3月18日

 夜中には嵐となり、コンテナハウスのような宿には雨音が猛烈に響いていた。が、すぐに二度寝する。夜が明けても嵐のように雨が降り続けており、傘もなにも持っていないのでタクシーを呼び、朝8時の便を目指して伊江港へ。売店を眺めていると、「おう、おはよう」と声をかけられ、ここで誰かに話しかけられることなんてあったっけと振り返ると寿司屋の大将だ。これからこどもの入学金を払いに行くのだという。昨日のうちに自分はライターだと身分を伝えてあったものの、そのときは名刺を持っていなかったので、「今日こそ名刺交換だな」と大将に言われ、名刺を交換する。せっかくだからと、『水納島再訪』もお渡しする。これで伊江島にも1冊は届いたことになる。

 今日は10メートルを超える風が吹いており、水納島の航路は当然のように全便欠航となっていた。伊江航路はびくともせずに運航している。船内の売店でおにぎりとホットコーヒーを買う。おにぎりの味は、せっかくだから「みそ」を選んだ。フェリーには意外と若者のグループ客も乗船していて、同じく売店金ちゃんヌードルを買って平らげながら談笑していて、無敵だなあと思う。驚いたのは、若者グループの多くが駐車場ではなく、バス乗り場に向かっていたことで、少し前に「免許を取得する若者が減り、レンタカーがないと不便な沖縄は敬遠され始めている」なんてニュースも出ていたけれど、ああ、本当だったんだという感じがする。だからこそ那覇–本部も高速船を就航させたのだろう。

 当初の予定では水納島に渡るつもりだったけれど、欠航では手も足も出ない。ただ、明日は船が出そうな予報だから、水納島には明日日帰りで向かうことにする。とすると、今日はぽかんと一日空いている。飛行機から見えたことを思い出し、辺野古まで車を走らせる。テントの下にはまばらではあるが座り込んでいる人がいて、ゲートには後ろで手を組んだ姿勢を保ち続けている警備員がずらりと並んでいる。久志郵便局の近くに車を停めて、ヘビが出ないかと注意しながら小さな山を分け入り、展望台に出る。ここを訪れるのは3年ぶりで、前回は2019年1月の終わりにA.IさんやY.Fさんと一緒だった(あのときは『Iさん』に掲載される写真を撮影したあとだった)。あのときと違って、重機が稼働する音が海から響いている。ただ、前回訪れたときにはもう土砂の投入は始まっていたはずだから、あのときは偶然作業がストップしている日だったのか、それとも自分の記憶から音が消えてしまっただけなのか。ここからみても、思いのほか埋め立ては進んでいる。Googleマップを開き、そこが灯台の跡地だったと知ってびっくりする(もしかしたら最初に訪れたときにも灯台跡地だと説明を受けていたのかもしれないけれど、その段階ではまだ灯台ということはキーワードとして引っかかるものになっていなかった)。

 せっかくだからと、辺野古漁港にも行ってみる。2015年、それこそ水納島滞在を終えた日にここを訪れている。皆でスカシカシパンを探して歩いたときのことを思い出す。あの日は洋上に抗議のボートが浮かんでいたし、もっと先まで砂浜を歩くことができた。今はもう、堤防のあたりまでしか進めなくなっている。堤防は海辺の岩礁にある神社へと続いている。漁を終えて着替えている方に、「あそこの神社まで行ってみても大丈夫ですかね?」と確認して、そこまで歩く。フェンスの向こうにはガードマンがひとりいて、こちらを警戒している。しばらくして振り返ると、ガードマンがふたりに増えていた。

 再び車を走らせ、名護へ。記事を書くために、復帰当時の琉球新報が読みたくなって、名護の図書館を訪れてみると、なんと縮刷版ではなく当時の紙を製本して保存されている。資料として複写したいものの、半世紀前の紙は脆くなっており、また製本されていることもあってコピー機に載せるのが大変そうだ。容易にびりっと破れてしまいそう。不安になって、カウンターのスタッフの方に相談し、お金を払いたくないというわけではないのだけれど、破損せずに複写する勇気がなく、またノドのあたりもしっかり見えるようにしたいので、写真で撮影する形にさせてもらえないかと尋ねてみる。上司の方に掛け合ってくれたものの、「破損した場合でも、責任をとってくれとは言わないので、コピー機で」との返事だった。一日分の新聞をコピー機に載せるならともかく、一ヶ月分を綴じたものをコピー機の上にひっくり返すのは神経がすり減ってしまうので、ほんの数枚だけにとどめておく。

