10月3日

 7時過ぎに目を覚ます。ツアーが始まる頃から毎晩酒を飲んできて、ここ数日は夜市でお土産に買ったワインをかぱかぱ飲んで酒量がさらに増えているせいか、体がずーんと重く感じる。これは……さすがに休肝日が必要だ。ソファに寝転がりながら、インタビューのことを考える。ちょっと慎重に質問を考える。ツアーの最終地で、N.Aさんにインタビューしたときのことが頭をよぎる。「この土地に滞在しているあいだに話を聞かせてもらいたい」とお願いしてあったものの、なかなかタイミングが見つからず、滞在数日目の24時頃に「このあとでもよければ」と連絡をもらって、宿舎の談話室で話を聞かせてもらった。これまでNさんには何度となく話を聞かせてもらってきたけれど、その日のインタビューは「ああ、これはよくないインタビューだ」と、話を聞いている段階から反省させられるものだった。それは、ひとつには深夜だったので僕が酒を飲んでいたせいもあるけれど、これまでだって飲んだあとに話を聞かせてもらったことはあるから、それだけが理由ではないだろう。ツアー最終地でのインタビューとあって、観客であり聞き手である自分も、舞台上で巻き起こっていることをしっかり見抜いた上で話を聞かなければと気負ってしまっていたせいで、僕の見立てをもとに話を聞く、という展開になってしまっていた。インタビューの途中で、「すいません、今日のインタビューはあんまり良いインタビューとはいえないので、もしも時間があれば改めて後日」とお願いして、翌日に改めてインタビューを収録することになった。なるべく相手の内側にある言葉を引き出せるように、引き出せるようにと注意を払いながら話を聞かせてもらったので、二度目のインタビューはとても良い内容になった。収録後、Nさんも、「昨日、橋本さんが『今日のインタビューは聞き方がよくない』ってずっと言ってて、そんなことないよって思ってたけど、たしかに今日のほうがちゃんと話せた気がします」と言っていた。そのことをうっすら思い返しながら、質問リストを作る。

 今日は焼きそばの気分だったが、12時近くになって近所の八百屋に行ってみると、まだ全然商品が並んでいなかった。踵を返し、セブンイレブン新福菜館のラーメンを買ってきて平らげる。金延幸子『み空』を聴きながら電車に乗り、13時57分、千駄ヶ谷にあるYさんのアトリエに行ってみると、もう写真家のKさんは到着していてアイスコーヒーを飲んでいる。アトリエの扉は開け放たれている。僕がiPadだけ手に持っている姿を見て、「あれ、橋本さん、お住まいはこの近所なんですか?」とKさんが言う。ふたりとも舞台『c』をご覧になっていたので、その話を少ししたあと、制作日記に向けてお話を伺う。こうしてYさんに話を伺うの久しぶりだという感じがする。取材が終わったあと、レイアウトの話になって過去の記事を開いたYさんが、ああ、制作日記でKとAちゃんと一緒に都内を巡ったのは3年前の10月でしたね、と言う。もうそんなに経つのかと、不思議な感じがする。不思議な感じばかりする。

 アトリエをあとにして、明治通りを歩いて新宿に出る。花園神社あたりで分岐する明治通りの、東側のルートにバイパス(?)を通すようで、大規模な工事をやっているところだ。甲州街道との交差点まで出てみると、すっかり風景が変わっていることに気づく。このルートを北上してきて見える風景といえば、光麺、マンボー、そばやという並びとして記憶に残っているけれど、目の前にあるのは山下本気うどん、テナント募集中、回転寿司という並びだ。あとでGoogleストリートビューを確認すると、そばやは2020年2月の時点で閉まっていて、光麺とマンボーも去年5月には姿を消している。コロナ禍になって、いかに自分が街に出ていないかを痛感させられる。新宿の光麺にはいちども入ったことがなかったけれど、それでも妙に寂しさを感じるのは、池袋や高田馬場の店舗をたまに利用していたからだろう。僕が上京した2002年ごろはラーメンブームで、いろんな雑誌やムックでラーメン特集が組まれていて、そこで名前を知っていたラーメン屋が、自分が暮らすことになった高田馬場に店舗があって、ちょっと夢を見ているような心地で最初に入店した日のことが記憶に焼き付いているからだろう。田舎町に生まれ育ったせいもあって、メディアで紹介されているお店に散歩がてら出掛けられるということに、まだ現実感がなかったのだと思う。

