3月5日

 5時過ぎに目を覚ます。読書灯をつけて少し本を読み、6時になったところで湯を沸かし、コーヒーを淹れる。上の階から物音がする。「これはもう起きてるかな?」と、確認のために外に出てあかりを確認する。そもそも上の階も同じ間取りなのだから、洗濯機置き場はダイニングの片隅であるはずで、そこで寝ているわけではないだろうと洗濯機をまわす(そもそも洗濯機の音が響きやすいのは下の階だけれども、下の回は住居ではない)。7時に洗濯物を干し、1時間ごとの花粉飛散予測を見ながら、じりじりした気持ちで洗濯物が乾くのを待つ。まだ乾いてはいないけれど、10時半には取り込んだ。

 昼は知人の作るサバ缶とトマト缶のパスタ。僕はビールを1本、知人はワインをグラスで1杯。あんなにビール党だった知人が、最近ではすっかりワイン派だ。12時半、新宿南口で急遽開催されることになった、戦争反対とウクライナ侵略によって傷ついた人たちのサポートを呼びかけるイベント「No War 0305」のライブ配信にアクセスしてみる。ちょうど始まったところらしく、マイクを持った誰かがステートメントを語っているところだ。この戦争によって傷ついたあらゆる人をサポートしたい、といった言葉が語られるとき、「あらゆる」という言葉が強調される。「あらゆる、というのは、」と言葉が再び強調される。そこにどこか違和感をおぼえてしまって、一度配信画面を閉じる。

 メールを数本送り、14時に知人と連れ立って家を出る。今日は天気も良く、知人も朝から「散歩に行きたい」と言っていたし、春に向けて新しいシャツの1枚でも買いたいし、「No War 0305」も目にしておきたいし、散歩に出ることにしたのだ。登壇者の中には郁子さんの名前もあって、ふと「郁子さんと話したいのう」とつぶやく。「話したいって、どういうことよ。バックステージに入り込んでいくつもりなん?」と知人が言う。たしかに、「話したい」って、どうして自分はそう口にしたんだろう。あくまで郁子さんはステージに立つだけだし、バックステージで出待ちをするつもりもまるでなかったのに。

 千代田線と都営新宿を乗り継ぎ、新宿三丁目に出る。するすると路地を抜け、南口に向かう。甲州街道のガード下では、そこで寝泊まりしている方がお昼を食べているところで、その脇を通り過ぎた若者がギョッとしたように何度も振り返っている。ニュウマンの手前にあるエスカレーターを上がると、特設ステージが見えた。さっき映像でちらりと見てはいたけれど、想像していたよりしっかりステージを組んである。ボランティアだろうか、スタッフが随所にいて、マスクの着用やソーシャルディスタンスの確保を呼びかけるプラカードを掲げている。甲州街道のニュウマン側の広々とした通路のうち、車道側の半分ぐらいの範囲にロープによる仕切りがあって(ロープは張られているのではなく、出入りしやすいように地面に置かれてあるだけ)、そこに集まった人たちがぎっしり並んでいる。

 外だし、皆マスクを着用しているとはいえ、ぎゅうぎゅうのところに入っていくのもなあと歩いていると、「橋本さん!」と手を振る人がいる。見るとT.Sさんで、ひとりでここまでやってきたようだ。短く挨拶をして別れ、集会から少し離れたところ、横断歩道とサザンテラスのあいだあたりに佇んで、しばらく様子を見守る。すると、小さい椅子のような、お立ち台のようなものを持った女性グループがやってきて、横断歩道脇に置いて、なにやら楽しそうに話している。彼女たちも集会に参加するつもりで家を出て、椅子に座って見ようとしているのだろうか。でも、さすがに歩道に椅子を置いてしまうと警察に注意されるのでは――と思っていると、機材を抱えた男性がやってくる。その男性を囲むように、7、8人の女性がすぐに列を作る。どうやら今からそこでライブをするようだ。きっと日曜日にはここでライブをするのがお決まりになっていて、だからお立ち台みたいなのをファンが持ってきていたのだろう。すぐ近くで集会をやっていて、「さすがに今日はやめておくか」とはならなかったのだなあと思う(もちろん、集会をやっているから自粛する必要なんてまるでないと思うけど)。

f:id:hashimototomofumi:20220306164626j:plain

f:id:hashimototomofumi:20220306164616j:plain

f:id:hashimototomofumi:20220306164551j:plain

 15分ほど眺めたところで、少し移動する。甲州街道のガード下をくぐって東南口に出る。すごい人出で、人と接触しないように歩くのが大変だ。エスカレーターには長蛇の列ができているので、階段を上がる。ルミネに入ろうとしたところで、ふと道路の対岸に目をやると、七尾旅人さんが舞台に立つ姿が見えた。もともと動線が酷いルミネの入り口はごった返している。どうにか上の階に上がり、数軒まわってみたものの買いたくなるような服は見当たらず、そもそも人が多いことに辟易して、すぐに外に出る。今日は啓蟄と朝の番組で言っていたことを思い出す。入り口近くの階段にこどもがふたり寝そべるように佇んで、ゲームで遊んでいた。甲州街道の向こう側で、七尾旅人さんがちょうど歌い出すところで、その曲はぼくの一番好きな「きみはうつくしい」で、ときどき空を見上げながらじっと聞き入る。

