2月20日

 昨晩は22時半ごろに眠りについたのだと思う。9割以上は書き上げたウェブ連載の原稿、最後のところが悩ましく、消灯時刻を過ぎてもそのことを考えていた。すでに過去最長のボリュームになってしまっているから、ここからあまり長々と書き進められず、あまり文字数をかけずにラストに持っていく必要がある。パソコンを閉じて考えていると、ああ、この回路を進めばうまく収まるんじゃないかというルートが浮かび、安心して芸人のラジオを聴きながら眠りについた。目を覚ましたのは3時43分で、その瞬間に「今日はもう眠れないな」という感じがあったものの、あんまり早くに活動を始めると手術痕の治りも悪くなりそうだし、同室の患者にも迷惑だろうから、寝転がったまま退院前の最終診察で医師に確認することを頭の中で整理する。

 これは性格もあるのだろうけれど、何がよくて何が駄目なのか、何が好ましくて何がおすすめできないことなのか、事細かに把握しておきたい。事細かに規則として押し付けられるのは嫌だけど、知っているかどうかは大事だ。入院のしおりには、退院後の生活のことも書かれてはいる。ただ、Q&Aを見ると、たとえば「お酒はいつから飲めますか?」→「手術の方は、退院後2〜3日目から飲めます」とだけ書かれてある。もっと事細かに書いてくれよと思ってしまう。これは「退院後2〜3日目であれば、まあビールの1杯くらいは飲んでもいいですよ」なのか、「まあ2、3杯なら大丈夫です」なのか、「もとの酒量に戻してもらって平気ですよ」なのか――最後の選択肢は現実的ではないとわかるけれど、このQ&Aだけだといかようにも解釈できてしまう。それに、「まあ、それぐらい経てば、飲んでも『手術痕が開いて大量出血』みたいな最悪の事態は起こりません。ただ、きずの治りは遅くなりますよ」という話なのか、「それぐらい経てば、特に術後の経過を左右しません」という話なのかでも、ずいぶん違ってくる。そういう疑問点が山のようにある。自分のような患者のために、この入院のしおりをいちから作り直してあげたい気持ちにすらなる。

 7時53分に朝食のアナウンスが流れる。同室の患者さんが部屋を出るのを待って、自分が過ごしていたベッドと、病室の窓を写真に撮っておく。ゆっくり朝ごはんを平らげる。今日で僕が退院して、食事の出る入院患者は5名以下になるようで、出前をリクエストする紙が皆に配られている。アクリルスタンドを挟んで斜め向かいには同室の患者さんがいて、何を選ぼうかとメニューに見入っている。「僕も何日か前に出前だったんですけど、麺類だとかなり伸びちゃうんですよ」と声をかけようかとも思ったけれど、僕の中では麺が伸びていたこともさほどネガティブな思い出ではないし、そういうひとつひとつのことを経験するのも替えのきかないことだもんなと思って、黙って朝食を平らげる。同じ日に手術を受けた方――この方は10日入院だと言っていた――が、朝食を終えて食堂を出るとき、声をかけてくれる。「あれ、今日――」「そうです、退院です」と、短く言葉を交わし、お互いが「お大事に」と言って会釈をする。昨日退院した同室さんのようにきちんと挨拶できるタイプの人間ではなく、こういうタイプだわたしたちは。部屋に戻り、入院するときに着てきた服に着替えて、荷物をまとめる。廊下のソファでくつろいでいた同室の方に「お先に退院します」と伝えて、8時47分、エレベーターで一階に降りる。

