9月24日

 8月の終わりに、取材で北海道に出かけた。せっかく北海道に行くのだからと、レーシングカレンダーと照らし合わせてみると、その週の土曜日には札幌2歳ステークスが開催されるらしかった。まだ夏を感じさせる札幌競馬場で、帽子も日焼け止めもなくジリジリと肌を焼かれながらパドックを凝視し、馬券を外し、ビールを飲んだのは楽しい思い出となった。

 競馬を観始めたのは中学生のときだった。たぶんきっと、『みどりのマキバオー』がアニメ化されたことがきっかけだったのだと思う。週刊少年ジャンプは毎週読んでいて、『みどりのマキバオー』ももちろん楽しく読んでいたけれど、その段階ではまだ「競馬」というものは紙の中の世界だと感じていた。でも、それがアニメ化されて、実況の声や雑踏の音を耳にしたことで、リアルな競馬にも関心を持ったのだろう。それに、同じクラスで同じ部活に所属するY君が競馬好きだったのも、競馬に興味を持つ入り口になったような気がする。Y君が好きな馬はライスシャワーだった。

 中学生や高校生の頃は、熱心に競馬中継を観ていた。でも、高校卒業後に最初の一人暮らしをしたのは仁川だったというのに、阪神競馬場には一度も足を踏み入れず、競馬中継も観なくなってしまった。画面越しには親しんでいたけれど、そこから急に競馬場のすぐ近くに部屋を借りてしまったことで、尻込みしてしまったような気もする。それから20年ほど競馬から離れていたのだが、去年かかわった作品に競馬好きの人たちがいて、その人たちが日曜日になるたび真剣に競馬の予想をしている姿を見て、昔の記憶がよみがえってきて、また競馬中継を観るようになった。そして、去年の秋、その競馬仲間と3人でマイルチャンピオンシップを観に出かけた。20年前はいちども足を踏み入れなかった阪神競馬場でGⅠを観たことで、すっかり競馬熱が再燃した。

 いや、「再燃」とは少し違う。競馬を熱心に観なくなってからも、2回くらいは競馬場に出かけたことがある。いずれも日本ダービーの日で、熱心に予想をするわけでもなく、ただ競馬場の開放的な空間を満喫し、遠巻きにレースを眺めただけだった。でも、マイルチャンピオンシップのときは、雨が降るなか、朝からずっと友人たちとスタンドの最前列に立ち続け、目の前を駆け抜けるサラブレッドを観た。馬がドーッと駆けてきて、ドーッと駆け抜けていく迫力に圧倒されて、競馬場で競馬を観る楽しさを初めて知ったような気がした。しかも、そのマイルチャンピオンシップでは、ビギナーズラックで3連単も当たったのだった。

 それ以降、昨年末の有馬記念や、今年のヴィクトリアマイル、日本ダービーと、ときおり競馬場に足を運んできた。ただ、競馬場に行くとなると、「せっかくだから、1レースからしっかり予想を立てて、とにかく馬券を当てよう」という思いに取り憑かれてしまって、競馬場自体を堪能する、というところには至っていなかった。でも、札幌競馬場で競馬場自体の楽しさに改めて触れたことで、「もっと競馬場に通おう」という気持ちになった。そして先週は、ひとりで中山競馬場に出かけ、セントライト記念を観た。

 じっくり競馬場を堪能しようと、レースの予想はスパッと決めることにして、場内をぶらついてみた。お昼ごはんはどこで食べようかと、北フードコートに足を運んでみると、どこも歴史がありそうなシブい店が並んでいた。フライドチキン専門店や、昔ながらのカレーライスなど気になるお店はいくつもあったけれど、この日は行列のできていた「翠松楼」という店に並んだ。ラーメン、ワンタンメン、チャシューメン、チャーシューワンタンメン、ワンタンと、様々なメニューが並んでいる。注文口の店員さんが、注文を受けた順に、色違いの食券が並べてゆく。店内には麺を茹でる大将のほかに、ワンタン担当、チャーシュー担当といった具合に従業員が配置されていて、それぞれが食券の色を確認し、ぱぱぱぱっと、一杯のどんぶりに具材が盛り付けられてゆく。その様子を眺めているだけでも楽しかったが、注文したワンタンメンも美味しかった。もちろんビールも飲んだ。

 競馬場に張り出されてあるイベントカレンダーをチェックしていると、9月24日は生ビール半額デーだと書かれていた。これは知人を誘うしかないだろうと、連れ立って中山競馬場に出かけることにした。

 この日のメインレースはオールカマー。GⅠ馬が何頭も出走し、豪華な顔ぶれが揃っていた。それに、この日は入場が無料とあって、場内が混み合いそうだったので、スタンド3階にある指定席を予約しておいた。3階指定席だと、馬場をしっかり見渡せる上に、座席にモニターもついている。今年5月、知人と一緒に東京競馬場でヴィクトリアマイルを観に出かけたときにも、スタンド6階の指定席を予約した。ターフを一望できる、なかなか贅沢な場所だ。上から見下ろす景色は壮観だし、「やっぱち目の前でレースを観たい」と思えば、もちろん1階で観ることだってできる。競馬場で長時間過ごすとなると、ベースとなる場所が欲しくなる。ベンチや通路のあちこちに、新聞や飲み物、あるいは折りたたみ椅子が置かれていて、そうやって場所取りをしている人もいる。だから、指定席を予約しなくたって、ベースとなる場所をつくることは可能ではあるけれど、ベンチなんかは早い時間に埋まってしまっている。

