3月28日

 朝から原稿を書く。ここ数日、少しずつ書き進めてきた「解説」の原稿、今日こそ書き上げなければと気合を入れて、パソコンに向かう。最近は文字数を気にせず書き綴ることが増えているが、今回はきっちり文字数が決まっている。送っていただいたゲラの文字組を基準に、見開き6ページとなると、かなり限られてくる。その文字数の中で何が書けるか、書いては削り、構成を練り直し、言葉を書き継ぐ。たとえば今の「言葉を書き継ぐ」というフレーズにしても、普段原稿を書くときだと、その文章の流れの中で自然と言葉を選んでいることが多いのだけれども、今回は彫刻のように、「この文言でいいのか」と何度も推敲を重ねる。

 窓の外では今日も傘をさした人が行き交っている。前回病院に行き、術後の経過を見てもらったのは2週間前だ。「次は2週間後に」と言われていたので、明日あたりに通院するつもりでいたけれど、明日は晴れの予報が出ているから、たぶん今日のほうが病院は空いているだろう。そう思い直して、11時過ぎに家を出て、病院に行く。予想通り病院はがらがらで、いつもは1時間待ちもざらなのに、10数分で順番がまわってきた。経過は順調とのことで、外側の傷はほぼ傷跡だけの状態で、あとは内側が治れば、とのことだった。薬局で処方箋を受け取り、雨だと団子坂を上るのが億劫なので、帰りはバスを選んだ。席はそこそこ埋まっていたので、立ったまま乗っていた。西日暮里駅についたところで、乗客がたくさん降りていく。すると、後ろから背中を手で押される。座っていた乗客もたくさん立ち上がり、バスを降りようとしているから、混雑しているとはいえ、その流れに従って一度バスを降りるというのも、無賃乗車を疑われそうだからなるべく避けたいところだ。それに、僕は通路に立っているとはいえ、それで通路がすべて塞がっているというわけでもない。それで背中を押すとは、と思っていると、同じ手がまた背中を突いてきた。背中を押した乗客は無言のままバスを降りて行ったが、その姿を見送っていると、腹立たしさが増してくる。僕が立ちはだかっていて、まったく通れなくなっていたのならともかく、背中を押されるいわれはない。たとえ邪魔だと感じたとしても、声を発するでもなく、2度も背中を突いてきたことに腹立たしくなる。日頃のストレスの吐口にもしているのかもしれないが、人の背中を突いておいて、こちらは「背中を突かれた」といういやな感じを抱えて過ごすことになるのに、その男が何事もなかったかのように今日という日を過ごしていくことには納得がいかなかった。僕もバスを降りて、その男の後ろをついていく。そのことに、男はすぐに気がついたようで、後ろの気配を確認しながら、ただしこちらに視線は向けることなく、改札をくぐってゆく。僕も後ろをついて改札を通り、ホームまでついていく。男はホームの端まで歩き、乗降口の近くに立って電車を待っていたが、しばらくするとまた歩き出した。そのあとをついていくと、やがて振り返り、平静を保った声で「なんか用ですか」と言ってきた。人の背中を突いておいて、用もなにもないだろう。男はまた歩き出し、しばらくついて行ったところで電車がやってくる。人ごみに紛れるようにして男と離れ、帰途につく。

 こういうことを書くのは、自分の正しさを訴えるためではない。自分の過剰さはわかっているが、日記なので書いておく。

 帰宅後、どうにか心を落ち着かせて、「解説」の原稿を書く。どうにか「今現在の自分にかける限界はここだ」というところにまで仕上がったように思えたので、メールで送信する。最近はこういう原稿を滅多に書かないので、どぎまぎする。

 チャイムが鳴り、クール宅急便が届く。新刊の表紙に写真を使わせてもらった「小禄青果店」の悦子さんからだ。大きな段ボールを開けると、タンカンがたくさん詰まっている。それだけではなく、公設市場の2階にある「歩」のサーターアンダギーが数袋と、おそらく自家製のラッキョウ、それに照光精肉店のパウチ入りのてびち、オキハムの三枚肉(500グラム)、てびち(800グラム)、ソーキ(300グラム)も入っている(肉はいずれも煮込んでしっかり味付けがされてあるタイプで、湯煎すればそのまま食べられる)。冷蔵庫がいっぱいになる。賞味期限は1ヶ月以上先だから、お肉は知人と一緒に食べきれるだろうけど、サーターアンダギーとタンカンは食べきるまえに悪くなってしまいそうだ。それも申し訳ないので、すぐにお裾分けに出かけることにした。

