10月29日

 朝から畑仕事に駆り出される。畑のそばに、枯れた花の枝が落ちている。それを拾い集めて一輪車にのせて、田んぼまで捨てに行くのが、僕に与えられた仕事だ。

 枯れた花というのは、キバナコスモスらしかった。僕は実家の畑のほとりにキバナコスモスを植えてあることすら知らなかったが(僕が実家にいた頃は両親とも働いていたから、畑仕事はあまりしていなかったし、花を育てているというわけでもなかった。それが、特にこの10年くらいは、両親とも熱心に畑仕事をしたり、庭で花を育てたりするようになっていた)、春になると畑のほとりにキバナコスモスの種を蒔き、育てているらしかった。この畑に面した道を散歩する人も多く、「毎年楽しみにしている」という近所の人もいるそうだ。ただ、花が枯れたあとに放ったらかしておくと、手入れがなされていない印象を与えるのか、犬の糞を放置していく人が増えるからと、花が枯れると植木バサミで刈り取るのだという。

 父の体調に異変が生じたのは、このキバナコスモスを刈り取る作業をしていたときだった。いつものように畑仕事をしていたら、突然足がガクガクと震え出し、ひとりでは立っていられなくなり、母に支えられながら家に帰ってきたのだという。

 枯れて硬くなったキバナコスモスを集めて、一輪車に乗せて、田んぼに運んでいく。田んぼの一角に、枯れ枝が集められたところがある。枯れ枝はここにまとめておいて、年に何度か野焼きをするのだそうだ。

 うちには田んぼが何枚かある。うちはもともと農家だったけれど、祖父の代あたりから兼業農家となり、僕が生まれた頃には田んぼはすべて休耕田となっていた。一番下の田んぼには、梅の木が何本か植えられてある。あれはいつだったか、父が胃癌を患ったときに植えたものだ。僕が帰省した折に、父が「梅の苗木を買いに行きたい」と言い出して、僕が穴を掘って植えることになったのだった。田んぼに梅の木を植えるというのは、ちょっといやな感じがした。樹木というのは人の一生よりも長く生きうるものだ。それをこどもに植えさせるということに込められた感傷が、あまりに如実に伝わってくる感じがして、いやな感じがしたのだと思う。梅の木は、今はもう立派に育っている。

 ここに広がる田んぼは、これから先、どうなっていくのだろう。大学を卒業した頃から、そんなことを考えるようになった。上京する道を選んだ時点で、地元に帰ってくるつもりはなかった。あれはいつだったか、母の知り合いが実家に遊びにきていたことがあった。「これが下の子です」と、母は知り合いに僕を紹介した。今は東京の大学に通っているんです、と。それを聞いた母の知り合いは、お子さんがふたりとも家を離れたら、お母さんとしては寂しいでしょう、よくふたりとも送り出しましたね、と口にした。それに対して母は、「いつかは帰ってくると思うけど、一回は外の世界を見させたほうがいいと思うんです」と話していた。その言葉を聞きながら、無情というのか、なんとも言えない気持ちになったことを思い出す。母はいずれ、自分のこどもたちがここに帰ってくると思っている。でも、僕にはそのつもりは微塵もなかった。ただ、それをあえて口にするのはあんまりだという気がしたので、「帰るつもりはない」と言葉にすることはなかった。

 僕は中学を卒業したあと、広島市内の高校に通うことになった。中学の同級生のうち、広島市内の高校に進むのは少数派だったから、そこでいちど、地元の同級生との縁は途切れている。中学生の頃は携帯電話なんてなかったから、大人になって帰省したときにも、地元の友達と会って遊ぶ、みたいなことは一度もなかった。それに比べると、地元の高校に通っていた兄は、関西の大学に進学したあとも、帰省するたびに地元の友達に連絡をとって遊びに出かけていた。だからきっと、兄は地元に帰ってくるのだろうと思っていたのだが、兄は東京で就職し、東京で結婚し、東京で子育てをしている。だからきっと、兄もここに戻ってくることはないだろう。