 退院の案内には「8時50分までに一階へ」と書かれていて、看護師さんに「あんまり早く行っても仕方がないものですか?」と確認したところ、「そうですね、あんまり早く降りても、診察を受けないと退院できませんので、8時50分に」と言われていたのだけど、もう外来の診察も始まっている。ただ、ちょうどタイミングよく診察室の扉が開き、「今日退院される方いらっしゃいますか」と呼ばれ、診察室に入る。昨日までと同じように診察されて、「じゃあ、今日で退院ですね、おめでとうございます」と事務的に挨拶をされ、すぐに外に出る流れになる。ちょ、ちょっと、退院後の生活わいと思いながら、いそいそとズボンを上げ、「すみません、ちょっと、退院後の生活について伺ってもいいいですか」と尋ねる。ケータイのメモに7個くらい質問をまとめてあったけれど、ケータイを取り出すのを待ってくれそうな気配もなく、最初に思い浮かんだことから尋ねる。まずはナプキンについて、これまでと同じぐらいの頻度で変える感じでよいのかと尋ねると、「ナプキンに関しては、医学的に意味があるわけじゃないんですよ」と医師が言う。あれはあくまで、服を汚さないためにつけているので、使いやすいものに変えてもらっていいですし、患部を清潔に保ってもらえたら、と。あとは、何だっけ。そうだ、立ち仕事と座り仕事に関しては、くたびれないぐらいの長さであれば、今日からもう大丈夫なのかと尋ねると、「そうですね、前も言ったように、円座クッションみたいなのを活用してもらいながら、なるべく患部に負担がかからないようにしてもらえたら」と。色々聞きたいことはあるが、もう次の診察に行きたい気配を感じるので、「あと、飲酒っていつぐらいから――」と尋ねると、「とりあえず次に診察を受けにきてもらうまでは禁酒してください」と言われ、診察室を出る。

 手持ちの現金が少ないので、明治通りを挟んだ向かい側にあるセブンまでお金を下ろしに行く。信号待ちをしていることすら新鮮に感じられる。病院に戻り、受付で会計を済ませ、薬を処方される。薬の中には軟膏もあった。これまでは歯磨き粉くらいのチューブだったのが、かなりコンパクトなサイズになっている。「入院中に使ってもらってたやつを使い切ったら、こっちの軟膏を使うようにしてください。この新しい軟膏は、前のと違って伸びやすい状態になってますから、直接塗ってください」と言われる。え、ちょ、直接……?と思いながらも、退院できる嬉しさが勝り、聞き返すことなく病院をあとにする。

 時刻は9時過ぎ。もう通勤ラッシュも終わっている時間だから、タクシーじゃなくても平気だろう。ただ、地下鉄だと重いスーツケースを持って階段を上り下りするのが大変(というより、腹に力が入るような作業は避けたほうがよさそう)だから、すぐ近くのバス停から「草63系統」のバスに乗る。浅草雷門と池袋駅東口を結ぶバスで、浅草に出かけるときによく乗車するバスだ。ということは、これまで何度も病院の前を通過していたのだなあ。ほどなくしてやってきたバスに乗り、車窓の風景をぼんやり眺める。当たり前だけど皆行き先がある。たった一週間入院していただけなのに、そのことが新鮮に感じられる。すぐに新鮮さは消えてしまって、また元の感覚に戻るんだろう。

 このバスは団子坂の上まであがってくれるので、スーツケースを引きながら坂を上がることもなく、難なく家に帰ってくる。チャイムを押して、知人にスーツケースを部屋まで持って上がってもらう(集合玄関とエレベーターのあいだに階段があるので)。テレビがある生活も新鮮だ。部屋に戻ってみると、安心したのか急な眠気に襲われた。どうにか眠気に耐えながら荷解きをしたあと、ソファに横になって体を休める。股のあいだにナプキンをあてがっていても、ズボンにもどうしても浸出液の臭いがうっすらつく。これがソファに移ると嫌なので、すでに届いていた無印のバスタオルを敷いておく。

 シャワーを浴びて、12時過ぎ、知人と一緒に家を出る。これから80分ほど立ちっぱなしで観劇することもあり、患部に負担がかからないようにゆっくり歩いていると、ふざけているのだと知人に勘違いされる。ゆっくり歩いて地下鉄に乗る。電車に揺られているあいだ、ドアに手をつき、踏ん張らなくてもいいようにしておく。退院してみて気づかされるけど、ここから数日のあいだに多少回復する部分はあるにしろ、日曜日から羅臼に行くのはどう考えても不可能だったなと反省する。

