10月1日

 町屋駅で京成電鉄に乗り換える。千住大橋、お花茶屋と進んでいき、やがて電車は川を越える。この川は何だったけと地図アプリを開くと、そこは荒川だった。ぼんやりしていたせいで、ひとつ手前の隅田川は見逃していた。青砥で成田空港行きに乗り換えると、大きなスーツケースを抱えた海外からの旅行客がちらほら乗っている。知人は空席を見つけて座ったが、車窓の景色をじっくり眺めようと、立ったまま電車に揺られる。

 京成高砂駅前に、「パーマ 着付 貸衣装」という看板が見えた。ここにはどんな時間が流れてきたのだろうかと、ぼんやり眺める。こういうときに「話を聞きに行ってみたい」と思うのは、どういう欲求なのだろう。京成八幡のあたりではお祭りをやっているらしく、一瞬神輿の姿が見えた。その光景に少し心が浮かれ、その浮かれ具合を知人と共有したくなって座席のほうに視線を向けると、知人はケータイの画面しか見ていなかった。

 東中山で電車を降りる。駅の近くにあるビニールハウス、先週通りかかったときには、「これから苗を植える直前」といった具合に土が慣らしてあるように見えたのだが、今週通りかかってもまだ何も植えられていなかった。知人と並んで歩いていると、「結局何にも予想せずにきちゃったけど、大丈夫かな!」「いや、俺もスプリンターズしか予想できてないわ!」と、大きな声が近づいてくる。このままだと、20分ぐらいこの声に悩まされることになるので、一旦立ち止まって、その二人組を先に行かせてから、また歩き出す。競馬場に行くと、後ろに立った人の声に悩まされることが多い。そんなボリュームで話さなくたって、相手に聴こえているだろう、と思ってしまう。自分の声が小さいから、そんなふうに思ってしまうのだろうか。

 競馬場の近くのファミリーマ―トに立ち寄ると、店の前でファミチキを頬張る人たちを何名か見かけた。競馬場のフードコートに個性的なフライドチキン屋さんがあるのに――と、先週初めて食べたばかりだというのに、そんなことを考える。ただ、ボリュームは競馬場のフライドチキンのほうがあるけれど、370円とそれなりの値段になってしまう。ぼくのように行楽気分で競馬場に出かけていると、せっかくだから370円のフライドチキンを食べよう、となるけれど、競馬場に通うことが日常になっている人――特に馬券を当てて稼ぐことを主目的に通っている人であれば、競馬場のフライドチキンよりファミチキを選ぶのだろう。

 競馬場には12時過ぎに到着した。今日の第5レースは新馬戦だから、それに合わせてやってきたのだ。今週は1階スタンド席(スマートシート)を予約しておいたので、まずは席に向かう。Cブロックのスマートシートは、ゴールまであと100メートルという、なかなか絶好のポジションである。パドックを見れなかったので、馬券は買わずに新馬戦を見届けたのち、今週も北フードコートに向かう。先週から気になっていた「トプカピ」という店でポークカレーを買って、別の店でビールを買って、知人と乾杯。「予想通りのあじでウマイ」と知人が言う。そのカレーは昔懐かしい味だったから、スパイシーなカレーが好みな知人が「ウマイ」というのが少し意外だった。

 第6レースのパドックを吟味し、馬券を買ってスマートシートに戻る。さっきまで空席だったひとつ前の列と、もうひとつ前の列にまたがってグループ客が座っていた。会社の同僚だろうか、にぎにぎとした感じで、「これ、ひとり一本ずつ買ってきたから!」と、缶チューハイを配っている。また別の誰かが、どこかに出かけたお土産なのだろう、個包装されたガナッシュの詰まった箱を開け、皆に配っている。いろんな土地で見かける土産物は、こんなふうに配られているのだなあと思いながら、その光景を眺める。そのグループ客は一向に席につかず、立ったまま土産物を配りあっていて、そうこうするうちに本馬場入場が始まった。早く座ってくれないと見えないんだけど、と苛立っていると、その気配を察した知人が、「いろんなことに腹立てて、忙しいねえ」としみじみした様子で言う。

 このスマートシートは、以前は自由席だった場所だ。それが最近改修され、座席と座席のあいだにドリンクホルダーが設けられたシートに――つまり席数を間引き、ゆったりした感覚で配置されたシートになり、有料の座席になった。この日であれば、600円だったか。スタンドからスマートシートエリアに入るところに係員が立っていて、QRコード画面を目視でチェックしている。さっきはそこでQRコード画面を提示し、階段を上がって自分の席に向かったのだが、その階段を上がりきった先にも出入り口はあった。ぼくが予約したのは「1階」のスマートシートだが、その出入り口は「2階」にあたる。だから、ぼくのQRコードでは出入りできない可能性もあるけれど、第6レースが終わったあとにその出入り口に向かってみると、その出入り口を通ってスマートシートエリアに入場する際にはQRコードをチェックしていたのだが、逆方向に進むぶんにはチェックをされなかった。