 ディスクユニオンに入り、ええとワールドミュージックのフロアはとエレベーターの表示を確かめて、4階に上がる。ペレス・プラードハリー・ベラフォンテを1枚ずつ聴いただけだけれども、なにかそのあたり、もっと昔に遡って聴いてみたくなった。ただ、右も左もわからず、どれから買えばよいのかわからない。とりあえず「ソノ」の棚を眺めて、戦前の録音のものを探してみる。いくつか目に留まったものがあるけれど、「これはサブスクで聴けるやつなんだろうか……?」と、棚の影でこそこそ検索してしまうのが我ながら情けない。そんなこと気にせず買えばよいのだけれども、サブスクでは聴けないものも膨大にあるのだろうから、買うならそっちにしたいと、そんなことを思ってしまう。

 スーパーで買い物を済ませて、17時過ぎに千駄木まで帰ってくる。団子坂から空を見上げると、うろこ雲が広がっているのが見えた。帰宅後はCDをパソコンに取り込んで、さっそく『Septeto Nacional De Ignacio Piñeiro』から聴き始める。アルバムの説明書きには「現代キューバ音楽及びサルサのルーツになったソンの全盛期を代表するグループ」「1927年に結成され、現在までキューバを代表するグループとして活躍する」とある。楽器の名前を何にも知らないから何の音と書けないけれど、ちゃかぽこした音が響く。こここここと、しばしば小刻みに連打される。どういうタイミングが連打のしどころなんだろう。そして、歌詞カードはまったくついていなかったけれど、歌詞として歌われているのはどんな内容なのだろう。音を純粋に聴けばいいじゃないかと言われればその通りなのだけれども、文化的なというのか、背景にあるものに触れたくなる。そういえば中南米マガジンってその後どうなったのだろうと検索してみると、今年の夏には30号発刊記念ライブが開催された情報が出てきて、その継続的な取組に頭が下がる思いがする。

 久しぶりの休肝日で、夜が物足りなく感じてしまうかと少し不安だったけれど、聴いている音楽のせいかそんな気にもならず。かぼちゃの煮物と、カブと油揚げの炒め物を作っておいて、20時ごろに帰ってきた知人と晩ごはん。「よくそんな普通に日常に戻れるね」と知人が不思議そうにしている。知人もこの秋本番があったけれど、それ以降はうまく日常生活に戻れなくて、惣菜を買ってきて食べる気にしかなれないらしく、ツアーから帰ってきて1週間経った段階で料理をしている僕のことを不思議そうな目で見ている。

 知人は発泡酒、僕はソーダストリームで作った炭酸水にポッカレモンを垂らして飲みながら、録画したテレビ番組を観る。酒を飲んでいないのだから当たり前だけど、1時間、2時間たっても意識がはっきりしたままだ。録画してあったドキュメントJ『還らざる日の丸~復帰50年 沖縄と祖国~』を観る。おそらく5月に沖縄で放送されたドキュメンタリーなのだろう。1987年の海邦国体の際に、読谷村ソフトボール会場で日の丸を燃やした男性をめぐるドキュメント。日の丸のもとに集団自決が起きた戦前の記憶と、戦後のアメリカ統治下の時代に平和で民主的な国家に生まれ変わった祖国への復帰を願って日の丸を振った時代と、その期待が裏切られた復帰後と。その男性は楚辺通信所の軍用地の地主でもあり、土地の使用期限延長を拒否したものの、土地は強制的に使用が継続され、その2年後には国会で改正駐留米軍用地特措法が成立し、地主の同意がなくとも使用ができることになってしまう。ドキュメントの終盤に、その法案が施立した日の国会の様子が映し出される。傍聴席で憤りを示す男性や反対者の様子を、遠巻きに、ぼんやり眺める国会議員の姿が忘れられない。僕もその時代に生きていたはずだけど、その国会議員と同じような感覚しか抱いていなかった。自分がそんなふうに傍観してしまっている土地や人は、膨大にあるのだろう。