 12時40分頃に北千住に辿り着き、マルイの9階へ。「かつくら」には4組ほど並んでいたが、ちょうどお客さんが入れ替わるタイミングだったようで、すぐに案内される。知人はロースカツのランチセット、僕はヒレカツとカキフライのセット。うまい。知人は味噌汁もおかわりしていた。お腹を満たしたところで、ひとつ上のフロアに上がり、「シアター1010稽古場1」へ。今日は東葛スポーツ『ユキコ』を観るのだ。受付を済ませ、立ち見席に案内してもらう。開演までのあいだに、いちどトイレに出て、自動販売機で水を買い、昼食後の薬を飲んでおく。会場に引き返していると、同業者のKさんと顔を合わせる。今回の公演はあっという間に完売したこともあり、Kさんは当日券目当てにやってきたそうだ。開演10分前くらいになると、当日券のお客さんも会場に案内され始める。ふと後ろから肩を叩かれて振り返るとN.Aさんで、彼女が案内されたのは僕のすぐ前の場所だった。

 当日券のお客さんも、どうにかぎりぎり入れ切って、13時過ぎに公演が始まる。出演者の並びがちょっと独特だなと思っていたのが、後半になって合点がいく。その部分だけで丸ごと1本描いて欲しかったような気もするが、それは観客のわがままというか、とんかつ屋に入って「もうちょっとあっさりした味付けでもよいのでは」と言うようなものかもしれない。ルキノさんのラップがうますぎてびっくりした。80分立ちっぱなしというのはそこそこ負担があり、痛みを感じたわけでもないのだけれど、よろよろと会場の外に出る。隣で観劇していたAさんや、すぐ近くにいたというN.Sさん――最後のラップでクラファンのことが“サンプリング”されていたけど、ふたりはそれぞれ違う年の『c』に出演していたわけだから、今日同じ回を観ていたのは不思議な感じがする――もいて、少し立ち話をする。「橋本さん、ここ数日はどこに行ってたの?」「あれ、病院ですよね?」と、ふたりに尋ねられる。病院で目にした風景を記録しておこうと、いくつかの写真はインスタグラムにもアップしていて、それでそう尋ねられたのだった。ほどなくして知人もやってくる。人によっては痔の悩みは恥ずかしいと感じるのかもしれないけれど、そういう気持ちはほとんどない。ただ、話し始めれば説明にそれなりに時間がかかってしまうし、観劇後に1、2分立ち話をするなかで持ち出せる感じもしなくて、「いや、ちょっとしたことなんですけど、入院してて」と、もごもご言って話を終わらせてしまう。

 丸井の地下に入っている食品売り場では新潟フェアをやっていたので、栃尾の油揚げにネギをはさんだやつを買い求める。あとは常設の惣菜屋でいかシュウマイと卵焼きのセットも買って、千代田線に乗る。このまま仕事に行く知人と別れ、千駄木についたところでケータイを取り出すと、着信があったことに気づく。編集者のOさんだ。地上に出たところでかけ直す。「退院できたんですか」と言われ、びっくりする。僕がドライブインのことを初めて記事に書いたときに――つまり、「こういうテーマで原稿を書いてくれ」だとか、「この対談記事を構成してくれ」といったライター仕事ではなく、自分の関心をもとに商業誌に原稿を書いたときに編集を担当してくれた方だ。ただ、頻繁にやりとりをしているわけでもなくて、直接お会いしたのも数年前の神楽坂が最後だ。電話をいただいたのは、仕事の相談で、「旅といえば、やっぱり橋本くんかなと思って」とOさんが言う。Oさんとは、仕事をした回数自体は多いわけではないけれど、たとえば書評の依頼をくれるときも、「この本は、他の誰かではなく、橋本くんだろう」という依頼の仕方をしてくれる。そういう依頼の仕方ができるのは、常にいろんな人のことを気にかけて(いなくても、「こういうことならあの人かな」という誰かをたくさん引き出しにいれて)いるからだろう。ああ、このテーマは橋本くんに頼もうかと思ったとして、「そういや橋本くん日記書いてたな、依頼の電話かける前に読んでみようか」と思うだけでも、付き合いの広さを想像するに、すごいことだ。編集者というのはすごいなと思う(だから僕は、自分から「編集者」という肩書きを名乗ったことはない)。ただ、残念なことに、テーマとなる人物のことを僕は“通った”ことがなくて、「たぶんきっと、僕以外の方に頼まれたほうがいいと思います」と断ってしまった(こういうことは、付け焼き刃でなにか情報を入れても、熱の有無は確実に伝わる)。もっと普段からいろんなものに触れておかなければ、せっかく依頼してもらっても答えられないのだから、もっと精力的に動かなければ。