 この田んぼは、もうすぐ手入れする人がいなくなってしまう。そのあと、この田んぼはどうなってしまうのだろう。僕はこどもを育てるということを考えていないから、この土地を自分より下の世代に引き継いでいく、ということは考えられない。ただ、自分が生きているあいだに、慣れ親しんだこの風景が消え去ってしまうことには、心のどこかで抵抗がある。かといって、田んぼを守るために郷里に戻って生きていく、ということも考えられない。かろうじて想像できるとすれば、父が亡くなり、ひとり残された母に介護が必要になったときに、母が亡くなるまでのあいだは実家で過ごす――というくらいのことだ。

 しかし、一時的にこの町に帰ってきて暮らすということを想像してみるにしても、どこかに就職する、という考えはまったく浮かんでこなかった。あくまで空想に過ぎないせいだろうか。この家を拠点に暮らしながら、時折どこかに取材に出かけて原稿を書く。それだけだと家にいるあいだ暇を持て余してしまうだろうから、この家や畑、田んぼを使って何かやるとして、コーヒーを淹れて出す、くらいのことはできるかもしれない。コーヒーだけだと寂しい(し、田舎町だと売り上げも少ないだろう)から、どこか旅先で出会ったものを提供することもできるかもしれない。こないだ取材したコザのタコス屋さんにタコスの作り方を教わったり、こないだ結婚披露パーティーに招いてもらったこーじさんが作る茶葉でお茶を淹れたり――あとは古本を並べるくらいか。それに関してはもう、この地域に暮らすこどもたちが、地元の書店や学校の図書館ではあまり出会えないような世界への扉を用意しておくことはできるかもしれない。だとしたら、売るというより、儲けは考えずに、私設図書館のような形が望ましいのかもしれない。あとは、自分が好きな人たちが、この畑を前に弾き語りでライブをしてくれたら楽しいかもしれないなあ。キバナコスモスをかき集めながら、そんなことを空想する。

 1時間ほどで作業を終えて、シャワーを浴びると、車を走らせてお好み焼き屋に出かけた。お好み焼きのスペシャルを1枚、スペシャルのダブル(麺2玉)を1枚注文し、テイクアウトする。出がけに母親から「美味しいアイスクリームを買うてきとって」と頼まれていたので、駅前のファミリーマートに寄り、ハーゲンダッツを4種類買っておく。

 家に帰ると、父はもうダイニングテーブル近くのソファに座っていた。「気分が悪いわけじゃないんじゃけど、気力がないよね」と、独り言のように言う。「いつもじゃったら、この髭を剃りたいと思うのにから――いや、今も剃りたいという気持ちはあるんじゃけど――剃ろうと思わんもん」と。

 その言葉を耳にした母が、「まあ、ちょっと休んだら元気になるけん」と声をかけている。その言葉は、少し前に読んだ梅原猛『地獄の思想』を思い出させた。その本を読もうと思ったのは、ただ単に「地獄めぐり」という「観光」はどのようにして生み出されたのだろうかということを考えたいと思ったからで、仏教に興味が湧いたわけではなかった。その本を、こんな形で思い出す形になるとは、夏のころには想像していなかった。

『地獄の思想』で取り上げられていたひとりは、天台宗の僧・源信だ。源信は『往生要集』を著し、浄土信仰の礎を築いた人物だ。そこで源信は、我々の住む世界は苦の世界であり、不浄の世界であり、この世界を逃れて極楽浄土を願い求めよう、と説いたのだそうだ。極楽浄土に赴くためには、阿弥陀浄土をいつも心に浮かべる必要がある。ただ、阿弥陀浄土全体を常に思い浮かべているのは難しいから、「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の名を唱えることで、阿弥陀仏の白毫(眉間のあたり)を思い浮かべよ、と源信は説く。そして、人間が阿弥陀仏のところにいけるかどうか、その分かれ目であるところの臨終の作法を細かく規定しており、死にゆく人に次のような言葉を語れと説いたのだという。

「あなたが永いあいだ、浄土の行をしてきたのも、まったく極楽往生のためなのです。今がそのときです。あなたの心をじっと西のほうに向けなさい。すべての世間のことを忘れ、ひたすら心を澄して阿弥陀仏とその白毫相のことを思い続けなさい。そしてその光が無限に輝かしく、どんな罪人もかならず極楽浄土に救いとってくださることを信じなさい。あなたは長い浄土の修業をしてきたのです。極楽往生は確実です。南無阿弥陀仏をとなえなさい。今が大切です。今こそ極楽浄土に行けるかどうかの分かれめです。どうか静かに極楽浄土を念じてください。」

