朝7時に起きて、昨晩買うだけ買って食べなかった柿ピーを開けて食べる。さて、今日はどうしようか。飛行機は19時の便を予約しているが、昼に出かける場所はあるだろうか。昨晩案内してもらった場所の一つに、星野リゾート「青森屋」がある。その中に寺山修司の展示があるのだ。三沢は温泉の町であり、どこを掘っても温泉が出るほどだ(地盤沈下のおそれがあるので、現在は新設できないのだと聞いた)。

 「青森屋」は日帰り温泉もやっているし、レストランや日本酒バーも併設されている。あそこで時間を過ごそうか。でも、そんなに時間を潰せるだろうか。本当は恐山観光でもするつもりでいたのだが、当然のことながら冬は閉鎖されていた。穂村さんが「いや、それでも橋本さんは行くでしょう」と言っていたことを思い出す。もう一度見ておきたい風景もあるので、レンタカーを借りることに決めてホテルをチェックアウトした。

 10時半、三沢空港近くでクルマを借り、338号線を北上する。ナビに目をやると「射爆撃場」という文字が見えてギョッとする。しばらく走っていると、「予想到着時刻」がぐんぐん縮んでいることに気づく。338号線にはほとんど信号がなく、久しぶりに見かけてもずっと青で、ほとんどノンストップで走れているからだ。もう一つ、昨日の夜に入った寿司屋の大将が話してくれたことを思い出す。「だから、うちの店の前なんかは市役所に言っても全然除雪してくんないけど、サンサンパは全部除雪してありますよ」。

 昨晩は青柳さんと別れたあと、一人で夜の三沢を散策した。歓楽街の道路はアイスバーンになっていてツルツルだ。三沢はそんなに雪が降らない町なのか、地元の人たちも慣れない様子で歩いている。1軒目から2軒目に移動するあいだ、楽しそうに滑って遊ぶ人たちもいる。居酒屋もあればスナックもあり、古ぼけた飲屋街もある。僕は一番ツルツルに凍結した路地にある寿司屋に入ってみた。他にお客さんはおらず、貸切状態だ。

 燗をつけてもらって一口飲むと、「何か握りましょうか」と店主が言う。握りはあとでいただくことにして、まずはツマミでいくつかいただく。「今の季節だと、何が美味しいんですか」と尋ねてみると、「それは――冬だと魚がおいしいと思うでしょう? でも、このあたりは冬だと魚が獲れないんです」と教えてくれた。それでも刺身で出してもらったホタテはうまかった。精巣と卵巣を刺身で食べたのは初めてだが、酒に合う味だ。

 そういえば、青森屋の中に「ホタテ釣り」というポスターがあったのを思い出す。写真の中では、小さい子供がホタテを釣り上げている。貝というのをあまり生き物として認識していなかったから、「ホタテ釣り」というのはなんだか不思議な気がした。貝ではホッキ貝もいただいた。これが三沢の名物だという。店主の言う通り、癖のある味。一口齧れば、しばらく酒が飲んでいられるしょっぱさだ。北国にきたのだなあとあらためて感じる。

 しばらく飲んだところで、「旅行で来てるんですけど、どこかおすすめの場所はありますか」と尋ねてみた。「観光するような場所はないです」と店主は苦笑する。このあたりにホテルはたくさんあるけれど、混んでいるのは平日で、休日はガラガラだそうだ。このあたりは出張で訪れる人や、ホテル住まいで仕事をする人が多いのだという。大きいのは基地と「原燃さん」だ。六ケ所村にある、核燃料サイクル事業を行っている国策会社・日本原燃である。「だから、うちの店の前なんかは市役所に言っても全然除雪してくんないけど、サンサンパは全部除雪してありますよ。三沢と原燃さんを結ぶ道路ですからね」。

