで最新の待ち時間を確認しつつ、11時過ぎに耳鼻科に出かける。耳鼻科の看護師さんと先生は厳戒態勢で、緊張しつつも診察は2分で終わり、隣の薬局で薬をもらって帰る。薬局には小さいこどもを連れた女性がちらほらいて、待合室に置かれてある絵本を手にとり、こどもに読ませている。こどもが突然、「…ちたんてい!」と声を上げる。僕は椅子には座らず、貼り紙を読んでいるふりをして立っていたのだけれども、「ちたんてい?」と気になり、目の端っこで様子を伺っていると、女性は本棚に行き、「おしりたんてい、あるねえ」と言って絵本をおしりたんていに取り替えて、そちらを読ませていた。

 お昼、知人はたまごかけごはんを平らげ、散髪に出かけてゆく。僕はしばらく仕事をして、17時に千代田線で北千住へ。駅ビル(?)の10階に上がり、「シアター1010」の稽古場に向かうと、10人ぐらいが列を作っている。今日はここで東葛スポーツの新作『保健所番号13221』が上演される。3000円支払って受付を済ませ、出入り口に一番近い後ろの隅っこの席にマフラーを置いておき、ひとつ下のフロアへ。東葛スポーツは、こんな状況になる前は会場時間にビールの売り子がいて、3本くらい買って足元に置いて開演を待っていた。当然ながら今はアルコールの販売はされていないので、開場時間中に摂取しておくべく、レストラン街をうろつく。昨年ここで東葛を観たときは鶏料理屋に入ったが、その店は少しだけ賑わっているので避け、ひと組だけ先客がいる蕎麦屋を選び、「すみません、ちょっと時間がなくておそばを食べる時間はないんですけど、オツマミだけでもいいですか」と確認すると、え、ああ、はい、と不思議そうな顔をして席に案内される。厨房の奥の雰囲気を見ても、「ええ? お前、蕎麦屋にきといて蕎麦を食わずに帰るってえのか?」と言いそうな雰囲気はどこにもなく、たしかに変な質問だったなと反省する。

 すぐにお出しできるものだと枝豆か板わさだと、蕎麦茶を運んできてくれた店員さんが言う。冷たいものふたつだと、お腹が冷えて上演中にお腹が痛くなるのではと不安なので、板わさと、(10分か15分あればお出しできるというので)だし巻き玉子と、それに生ビールを注文する。時計をみると17時36分だ。すぐに運ばれてきた板わさには、白いかまぼこがきれいに6つ並んでいる。それを見ていると、ああ、これだけで十分だったなと思う。上京してからというもの、ごくたまに蕎麦屋に行くことはあるし、蕎麦屋で飲む、ということを教えてもらいもしたけれど、うどん屋はあっても蕎麦屋はない町に生まれ育ったからか「板わさ」というものが自分に馴染んでいなくて、「××わさ」というフレーズは、まず「たこわさ」を想像してしまって、ああ、それだけでは物足りないかもなと思ってしまう。そもそも18時から上演時間85分の芝居を見るだけだから、そんなにお腹を満たしておく必要なんてなかったというのに。ビールを飲み干すと日本酒をグラスで頼んで、17時52分に出来上がった甘いだし巻き玉子を一気に頬張り、劇場に引き返す。

 18時過ぎに、主宰の金山さんによる開演前アナウンスがある。それを終えると、いつものように音響ブースに移動した金山さんが、さっきまでつけていたはずのマスクを外している。おや、と思っていると、音楽が鳴り響くなか、俳優が出てくるより先に金山さんが舞台に上がり、ラップを始める。そのクオリティにも、言葉の強度にも、胸を打たれる。昨年予定されていた東葛スポーツの公演は、主宰者がコロナに感染した影響で公演中止となっていた。そのこと自体を作品で扱うのだということは、今作のタイトルからも感じていたけれど、その開会宣言のようなラップに圧倒される。2020年の終わりに観た『A-(2)活動の継続・再開のための公演』は、それ以前の作品と比べても、舞台に立つ俳優の内側を引き出したかのようなラップが際立っていた。それを、今回は自分自身を対象として、言葉が紡がれるのだろうかと期待を膨らませる。

 作品自体は、新作を書けずにいる劇作家とその妻のやりとりを軸に進む(その点では私小説的な構図にまずは見える)。そこで「こんな話はどうだろう?」と劇作家がアイディアを語り出し、そのアイディアを一幕演じてみる――で、また家庭に戻り、別のアイディアの話になり、と進んでいく。そこではオリンピックや、三島由紀夫、パルコ劇場、『ドライブ・マイ・カー』などが俎上に載せられる。いまこのタイミングで東京オリンピックを俎上に上げるのかとも思うけれど、その根底にある、オリンピックっていうのはもっとこう、美しいものだったんじゃないのかという違和感が残り続けている感触は伝わってきて、そこに「ネタとして遅い」も何もないよなと思う。

「星のホールでやっている演劇は大体〜〜」だとか、そういう演劇的な文脈をネタにしたぼそっとした毒に、客席から笑いが起こる。終盤のラップで、「内輪」という言葉が別の誰かに対する批判として使われていたような気がするけれど、あの客席の雰囲気が結局のところ内輪受けに感じてしまって、どうしてもげんなりしてしまう。もちろんそういうディスりをついまぶしてしまうところに劇作家らしさが宿っているのだとはわかっているけれど、そこで生じる笑いは苦手だ。そんな笑いが起きることに満足しているのだろうかと思ってしまう。前作の『A-(2)活動の継続・再開のための公演』は素晴らしかったけれど、その序盤に、ミヤシタパークのことを俎上に載せた場面からの流れで、空き缶を拾い集めて生活している男性が舞台におかれる。そこに空き缶が落ちてくる。舞台の奥に「菅」の文字が映し出されると、男性は「カンは潰しましょう」と語り、空き缶を踏み潰す――その瞬間に、胸を打たれかけたものの、周囲から笑い声が起こり、強い違和感をおぼえた。そこは、笑うところなのか? 同じことは終盤、「10回クイズ」の話が語られるシーンでも感じた。最近の日本人だと、10回クイズに引っかかる人もいないけど、日本語がまだ拙い外国人労働者に「就労ビザって10回言ってみて」と伝え、「じゃあ、ここは?」と地面を指差し質問してみたところ、「冷たい国」ってちゃんと答えてて、引っ掛からなかったんですよね、と舞台上で俳優が語る。その瞬間に、近くの観客から「おお〜」と感心したような声が漏れていた。そこは、おお〜、なんて言葉で済ませられる言葉なのだろうかと、ずっと引っかかっている。

 それはあくまで観客側の話ではあるけれど、今回の作品で引っかかったのは、家族に対して感じる愛おしさが語られる場面だった。その子のためなら自分は発泡酒で構わないとラップで語られるのだが、そこで語られる言葉には、冒頭で開会宣言のように語られていた葛飾、金町だからこその言葉というものが感じられなかった。この作家だからこその言葉というものを感じなかった。同じ言葉を、どこか全然違う郊外の土地に置き換えて、そこに暮らす誰かが言っている言葉だとしても、なんの違和感も起こらないだろう。もちろんこどもが生まれたときに感じる気持ちというのは、そういう普遍性があるものなのかもしれない。ただ、どうしても、言葉がありふれたものになってしまっているように感じてしまった。

 そんな感想を抱えていると、どうしても自問自答させられる。そんな感想を抱くということは、自分は普通の感情というものを、ありふれた感情というものを、どこかで蔑ろにしているのではないか?と。ただ、作家が綴る言葉は、ありふれた感情を描くのであったとしても、輝きを放っていてほしい。