 この文章は原文ではなく、梅原訳だろう。死にゆく人に向かって、「お前の行く国はすばらしい国だ」と語りかける。「源信が美しい浄土を語れば語るほど、その言葉はかえって悲しみとなって返ってくるかのようである」と、梅原は書く。その情念には「悲しさと同時に甘さ」があり、「この悲しさと甘さが、私には日本的センチメンタリズムの原型であるかに思われる」と。

 その「悲しさと甘さ」を、母の言葉に感じ取る。ちょっと休んだところで、元気になるはずがないということは、母にだってわかっている。それでも、あと1ヶ月生きられるかどうかという夫に対して、「ちょっと休んだら元気になるけん」という優しい嘘をつくところに、「悲しさと甘さ」がある。

 「お好み焼き屋は、7人か8人ぐらい人がおった?」と、父が僕に尋ねる。そのお好み焼き屋には、日曜日はお昼からお酒を飲んで過ごす人たちが数人いるらしい。僕にとって馴染みのあるお好み焼きといえば、この「K」というお店のお好み焼きだ。ただ、お店で食べた記憶となると、数回くらいしかない(そのうち1回は、店内のテレビから『金正日死去』とニュース速報が流れてきたから、強く記憶に残っている)。

 「K」というお好み焼き屋は、うちから少し離れている。現在うちの実家があるのは、駅の西側だ。そこは母方の実家で、僕が中学生の頃に、母屋にくっつけるように家を建てて、それからはずっとそこに暮らしていた。その家を建てるまでは、駅の東側に家を借りて暮らしていた。「K」というお好み焼き屋は、駅からその借家のあいだにあるのではなく、さらに東に進んだ先にある。毎日の動線の中にはないお好み焼き屋に、どうして行くようになったのだろう。

「昔はね、中学校の向こう――歯医者があるとこらへんにお好み焼き屋があって、そこに食べに行きよったんよ」と父が言う。「ほいじゃけど、あんたが小学生の頃じゃったか、そこが潰れたんよ。ほいで他にないかと思うたときに、あっこの店を見つけて、美味しいけん通うようになったんよ。日曜日なんかには、ときどき持ち帰りを頼んで、買うて帰りよった。あと、日曜日で言うたら、『猫のショパン』でモーニングを食べに行きよったよのう」

 猫のショパンというのは、正式な店名ではなく、僕ら家族が勝手につけていた名前だ。どうしてそんな名前で呼ぶようになったのか、今となってはおぼえていない(「この曲はショパンだ」とわかるような家族でもないから、あらためて考えると不思議な呼び名だ)。そこには漫画のDr.スランプがあって、それを読むのが楽しみだった。そこには新聞が何紙か置いてあったから、父としてはそれを読みに通っていたのだろう。バターがたっぷりのったトーストと、サラダと、茹で玉子と、それにヤクルトがついていた。あの小さな喫茶店は、わりと思い出のある店だったが、僕が地元を離れたあとに閉店してしまった。今思えば、田舎町に朝7時から空いている少し洒落た感じの(木材を基調とした内装で、照明も控えめで、昔ながらといった佇まいの)喫茶店があったことのほうが、不思議に思える。

 僕が生まれ育った町はもともと農村だった。ただ、広島市が都市として成長するにつれ、郊外も発展するなかで、この町もぎりぎり広島までの通勤圏として、新興団地の建設が進められたのだろう(「団地」といっても、うちのあたりだと集合住宅ではなく、住宅が密集するエリアを「団地」と呼ぶ)。そうした新興団地があるのは、駅の東側のエリアだった(そのあたりは戦時中は陸軍が所有する土地だったと、最近になって知った)。山が切り開かれて、団地が造成されたことで、そこにスーパーマーケットができ、公園ができ、喫茶店ができたのだろう。「猫のショパン」があるあたりは、ちょっとした商店街のようになっていた。そこには小僧寿しもあって、日曜日の午前中はしばらく公園で遊んで、小僧寿しでお昼を買って帰ることも多かった。ドラえもんやドラミちゃんが容器になったパックも好きだったけど、よく食べた記憶があるのは、1段目がざるそばになっていて、2段目に握り寿司がのったパックだ。