 国道338号線はたしかに綺麗に除雪されている。片側一車線の道路で、大型車だと道路一杯になるほど細い道路で、わりとデコボコになっているが、それでも綺麗に除雪がされているのだ。ただ、日本原燃を通過すると途端に雪の量が増え始める。恐山の近くまで行ってみるつもりだったが、雪道を走っているとおそろしくなる。ここ数日繰り返しテレビで流れている、スキーバスの事故映像が頭にちらつく。「大型バスの運転は不慣れだ」と面接で言った男を、どうして採用したのだろう。どうして面接を受けておきながらそんなことを言ったのだろう。おそるおそる徐行運転で走らせるのだが、バックミラーに車が見えると、「通行の妨げになっているのではないか」と不安になってついアクセルを踏んでしまう。僕もいつかきっとあんなふうに死んでしまう。

 とても恐山まで走る自信はなく、クルマをUターンさせて六ヶ所原燃PRセンターを訪ねる。ドライブイン巡りをしていたときにも一度訪れた施設だが、名前の通り原燃を――核燃料のサイクル事業の重要性と安全性をPRするための施設だ。3階は展望台になっていて、ウラン濃縮工場や再処理工場が見える。風力発電の風車が無数に立っていて、その巨大さと無機質さが不気味だ。来館者は僕の他におらず、少し不安な気持ちになってくる。

 2階へと階段を降りると、なぜ原子力発電が必要なのか、なぜ核燃料サイクルが大事なのか、いかにして安全性が維持されているのか、放射能とは何なのかといったことを説明したパネルが並んでいる。放射線にはα線β線γ線中性子線があり、それぞれ透過能力が違うのだと書かれている。その近くには実験器具があり、遮蔽実験ができるようになっているのだ。

 ガラスケースの中には、「アルファちゃん」「ベータちゃん」と書かれた線量計があり、その向こうにはハンドルで回転させられる小さな壁がある。壁には「何も貼られていない部分」と「紙を貼った部分」とがあり、何も貼られていない部分をかざすと線量計は「20」を指していて、扉を回転させて紙の部分をかざすと線量計の針はゼロのほうに下がる。よく見ると、壁の向こうには小さなウラン鉱石が置かれていた。おお…これがウランか……。ガラスケースで遮断されているのだろうけれど、見えないだけに不安になる。しかし、事故で死ぬとか、刺されて死ぬとか、そういうことは理解できるのだけれども、基準値を超える放射線を浴びると死ぬというのがよくわからないでいる。目に見えないもので死ぬということに納得が行かない。

 見学を終えると12時半だ。朝は柿ピーしか食べておらず、さすがにお腹が減ってきた。もう三沢市内まで戻ることにして、クルマを走らせる。13時過ぎ、歓楽街の片隅にある「さらしな食堂」へ。昨晩ぶらついているとき、その佇まいが気になっていたのだ。中に入ってみると意外とこじんまりした店で、老夫婦が二人、カウンターの中に立っている。もう50年は営業しているそうだ。中華そば(400円)を注文する。運ばれてきたのは醤油味のシンプルな中華そばで、チャーシューと麩が載っていた。

 一口に断定すれば、ライスカレー人間というのは現状維持型の保守派が多くて、ラーメン人間というのは欲求不満型の革新派が多い。それは(インスタント食品をのぞくと)ライスカレーが家庭の味であるのにくらべて、ラーメンが街の味だからかもしれない。(『書を捨てよ、町へ出よう』より)


 たしかにラーメンというのは街の味だという感じがする。古ぼけたラーメン屋で麺をすすっていると、懐かしさを感じるというよりも、どこかうら寂しい気持ちになる。寒空の下、コートの襟を立てて歩いているような気持ちになる。それは田舎町であっても同じだ。僕の実家があるのは山間の盆地にある農村だが、そこにもラーメン屋はあった。その味はたしかに「街の味」という印象があった。学校からの帰り道、その裏口を通りかかると、換気扇の前に立ち匂いを嗅いでいた。

