2月21日

 7時過ぎに目を覚ます。入院中はエアコンの設定温度が26℃の世界にいたせいか、かなり寒く感じる。どうにか布団から這い出し、ゴミを捨て、洗濯機をまわし、放置したまま眠ってしまった洗い物を済ませ、コーヒーを淹れる。それだけでも少しくたびれる。朝はごはんと納豆、インスタントの味噌汁、惣菜売り場にあったきんぴらごぼうを少しと、それにシシャモを2匹焼いて平らげる。

 朝からウェブ連載の原稿を書く。もう花粉が飛んでいるので、洗濯物は飛散が少なそうな10時までに限って外に干して、あとは部屋干しにする。11時を過ぎたあたりで、ああそうだと、入院していた病院に電話をかける。昨日の退院時に、「入院中に使っていた軟膏を使い切ったら、今度はこっちの軟膏を患部に直接塗ってください」と言われていたけれど、「患部を直接触って大丈夫」と医師に言われていないから、ちょっと不安だ(座り仕事に関して、看護師と医師で言っていることが正反対だった経験があるせいで、不安が増している)。「退院時にもらった軟膏は、ガーゼに塗って当てておくのでもよいのか」と尋ねると、「いえ、もう、患部に直接塗ってください、はい」と電話の向こうの相手が言う。医師から「もう患部を触っても大丈夫と言われてなかったから、不安なんですけど、もう触っていいんですか?」と念のために聞き直すと、少々お待ちくださいと電話が保留になり、「もしもし、ガーゼに塗って当てていただくのでだいじょうぶです」と言われる。もうひとつ気になっていたのは、入院のしおりの「退院後の生活」の欄に、「ガーゼをこまめに取り替えてください」と書かれてあったことだ。「この『こまめに』っていうのは、どれぐらいの頻度ですか」と尋ねると、「お手洗いのたびぐらいですね、はい」と電話口の女性が言う。「じゃあ別に、一時間に一回とかではなく」と聞き返すと、「はい、そうですね、はい」と返される。さっさと電話を切りたい気配に満ちている。こいつ……と思うが、電話口で何を言ったところで仕方がないので、電話を切る。どうして「こまめに」なんて曖昧な表現で書かれているんだろうかと不満に思う。

 昼はポーク玉子と、もやし炒めと、ブロッコリーと、ミニトマト2個。午後も引き続き原稿を書き進める。16時近くになって家を出る。今日もゆっくり団子坂を下り、千代田線に乗る。夕方の大手町駅で乗り換えるのは、スタスタ歩けない状態だとなかなかストレスがかかる。どうにか半蔵門線に乗り換えて、神保町に出、H社を尋ねる。編集者のMさんが出かける準備をするあいだ、用意してもらった椅子に座ってしばしぼんやり。編集部の片隅に写真立てがあり、その前にサクラビールと、うなぎパイが供えられている。

 向かった先は「TAKANO」だった。普段はコーヒーばかり飲んでいるから、初めて入る。メニューを見て、「1974年以来主張し続けているミルクティーの決定版」と書かれていたセイロンティーを注文する。入院して手術を受けることは伝えてあったが、何の手術なのかは伝えていなかったので状況を説明して、家から持ってきた円座クッションを敷く。紅茶が運ばれてくるまで雑談して、新刊が出たあとの諸々について相談する。

 ひとしきり相談が終わったところで、また少し雑談になる。「で、次何やろっか」と言われ、今回のバタバタが頭をよぎりながらも、「次、なんでしょうね」と言葉を継ぐ。その瞬間に思い浮かんだのは、今日テレビで放送されていた『新日本風土記』だ。それは福島の酒蔵を取材した回で、年末年始の大掃除で神棚をきれいに掃除して、年が明けると若水を汲みに行く姿が映し出されていた。それを見たときに、こういうしっかりとした伝統については僕以外の誰かが取材して記録するだろうから、たとえば信仰なら信仰でも、もっとささやかな信仰を言葉にしたい、と思ったのだった。

 あるいは、沖縄のことを取材するとしても、次はもう少し、そのお店ならそのお店に流れる時間を記録したいと思っているのだと、Mさんに伝える。『東京の古本屋』もそういうアプローチではあったけど、聞き書きで記録できることにも当然限界があるから、その場所に流れている時間を言葉にして記録したい。そんな話をしていると、「なんだろう、あれだね、結構文学よりだね」とMさんが言う。そこから話が流れていき、「言い方変だけど、橋本くんの身辺雑記的な文章も読んでみたいけどね」とMさんは言っていた。

 18時過ぎにお店を出て別れ、ひとりで「東京堂書店」を覗く。値段を気にせず、気になった本を端から手に取る。『つげ義春流れ雲旅』、『ドーナツの旅』、『改訂版 日本ボロ宿紀行』、『盛り場で生きる』、『シャンソンと日本人』、『哲学者が見た日本競馬』、田村隆一『詩人の旅』、ナギーブ・マフフーズ『ミダック横町』、それに千葉雅也の連載が始まった『RiCE』を買い求める。すっかり満ち足りた気持ちになって、御茶ノ水まで坂を上る――つもりだったけれど、打ち合わせで1時間以上座っていたのと、出歩いたのとで患部に負荷がかかっている感じがあって、坂をあがるのはやめにして、往路と同じルートで引き返す。帰ってみると、ナプキンには気持ち強めに血の色がついていて、あとはもうソファに寝転んで過ごす。22時近くになって帰宅した知人と『今夜すき焼きだよ』を2話みたのち、布団を敷いてニュースを眺める。”帰国”するシャンシャンに、「ずっと忘れないでね!」と声をかけている人が映し出されていた。「ずっと忘れないよ」ならともかく、「ずっと忘れないでね!」というのはどういうことなんだろうと思いながら、テレビを消して眠りにつく。