「今思うたら、昔はわりかし栄えとったんよ」と、父が言う。父は広島にもほど近い町に生まれ育っていて、そちらのほうがずっと栄えていたはずだから、そんなふうに言うのは少し意外に感じられた。「あの頃は、町内だけで本屋が何軒もあったもん。ほいじゃけど、今はみじめなもんよ。本屋いうたら、フタバ図書のつまらんのがあるだけ」

 思い返してみると、小僧寿しの近くにも書店があった。そこはわりかし充実した書店で、児童書や学習参考書、雑誌などがたくさん並んでいた。たしか配達もしてくれていたような記憶がある。それ以外にも、フタバ図書もあったし(昔は本もたくさん取り揃えていた)、宮脇書店もあったし、漫画とアダルトを扱う新古書店もあった。それにしても、父にとって本屋がたくさんあることが「町が栄えている」という基準になるのかと、少し意外に感じられた。

 父の前には、お好み焼きが置かれたままになっていた。親指くらいの量だけ取り分けられたお好み焼きは、手がつけられないまま冷えていった。テレビではNHKのお昼のニュースが流れていて、錦帯橋が400周年だと報じられていた。あの橋を渡った先に、武家屋敷があるんよ。父は独り言のようにつぶやいたあと、「ちょっと、お好み焼きは今食べられん」と母に言った。

 テレビ画面が切り替わり、のど自慢が始まった。今日は愛媛県の四国中央市が舞台だ。父が「アイスクリームだけ食べる」と言うので、母はお好み焼きを食べる手をとめて、台所に行き、ハーゲンダッツのバニラ味を取り出してくる。まだかたいけんね、ちょっと置いとくよ。そう言って、またお好み焼きを食べ始めた。

 のど自慢のトップバッターが歌っていたのはB’zの「ウルトラソウル」だった。鐘がひとつだかふたつだか鳴ると、「続いては、亡き父にふたりで歌った思い出の歌です」とアナウンサーに紹介され、姉妹が登場する。歌っていたのは「恋のフーガ」だ。単なる流行歌として歌っていたのだろうけれど、娘がこの曲を父に歌っていたのかと思うと少し不思議に思えた。その姉妹の父は、糖尿病の合併症で目が見えなくなり、そんな父を励まそうと歌をうたって聴かせていたのだという。音楽だけが楽しみで、ふたりの歌唱を聴きながら体を動かしていたのだそうだ。そんな話を聞くのは、どこか気が詰まるようなところもあったけれど、父は気にする様子も(当然と言えば当然だが)なく、「アイスクリーム、まだ食べれんかね」と母に声をかけていた。アイスクリームも、ハーゲンダッツを全部食べるわけではなく、3口だけ頬張っていた。

 午後はひとりで車に乗り込んで、県北に向かった。車を走らせながら、父は思ったより長くないかもしれないなと考える。あれは誰だったか、亡くなる直前、もう食事が喉を通らなくなっていた父親が、コンビニのソフトクリームを食べたいと言っておいしそうに食べていたという話をしていた。あれは誰だったっけと、運転しながらしばらく考えて、そうだ、オードリーの若林だ、と思い出す。

 1時間半ほどで、東城町にたどり着く。今日の目的地は「ウィー東城店」だ。夏葉社の『本屋で待つ』を読んでから、いつか行ってみたいと思いながらも、なかなか足を運べずにいた。それはやはり、物理的に遠いからだ。ここに島田さんは足を運んで、他のどのような形でもなく、聞き書きとして一冊の本にまとめるということに思い至ったのだなと、そんなことを考えながら郷土書を買い求める。せっかく東城まできたのだからと、竹屋饅頭を買って引き返す。

 車を走らせているうちに、15時過ぎになる。スマートフォンでグリーンチャンネルにアクセスし、パドック解説を聴きながら車を走らせる。一番人気のイクイノックスは前走よりマイナス2キロ、パドックの様子からも死角はなさそうだ。単勝1.3倍、圧倒的な支持率だ。これを買っても儲けは少ないので、土をつけうる馬はないかと、昨晩ずっと予想を立てていた。去年の天皇賞・秋も、イクイノックスが完勝した。ただし、あのときはパンサラッサがかなりのハイペースで逃げて、展開をかきまわす形になった。今年は大逃げを打ちそうな馬が少なく、人気を集めている馬は後方から差す馬ばかり。こうなると、先行馬が有利なのではと予想を立てていたが、おそらく逃げるであろうジャックドールについて、解説者が「過去一番の出来」と評している。