 「往来堂書店」に行き、久しぶりに書店の棚をじっくり眺めて、川上未映子『黄色い家』を買う。帰りに小さなドラッグストアに立ち寄る。退院後も、しばらくは排便コントロールが大事になると、入院のしおりに書かれてある。手術で切り取られた箇所が、これから徐々に再生してくるにあたり、下痢や便秘が続くと黄門が塞がってしまうのだろう。だから「二日排便がなかったときは、就寝前に下剤を飲んでください」とある。便通がなくなってから慌てるのは嫌なので、今のうちに下剤を買っておくことにする。奥の薬剤師さんがいるコーナーに行き、痔瘻の手術をして、二日排便がなかった場合は下剤を飲むようにと言われているんですけど、どういうのを買うといいですかと尋ねる。すると、薬剤師の女性は「少々お待ちください」と言ってレジの方に行き、別のスタッフを連れてくる。どうして薬剤師の方が答えてくれないんだろうと少し不満に思っていると、どうやらその男性スタッフも痔の手術を受けたことがあるらしく、「どこで手術受けたの?」と尋ねられる。あの、荒川のと答えると、「ああ、あそこね。アセロラのジュース買わされたでしょ」と笑う。「たぶん、あれを飲んでれば大丈夫だと思うけど」と言いながらも、念のために市販の薬を見繕ってくれた。近所に経験者が勤務するドラッグストアがあるだなんてと、心強い気持ちになる。

 スーパーに寄り、明日からの食生活に必要なものを買っておく。今までのように、朝はたまごかけごはん、昼はサッポロ一番塩らーめんというのだと、咀嚼する回数が少なくて内臓に負担がかかりそうだから、ごはん+おかず+味噌汁という組み合わせで食べられそうなものを選んで買っておく。16時半には帰宅して、少し原稿を書き進める。日が暮れた頃になって、先行予約で当選したカネコアヤノのチケットの支払い期限が今日だったことを思い出し、コンビニへ。最近は何度申し込んでも落選となることが多かったので、「まあ、きっと当選しないだろうな」と思いながら、春以降に自分が取材に行く候補地とも照らし合わせて5つの会場のチケットを申し込んだら、5つとも当選してしまって、支払いが大変だ。外に出たついでに、近所の八百屋も覗く。「傷 治す 栄養素」で検索して、トマトとはっさくを買った。普段は栄養バランスなんて考えずに暮らしているけれど、早くこの不便な状態を解消するために、数週間だけしっかり栄養素を考えながら生活したいところ。

 20時過ぎに帰ってきた知人と一緒に夕食をとる。北千住で買ってきた惣菜をツマミながら、『水曜日のダウンタウン』を観る。またタバコ絡みの企画で、「これは面白そうだ」と病院では見ずに、退院後にとっておいたのだ。前半の企画だけ観たあとで、『ブラッシュアップライフ』の6話と7話を観ながら、はっさくを知人と半分こして食べる。薄皮やすじのところもきっと栄養素があるはずだと思って、薄皮を剥かずに食べていたけれど、それだと渋い味しか感じられなくて、後半は薄皮を剥いて食べた。