 食事を終えると、再び車を走らせた。三沢空港へと続く道路を走らせてゆくと、しばらく市街地が続いているのだが、突然荒野があらわれる。視界を遮るものがすべて消えて、ただ荒野と道路だけが広がっているのだ。昨日、記念館に案内してもらったときもここを通ったのだが、その風景に圧倒された。その道路をもう一度走りたくてクルマを走らせたのである。映画『書を捨てよ町へ出よう』には突然冬田があらわれるシーンがあるのだが、あのインパクトはこのことかと思った。

 ところで、寺山はしばしば故郷を、あるいは故郷喪失をモチーフとする。書籍『書を捨てよ、町へ出よう』にはこんな一節がある。

 私は
「自分がいま住んでいる青森という町は、実は赤児の頃に貰われてきた町なのではないだろうか」
 と思った。
「そして、この世のどこかに、きっと私のほんとの故郷があるのではないだろうか?」
 高等学校の便所の高い窓から、目に沁みるような八甲田山の青空を仰ぎながら私は、まだ見ぬ故郷を想ってこの曲を吹きつづけた。吹いているうちに、私は胸の中が熱くなってきて、女学生のむっちりした腰のことや、性をめぐる二、三の妄想や、トロツキーE・H・カーなどの政治書からも全く解放されて、まるで子供のように空っぽになってゆくのを感じるのであった。


 寺山はなぜ「まだ見ぬ故郷」というイメージを抱いたのだろう。それは当然、寺山本人の資質によるものではあるのだが、その資質がどんな風景を目差していたのかということは一つ大きな問題となる。荒野をクルマで走り抜けながら、昨晩寿司屋の大将が話してくれたことを思い出す。

 三沢という街で僕が想像していたことは、戦後の変化である。米軍基地ができたことで発展した街――その程度の認識しか持っていなかった。もちろん、それは大きな変化であるのだが、話を聞いていると三沢の特異さ、るつぼ感というものが伝わってくる。

 中世において、下北半島は「糠部郡」と呼ばれ、農作物の飼育には適さない土地とされていたが、その代わりに馬の飼育には適した土地であった。江戸時代になると三沢周辺の土地をあらわす地名「木崎野」が登場し、藩営牧場が置かれていたという。当時の三沢の人々は馬産と漁業で暮らしていた。

 小さな村に変化を生じさせたのは、戊辰戦争である。三沢は南部藩に――奥羽越列藩同盟に与した南部藩の領地である。戊辰戦争後、南部藩には処分が下され、藩士たちは仙台に転封されることになった。かわってやってきたのが、同じく戊辰戦争に敗れた会津藩士たちだ。西日本出身の人間からすると、明治維新は江戸時代の藩士と明治の近代化がダイレクトに繋がり、それが藩閥政治の批判を招いてゆくというイメージが強かったのだが、江戸時代の統治者と明治時代の統治者ががらりとすげ替えられたところで近代化が始まった土地も当然あるわけだ。

 こうして下北半島会津藩士が移住してくるわけだが、食料も少なければ寒さも酷く、多くの藩士が餓死あるいは凍死してしまう。それでも彼らは開墾を行い、街を作り、産業を奨励しようと努めた。三沢に派遣されたのは、廣澤安任という藩士だ。彼は三沢の産業であった馬産の近代化を目指し、お雇い外国人を招聘して近代様式牧場「開牧社」を開設する。こうして会津藩士たちによって近代化が行われた三沢の街では、会津出身の家系の人が首長を務めることが多いそうだ。

 第一の波が「戊辰戦争後の転封」だとすれば、第二の波は「駅の開業」である。

 1984(明治27)年、古間木駅(現在の三沢駅)が開業することになる。しかし、鉄道が通ることになったルートは湿地であった。軟弱な地盤に鉄道を通すために、無数の筏を沈め、大量の土砂を運び込んで、大規模な工事のすえにようやく鉄道が開設されることになる。その大規模工事のために各地から人夫が集まってきて、彼らを相手にする商店がいくつも登場し、駅周辺が発展し始める。