 発走時刻が近づいてきたあたりで、コンビニを見かけたので車を止めて、アイスコーヒーを注文する。ひとくち飲んでから、ジャックドールを頭にして3連単を購入し、駐車場でレースを見守る。ジャックドールはハナを主張して逃げる形になったものの、予想を覆してというのか、イクイノックスは3番手からのレースとなった。そのプレッシャーが、ゆったりとした展開に持ち込むことを許さなかったのか、1000メートルは57秒7というハイペースでレースは進んでゆく。息を入れることのできなかったジャックドールは、直線に向くと足があがり、ずるずる後退していく。3番手にいたイクイノックスも、前半から飛ばして消耗しているはずなのに、楽な手応えで先頭に立つと、一頭だけ別次元の走りで快勝した。ちょっとこれは、強過ぎるわ。駐車場で惚れ惚れしながらため息をついていると、1分55秒2というレコードタイムが表示され、たまげる。ちょっと信じられないようなタイムだ。

 16時半には帰宅して、母親に竹屋饅頭を渡したあと、しばらく原稿を書いていた。18時近くになって母親から呼ばれて、1階におりる。今晩はすき焼きのようだ。とりあえず冷蔵庫からビールを取り出していると、「父さんは今食べとうないって言うけん、ふたりで食べよう」と母が言う。昼にアイスクリームを3口と、僕が買ってきた竹屋饅頭は食べたそうだが、それでお腹がいっぱいになってしまったらしかった。これはやはり、1ヶ月どころではないのかもしれないなと思う。

 母とふたりですき焼きをつつくのは、どこか気詰まりだった。気詰まり、というのは、正確ではないかもしれない。帰省したときでも、僕は親と会話をするわけでもなく、黙ったまま食事をとることは珍しくなかった。父がもう長くないということにも、「その時がきたのか」と思っているくらいで、ショックを受けているというのでもない。だから、そういう意味で気が詰まっているわけではないのだけれども、父親がいるのに母とふたりで食事をするということは、父の病状を際立たせてしまっているように感じられるのだった。

 ふと、テレビの前にある花瓶に目が留まる。その花瓶は、ずっと前からうちに置かれていたものだ。特に気に留めたことはなかったが、沖縄のやちむんで、なかなか立派な花瓶だ。あれは一体、いつ買ったものなのだろう。

  「あれはねえ、いつじゃったか、沖縄でもろうたんよ」と父が言う。「1985年ごろじゃったか――沖縄の東風平中学に取材に行ったとき、そこの先生がくれたんよ。あのとき、ビールをよけえ飲ましてもろうたよの。なかなか変わった先生じゃったけど、よお生徒を全国大会にまで出場させよった。その先生が言いよったのはね、『なんのために部活動を頑張らせるかって、この子らは卒業して結婚したら、内地へ行くことは滅多にないんです。でも、部活動で頑張れば、全国大会で内地に行ける。だから部活を頑張らすんです』って。あんたを連れて沖縄に行ったときも、同じ東風平中学の先生が万座ビーチホテルまで連れていってくれたんよ」

 小さい頃に東風平中学に連れて行かれたことはおぼえているし(それで「こちんだ」という地名をおぼえた)、万座ビーチホテルに宿泊したこともおぼえている。ただ、先生に万座ビーチホテルまで連れていってもらったことは、記憶から抜け落ちていた。Googleマップで検索すると、有料道路なしだと90分近くかかる道のりだ。わざわざそんな遠くまで乗せていってくれたのは、なぜだったのだろう。 

「そういやあね、お兄ちゃんが今年、こどもを連れて万座ビーチホテルに泊まったらしいんよ」と母が言った。兄はどういう気持ちで、自分が小さい頃に泊まったホテルに、こどもを連れて出かけたのだろう。僕の父は、どういうつもりで(自分で車は運転できないのに)万座ビーチホテルだなんて遠いホテルを予約したのだろう。