 しばらく佇んだり、またニュウマン側に渡ってみたり。次第に足がくたびれてきて、どこか腰を落ち着かせてビールでも飲めないかと彷徨う。ステージの脇を通り過ぎ、エスカレーターに乗ろうとしたところで、こちらに手を振る人の姿が視界に入ってくる。おや、と視線を向けると、手を振っていたのは郁子さんだった。今から帰るところ?と聞かれたので、いや、ちょっと向こう岸から見ようと思って、と伝える。そっか、そうなんだ。明日、観に行こうと思ってます、と郁子さんが言う。短く言葉を交わしただけで別れたけれど、まさか本当に言葉を交わせるとは思っていなかったのでびっくりする。ちょうど大友良英さんがステージに立つところだったので、甲州街道の向こう岸へと移動する。別の方向から何やら拡声器越しの声が聴こえてきて、これは革マルだろうなといい加減なことを言っていると、東南口の広場に革マルの旗が掲げられていて驚く。新宿に買い物にきたのであろう若者たちに、すっ、すっ、すっ、とビラを差し出し続けている。そこを通り過ぎて階段を上がり、大友さんの演奏を聴いた。

 それを聞き終えたところで、新宿駅の東口にまわり、改札近くのお店に向かってみる。そこでビールでもと思ったもののほとんど満席で、マスクを外して話している人の姿もあるので入るのが躊躇われる。時刻は16時半、ちょっと早いけど池袋に移動する。リニューアルされた西口公園にあるカフェも満席だったので、コンビニで缶ビールを買って、西池袋公園へ。夜間の飲酒は禁止と看板が出ている。ということは、昼間は大丈夫だろうと思いながら(こどもがたくさん駆け回っていて、親子で遊んでいる人たちもたくさんいるから、ビールを持って立ち寄ることに抵抗をおぼえてしまう)、公園の片隅に座って知人と乾杯。飲み干したところで立ち上がり、東京芸術劇場に向かう。知人と別れようとしたところで、「『観て行かんのん?』って言わんのんやね」と知人が言う。昨日まで12公演が中止になってしまった影響もあり、今日と明日の公演は完売していて当日券の販売もなく、そんな状況下で「関係者席を1枚」と言えるはずもなく、今回は知人を誘っていなかった(僕はもともと今日のチケットを購入してあった)。

 18時、『Light house』を観る。何がどう変わったのか――最初から最後まで素晴らしかった。沖縄公演はもちろん、東京公演の初日ともまるで違う印象を受ける。前に観た2回は、台本/演出上のタイムラインに間に合うようにと俳優が台詞を語り、動いているような印象が強かった。俳優が自分に課されたオペレーションをこなしていくように見えるというか(いや、もちろんそれが俳優の仕事ではあるのだけれども)、発語や動きがひとつのタイムラインに集約されているように感じられていた。でも、昨日観た回は、登場人物ひとりひとりの時間が立ち現れてくるようで、まるで印象が違った。物語が進むにつれて、何年か時間が経過していくのだけれども、そこもこう、「経過」というよりも、いくつもの時間が並置されていくような感触があった。だからこそ、終盤に語られる言葉が、何かひとつの現実を言い当てているのではなく、ありとあらゆる場所につながっていくような響きを持っていて、そこも沖縄公演や東京公演初日とは印象が違っていた。

 今回の「新作」は、これまでの「新作」とは言葉の手触りが違っていたように感じる。たとえば『BOAT』であれば、ラストに語られたのは「未来はあるか?」という言葉で、その言葉を観客に対していかに突き立てられるか、それだけの言葉を言えるかどうかが俳優に求められるところだったように思う。でも、今回は観客に言葉を突き立てるだとか、観客に俳優が対峙するだとか、そういったことを目指して作られた作品ではおそらくなくて、そこで抽象度の高い言葉をどのように発語するのか、かなり難しかったように思う。舞台の終盤には、舞台上にサバニの帆が張られ、奥には灯台のようなものも配置されている。俳優も観客と同じように、サバニの帆や灯台を見上げながら語るというのであれば、少し語りやすそうな台詞だなという気がしていたのだけれども、俳優は客席側に体を向けたまま発語していた。その意味も、昨日の上演を見ていて、ようやくわかったような気がした。

 舞台上に立っている誰かは、観客であるわたしたちとは違うどこかに立っていて、そこからわたしたちとは違う何かを見ている。そこで何かにひかりを見出し、その誰かは生きている。舞台上に立つ誰かは、それぞれが勝手にというか、どこかになにかひかりを見出している。その姿を、観客であるわたしたちは見ていたのだなと、この日の上演を観ていてようやく気づく。終演後、珍しくロビーに残る。他の観客がいなくなる頃まで佇んでいたせいか、制作のKさんが裏に戻り、Fさんを呼日に行ってくれる。今日の回はよかったです、と、それだけ伝えておきたかった。