 第三の波が訪れるのは昭和に入ってからことだ。世界で初めて太平洋無着陸横断飛行を成功させたミス・ビードル号は三沢から出発したわけだが、その三沢の町に、海軍は飛行場を開設することを決定する。飛行場の建設するために再び人夫が集められ、さらに三沢の町は発展する。終戦とともに飛行場は米軍に接収されるのだが、三沢駅と米軍基地とのあいだで貨物を輸送するための基地専用鉄道が引かれ、また八戸の石油備蓄基地から基地へと石油を運ぶためのパイプラインも建設されることになる。また、米兵の宿舎もたくさん建築されたことであろう。それらはもちろんアメリカが雇用主であるわけだ。戦後の職のない時期にあって、その仕事はどんなに魅力的であったか。こうして、三沢には米兵とともに大量の人夫が流入することになり、歓楽街も発展することになる。

 もちろん、日本全国のどの町にだって様々な歴史があり、人の出入りはあったことだろう。しかし、三沢という町はその頻度が多いと言えるはずだ。それに、流入が繰り返されるのは一般には都市部であるが、三沢は村だった場所だ。寺山修司は、出身地や国籍を超えて大勢の人で賑わう三沢の繁華街と、少し離れるとすぐに顔をあらわす荒野とを同時に目にして育ったわけだ。

 さきほども書いたように、僕は山間の盆地にある農村に育った人間だ。山というのは(たとえば『もののけ姫』にあるように)生命の象徴にもなり得るし、信仰の対象ともなる。しかし、この荒野はどうだろう。起伏もなければ林もなく、ずうっと平らな風景が続いているのを眺めていると、僕はどこか不安な気持ちになる。このあたりには「淋代平」という名前がついているが、どこまでいっても無である風景はやはり独特だ。このコントラストの強い風景を見て育ったことは、寺山修司に少なからぬ影響を与えたのではないか。

 荒野をしばらく走ると、左手に緑が見えてくる。そこは「市民の森」と名前がついていて、ここに記念館があるのだ。これは僕が気づいたことではないのだが、そこにある樹木には雪が積もっていて、幹の片側にだけびっしり雪が積もっているのだ。寿司屋の大将にそのことを尋ねてみたところ、「三沢に降る雪は全部八甲田連峰から吹きつけてくるからじゃないか」と話していた。昨日に続いて無料で見学させてもらってしまって、申し訳ない気持ちになる。もう一度じっくり展示を眺めて、記念館の裏手にある湖に出て、夕暮れの風景をしばらく眺めていた。

 17時、寿司屋の大将が「仕込みが終わって、開店するまで毎日入りに行く」と語っていた温泉に出かけてみる。温泉は米軍基地のすぐ近くにあった。対象の姿は見当たらなかったが、米兵の姿を見かけた。浴場は広々として居心地が良かった。はあ、あったまる。いい気分だねえ。でも、ビールが飲めないんだよなあ。独り言がつい漏れてしまう。湯上がりにロビーで相撲中継を眺めた。琴奨菊の優勝が決まった直後、客席で見守っていた父親の姿が映し出された。お父さんは祖父の写真を額につけて、体を震わせながら拝み続けていた。

 昨晩気になっていた店を訪れるつもりだったが、営業していなかったので昨日と同じく「赤のれん」に入った。そのかわり、今日注文するのはバラ焼き定食ではなくカレーライスだ。運ばれてきたカレーライスの量にまずは圧倒される。小麦粉が入っていて、もったりしたカレーだ。こうしたカレーライスを食べると、たしかに懐かしい気持ちになってくる。しかし、寺山の言うように「家庭の味」と言えるのはもったりしたカレーであり、たとえば本格的なインドカレーを食べたときにはそう感じないだろう。

 19時、レンタカーを返却して飛行機に乗る。僕は窓側の席を選んだ。窓の外には太平洋が広がっていて、真っ白な月が浮かんでいる。上空数千メートルから眺めてみると、海のかなり広い範囲がピカピカと輝いていて驚く。月のあかりはあんなに強いのか。茨城の上空に差し掛かったところで、霞ヶ浦の中に満月が映るのが見えた。その明るさに、少し恐ろしい気持ちになる。