3月17日

 レンタカーを走らせ、本部町へ。10時45分に本部新港に到着してみると、入口にいたガードマンから「駐車場は満車ですし、もうすぐ船出ますよ?」と言われてしまう。ただ、ここで「そうですか、、」と引き下がったら終わってしまうので、「あれ、11時出発ですよね?」と馬鹿な観光客のふりをして聞き返すと、港の端っこに駐車するための紙を渡してくれる。切符を買って、船に乗り込む。水納島の航路と違って、住所氏名連作先なども書かなければならず、少し慌てたけれど、5分前には船に乗ることができた。船はやはり大きく、船内に売店まである。僕はデッキに佇んで出港する様子を眺め、洋上の水納島を眺めていた。30分ほどで伊江港に到着する。初めて見る伊江港は、座間味あたりの港にも似て、立派な施設だ。2013年の秋にFさんやAさんと一緒に美ら海水族館まで足を延ばしたとき、海の向こうに不思議な形の島を眺めてから、10年越しでようやく伊江島に足を運んだ。レンタサイクルを借りて、エースバーガーでハンバーガーを頬張り、事故が起きたばかりの飛行場を眺め、「涌出」という水源地を眺め、米軍の土地接収に対する抵抗運動の拠点となった団結道場を眺め、ああ、『米軍と農民』で読んだのはこのあたりの話だったのかと思い、だだっ広い場所を自転車で走り、こんなだだっ広い場所だと戦争のときどうやって隠れることができたんだろう、隠れられる場所なんて限られていて、もし今戦争が起きたらと想像すると恐ろしくなる。伊江港近くまで引き返し、アーニー・パイルの碑を見学し、旅の往来の安全を祈願する場所だったという拝所と、そこにある日本式の鳥居を見、その近くの浜に「この地は、17世紀中頃から昭和22年までの間、永年に互り島の玄関口として、戦争への出兵兵士、大和旅に上る者」が利用した「生活の港でもあった」という看板を読み、ラム酒醸造所を見学する。事前に予約フォームから申し込んであったが、見学者は自分ひとりで、「質問があったら何でも聞いてください」と言われ、せっかく島に行くのだからという軽い気持ちで無料の見学ツアーを申し込んだだけだから少し申し訳ないような気持ちにもなる。今年の仕込みはちょうど終わったばかりだという。醸造所に向かう途中で、気になっていたことがあった。それは、醸造所のあるあたりへと角を曲がった途端にいやなにおいがして、そのにおいの正体が気になっていた。それは醸造の途中に生じるにおいなのだろうか――だとしたら申し訳ない質問だなと思っていたら、そのにおいは隣にある製糖工場からのにおいで、しぼりかすが溜まってしまうと独特のにおいが一帯に漂うのだと教えてくれた。見学を終えると、あれやこれやと試飲させてくれる。もう販売終了したものまで飲ませてくれて、「じゃあ、今日はどうも、、」と帰るわけにはさすがにいかないよなあという気持ちになり、自分のぶんと、お土産に渡すぶんとに、一番上等なやつを2本買っておく。そのほかにもう1本買ったのも合わせると、会計は2万円だ。お酒を試飲して少し上気したままヌチドゥタカラの家という資料館の見学に向かうと、そこに収蔵された抵抗運動の歴史を示す物たちに圧倒される。その後、多くの人が命を落としたガマの前まで行き、宿に引き返す。しばらくホテルで休んだあと、どこかで食事でもと様子を伺いながら島を歩く。お寿司屋さんを覗くと、広々とした店内にお客さんがひと組いるだけだったのでお邪魔して、マスクをつけ外ししながら地元の泡盛を飲んだ。もうひと組のお客さんはほどなくして帰り、貸切となる。握りのセットを注文する。運ばれてきたものを頬張ると、しゃりがほろっとしていてうまい。もちろんネタもうまいのだけど、やっぱりしゃりがうまい。そのことを語弊のないように注意しながら伝えると、「ここは離島だもんで、フリーのお客さんには申し訳ないんだわ」と大将が言う。「事前に予約をもらっておけば、いろいろと地の魚を仕入れとくこともできるんだけど、なかなか難しいんだわ」と。貸切だからとあれこれ話を伺っていると、大将は中学卒業後は島を出て、その後名古屋のお寿司屋さんで修業したのだと知る。そうか、名古屋の言葉だ、と腑に落ちる。追加でかっぱ巻きも頼んで、お腹を満たしてお店をあとにして、宿に戻る。缶ビールを手に、ウミガメの形を模した展望台に向かう。対岸には水納島があるはずなのだけれども、真っ暗だ。灯台のひかりだけが、一定の間隔で届いてくる。しばらく展望台に佇んでいると、雷が走る。