 まずは神保町に出て、H社へ。本誌は10日発売だから、校了時期でバタバタしているかと心配していたけれど(念のために事前に電話を入れておいた)、そんなこともなく、編集者のMさんにサーターアンダギーとタンカンを渡す。Mさんはせっかくだからと一緒に喫茶店かどこかに誘おうとしてくださっていたが、今日は早い時間のうちにまわらなければならず、また改めてゆっくり、と告げて都営新宿線に乗る。新宿三丁目に出て、地下通路を歩き、17時10分ごろに思い出横丁「T」へ。この時間でも今日は先客がふたりいた。「おすしの原稿、書いた?」と尋ねられ、はい、さっき書き終えてメールで送ったところです、と答える。ビールを注文し、さて、どうしよう。先客がいると、どうもお土産を持ち出しづらい感じがある。あと、それとは別に、本を献本して、ポスターと一緒に手渡そうと思っていたのだが、そのタイミングも難しいなと、ポテトサラダを追加で注文する。海外からの観光客が横丁を大勢行き交っていて、ムービーを撮りながら歩くか、そうでなければ写真を撮るタイミングを探りながら流れてゆく。西洋の方が、東洋の観光客を連れてやってきて、マスターに「ふたり、はいれますか」と掛け合い、東洋の観光客に「カブキチョウ」という言葉を何度か繰り返して教え込んで、去ってゆく。僕はビールを2本飲んだところで会計を頼んで、サーターアンダギーを渡し、本とポスターをバタバタと渡してお店をあとにした。なんだか最後にばたばた押し付ける感じになってしまった。

 靖国通り沿いを歩く。いつのまにかサーティーワンアイスクリームが閉店していた。新宿3丁目「F」に入ると、こちらはぼくが口開けの客だ。今のうちにと、タンカンを渡し、もしまだ買われてなかったらと、『そして市場は続く』を手渡す。ここのお店の方は本が好きで、まだ買ってもらえていなかったということは、ちょっとまだ訴求力が足りてないのではと心許ない気持ちになる。

 焼酎の水割りを飲みながら、今日読んだ記事に抱いた違和感を話す。それは「コザ騒動」に関する記事だった。著者は「数時間、まず繁華街とされるいくつかの通りを歩き回った」のち、「戦後の街を知る人に最初話を聞いた」。そのあとに語り手として登場するのは、昭和4年生まれの沖縄戦の時代をも知る人物だ。この原稿に登場する語り手はもうひとりいて、1951年生まれのミュージシャンだ。ふたりの語りを軸に歴史をさかのぼっていく記事に、どうして自分は違和感をおぼえたのだろう? 「コザ騒動」に関しては、すでに聞き取られた声がいくつも活字化されているなかで、誰かの語りを通じて(それもふたりの語りだけを通じて)触れようとしているからだろうか? それとも、「歩き回った」中で出会った声を拾ったようでありながら、誰かに取り次いでもらって当時を知る人への取材を依頼し、そのスケジュールの中で取材されたものだからだろうか。もしそうだったとして、それに違和感を感じる必要がどこにあるのかと、自問自答する。何かに違和感をおぼえると、その対象がどうということ以上に、自分が何にこだわってしまっているのかが浮き彫りになる。物書きがある土地の歴史を少し深掘りして書こうとするときに、ふらっと突然尋ねて行っても相応の成果を得られるとは限らないから、ツテを辿って誰かを紹介してもらって、アポをしっかり取った上で取材に出かけることは一般的なことだ。でも、たぶん自分は、その「一般的なこと」に対するわだかまりが、心のどこかにあるのだろうなと、自分の中を覗き込んでみると気づかされる。ドライブインの取材だって、最終的にはアポイントを取った上で出かけているし、観光地の取材シリーズだって、アポイントは入れている。ただ、取材対象とどのように出会うか、自分が何をどう判断し取捨選択するかというところに、取材者としてかなり大きなポイントがあると、自分は思っているのだろう(もちろん自分がそういう方針を持っているからといって、他の書き手がそのようにある必要がないことは重々わかっている)。

 1時間ほどで「F」をあとにして、伊勢丹の地下を覗く。「弁松」で何か買いたかったのだがほとんど売り切れだ。隣の「なだ万」に目をやると、季節の惣菜が詰め合わせになった「季節の小箱」(1350円)というのが目に留まった。お弁当のような箱に入っているけれど、コメはなく、惣菜だけが入っている。これは晩酌にちょうど良さそうだと、2折買って帰途に着く。19時50分ごろに帰宅し、知人と晩酌をする。知人は22時からオンライン会議が始まる。僕は台所に立ち、ひじきの煮物を作ってから眠りについた。