 それに、去年の有馬記念のときに目にした光景も、荷物を置いて場所取りをすることを躊躇する理由のひとつだ。そのときは競馬仲間数名と一緒で、4コーナー付近にある芝生エリアにピクニックシートを広げて観戦していた。他の皆がスタンドに出かけるとき、シートと荷物を置いたままその場を離れるのはどうにも不安だったので、ぼくだけシートに残っていた(皆が戻ってきたところで、スタンドに出かけるようにしていた)。あれはたしか、ちょうどお昼時のことだった。観衆の多くが、シートや荷物を残したまま、お昼ごはんを求めてスタンドに向かった。人が少なくなった芝生エリアに、つかつかと男性がやってきて、無人のシートをおもむろに引き剥がし、荷物をどかし、自分のシートを貼って座り込んだ。その光景を目にしたこともあって、荷物だけを置いて場所を取る、ということには抵抗がある。それで指定席を予約しておいたのだ。

 指定席を予約するだけなら、1階の指定席を選べば安く済む。ただし、手頃な価格の座席のほうがきっと、倍率は高くなるだろう。それに、パドックの見やすさもある。先週のセントライト記念は特に指定席を取っていなかったのけれども、メインレースが近づくにつれパドックは混み合うようになり、セントライト記念のパドックを観るのはちょっと大変だった。今週は豪華な顔ぶれが揃う上に、入場無料デーだから、パドックはさらに混み合うだろう。ただ、指定席を手配しておけば、2階や3階のテラスから、パドックを観ることができるので、3階の指定席を予約しておいたのだ。

 11時過ぎに競馬場にたどり着き、まずは北フードコートに向かう。知人は「そばの気分」だというので、梅屋でちくわ天そばと、それに1杯目のビールを買って、腹を満たす。まだ食べられそうだったので、フライドチキンも1個ずつ買い求めると、袋の中に故障と塩の小袋も入っていた。フライドチキンをそのまま齧ってみる。これまでに食べたことがないタイプのフライドチキンで、びっくりする。まずはサクサクした衣の食感が伝わってくる。そして、その味付けも、素材そのままの味という感じがする(だから塩と胡椒がついてきて、自分の好みの味付けに仕上げるのだろう)。どこでも食べたことがない味だなと、妙に感動してしまって、塩も胡椒も振りかけないまま完食してしまった。

 腹を満たしたところで、3階の指定席に上がる。自分たちの席を見つけて、腰を下ろす。ふと、斜め前の席が目に留まる。そこには若い女性客がふたり座っていて、テーブルには持ち帰り用の器に盛られたミートソースを、箸を使って平らげている。あれ、パスタなんてあるのかと調べてみると、南フードコートにはドマーニが入っているらしかった。次回は南フードコートに行ってみようかなんて考えていると、そのテーブルに、マイメロのパスケースが立ててあるのが見えた。そのパスケースの中には白馬の写真が収められ、横に「はややっこ」の文字がデコられていた。

 パスタを食べ終えると、そのふたりは机に伏せて眠ってしまった。彼女たちはきっと、純然たるハヤヤッコのファンなのだろう。レースが進んでも眠ったままなので、一体どんな暮らしの中で、どんなきっかけでファンになったのだろうかと、話を聞いてみたいような思いに駆られる。9レースが始まる頃になってふたりとも目を覚まし、バズーカのような望遠レンズを装着したカメラを手に出かけて行った。おそらくパドックを撮影していたのだろう、メインレースの本馬場入場が始まる直前にふたりは戻ってきて、撮影したばかりの写真をさっそく見返していた。

 15時45分、メインレースのオールカマーの発走時刻を迎える。1番人気のタイトルホルダーは悠然と先頭に立ち、スタンド前を通過してゆく。3馬身から4馬身ほど他馬を引き離すと、ペースを落とし、ゆったりとした展開となり、最初の1000メートル通過は「1分1秒1」というアナウンスが聴こえてくる。3階の指定席にはテーブルごとにモニターが据え付けられていて、そこでもレースの模様を確認できるのだが、最初の1000メートルに差し掛かるあたりで、後方にいた馬がグングン上がっていくのが見えた。目を凝らすと、それは白い馬体をした馬だ。この日は芦毛のガイヤフォースも出走していたけれど、グングン上がって行ったのはハヤヤッコだった。スローペースでかかってしまったのか、3コーナーの手前でもうタイトルホルダーに並びかけていた。

 あのふたりは――と、思わずレースから目を外して、斜め前の席に視線を向けると、「速い」とつぶやきながら涙を流していた。早めに上がっていったぶん、残り200メートルを切ったあたりで足があがって他馬に交わされ、最終的には10着に終わったものの、その日のハヤヤッコの姿は印象に残った。これから先、ハヤヤッコの名前に触れるたび、3コーナー手前でタイトルホルダーに並びかけた姿と、そこで涙を流したふたりのことを思い出すことになるだろうなと思った。競馬場に出かけなければ、そんな光景を目の当たりにすることもなかっただろう。あの日のことを忘れないように、日記に書き残しておく。