 図書館を出て、クリーニング店を探す。最初に向かったお店はもう閉店してしまっていて、中がからっぽになっていた。次に向かったお店は、営業していたものの、もうすぐ閉店すると貼り紙が出ている。沖縄入りした日に着ていた長袖シャツ――この春買ったばかりのもの――を、日曜日のトークイベントで着るつもりで、ちょっと皺が目立ちやすい感じなので、クリーニングに出す。差し出したシャツを見て、「作業着?」と店主が言う。いや、普通のシャツです、と言葉を返す。たぶんこのとき自分の心の中には、「いやいや、ルミネで買ったシャツですよ、わりとおしゃれなやつなんですよ」と、言い返したい気持ちがあったように思う。もっと正直に書けば、「わかってもらえないかもしれないですけど」と、思っていた気がする。僕の言葉を聞いた店主が「なんでこんなくしゃくしゃになってるの」と言うのを聞いて、消え入りたい気持ちをこらえつつ、「旅行で来てまして、鞄に押し込んでしまってて……」と弁明する。明日の夕方までに仕上げてもらう約束をして、料金を払ってお店を出る。

ドライブインレストランハワイ」でAランチをぺろりと平らげ、本部町営市場の「みちくさ珈琲」へ。店内の営業を再開されている。ホットコーヒーをいただきながら少しお話しして、『水納島再訪』を追加で納品する。今帰仁まで車を走らせ、「リマタピオカサンド」。先日、舞台作品に向けた鼎談企画でお話を伺った――そしてM&Gの皆と一緒に会ったことがある(ものの直接言葉を交わしたことのない)Aさんのお店だ。飲み物だけ注文すると、「もしかして、、橋本さんですか?」とAさんが気づいてくれる。こないだまで上演されていた作品について、それにM&Gについて、あれこれ話す。Aさんはフィッシュマンズのマネージメントをされていた方でもあって、制作者目線での話もあり、しみじみ聞く。

 16時半に本部まで引き返し、町立博物館で今月から始まった『1945年 本部』という写真展を観る。1945年7月に渡久地に配備され、偵察任務にあたっていた第91上空写真偵察航空団の兵士が撮影した写真が残っており、それを発見したアメリカの写真蒐集家の方が本部町に寄贈した写真を使った展示だ。偵察航空団は日本がポツダム宣言を受諾したことで役割を終えて、10月には撤収しているので、展示されている写真はわずか4ヶ月のあいだに撮影されたものということになる。そこには谷茶の哨戒魚雷艇(patrol torpedo boat、通称「PT」の)基地を空撮した写真もある。渡久地港のすぐ近く、谷茶公園周辺に「PT」があったという話は字誌などにも書かれてあるけれど、その写真を見たのは初めてで興奮する。

 印象深かったのは「ランドリーガールズ」たちの写真だった。米軍キャンプには、日本人の若い女性たちが「ランドリーガールズ」として働いていたらしく、彼女たちを撮影した写真も残されている。その写真が撮影されたのは沖縄で組織的な戦闘が終了してすぐの時期から、その4ヶ月後だ。本部町でも激しい戦闘が繰り広げられたにもかかわらず、そこに写っている女性たちは皆笑顔だ。その笑顔のまぶしさに驚く。また、おそらく地元の集落に残っていたのであろう人たちの写真もあり、彼らもまたわりあい笑顔で写真に写っている(しかし、この時期は住民は収容所に連れて行かれていたはずだけれども、残り続けていた人もいるのだろうか)。もちろん、写真に切り取られた一瞬だけで何かを判断することはできないし、こどもたちはわりと不安そうに写っているのだけれど、ランドリーガールズの笑顔があまりにも印象に残った。

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