 しめた、と思った。というのも、そこを進んでいくと、2階からパドックを見下ろせるのだ。今日のメインレースはスプリンターズステークス、GⅠである。1階のパドックは相当混雑するだろう。でも、2階より上にあるテラスは指定席を購入した人しか入場できない。レース前にじっくりパドックを観ておきたいと思ったので、1階よりは混雑しないであろう2階からパドックが見れるなんてラッキーだ、と思ったのだった(あとになって、試しにその出入り口からスマートシートエリアに入場しようとしたところ、普通に通過できたので、「しめた」も何も、1階スマートシートを利用する客でも普通に利用できるエリアだったのだけれども)。

 2階の出入り口からパドックに移動し、じっくり馬を観察し、馬券を買ってスマートシートに戻る。知人と一緒に、その動きを繰り返す。あれは何レース目だったか、隣でパドックを見下ろす知人のほうにふと目を向けると、なぜかイヤフォンをつけていた。もしかしてラジオNIKKEIでパドック解説でも聞いているんだろうかと思ったら、そうではなく、単にイヤフォンのノイズキャンセリング機能を使っているだけだった。パドックにしろ、スタンドにしろ、競馬場で人混みに紛れているときにつらいのが、後ろの声だ。連れ同士に聴こえるくらいのボリュームで話しているのならともかく、結構なボリュームでしゃべり続ける人が一定数いる。後ろに立つ人たちの声というのは、結構耳に触る。延々と語られる情報やレースの見立てを背中で聴いていると、気が吸い取られていくような感じがして、どっと疲れてしまう。イヤフォンのノイズキャンセリングはいいアイディアだなと思ったが、ぼくが使っているAirPodsだと、あまり周囲の音を遮ってくれない。

 第9レースを見届けて、またパドックに移動する。さっきまでと比べて、人垣が多くなっている。10レースのパドックを見て、マークシートを知人に託す。どうしても11レースのパドックをじっくり見たくて、10レースをスタンドから見るのは諦めることにしたのだ。この時点で2階のテラスにいる人たちは皆、同じことを考えていたようで、10レースの出走馬がジョッキーを乗せ、馬場の方に姿を消しても、テラスから立ち去る人は見当たらなかった。

 しばらくすると、パネルを持った女性がやってきて、パドックの内側にある芝地に、「1」、「2」、「3」と書かれたパネルを並べていく。そこに着飾った人たちがやってくる。「やっぱり、皆金持ってそうな感じが出てるね」と、後ろで誰かがつぶやくのが聴こえてきて、ああ、馬主やその関係者か、と気づく。やがてスプリンターズSの出走馬が出てくる。一番人気のナムラクレアは、順調そのものという感じがする。それから、ピクシーナイトも格好良く見える。普段のレースと違って、ジョッキーも早めにパドックに姿を現し、馬主や関係者と談笑している。「川田も営業スマイルしてる」と、また別の方向から声が聴こえてきて、「8」のパネルが置かれたところに目を向ける。川田を笑顔を見せている。「今、川田何考えてんだろ」と、声が聴こえる。「いや、普通に、『早く馬に乗りてー』って思ってんじゃない?」と、聞かれたほうが答える。ほどなくして合図がかかり、ジョッキーが馬にまたがる。

 川田が騎乗するのはママコチャという馬で、重賞は未勝利ながら人気を集めていた。でも、パドックを眺めていても、どうしてそんなに人気が集まるのだろうかと不思議な感じがした(これはもちろん、ぼくが馬を見る目なんて持ち合わせていないせいもあるのだが)。川田が騎乗する、ということも人気を加速させているのだろうか。去年のリーディングジョッキーで、インタビューを読んでも理知的で、非の打ちどころがない、という感じがする。でも、あまりにも完璧に思えて、川田が乗る馬券を買うのを躊躇ってしまう自分がいる。そんなとき、なにかに賭けるという行為は、自分を写す鏡なのだということを実感させられる。

 パドックをじっくり見て、マークシートに記入する。1着にナムラクレア、2着/3着にジャスパークローネとピクシーナイト、3着にウインマーベルとメイケイエールを加えたフォーメーションで、100円ずつ6点購入する。

 あとはレースを観るだけだとビールを買って、スタンド内をぶらついていると、ママコチャの勝負服を見かけた。正確には、ママコチャの勝負服を模したシャツである。肩のところに白い馬のぬいぐるみをつけていたから、きっとソダシのファンなのだろう。ママコチャはソダシの全妹で、同じ馬主が所有している。「ソダシの妹が初めてGⅠに出走するから、応援にかけつけないと!」と、中山競馬場にやってきたのだろうか。

 スマートシートに戻ると、「ソフトクリーム持っていこうかと思ったけど、人が多くて全然無理やった」と知人が言う。中山競馬場には、「耕一路」というスタンドがある。先々週にひとりで競馬場にやってきて、のんびりあちこち探索しているとき、そこに長い行列ができているのを見かけていた。お昼時でもないのに、どうしてこんなに行列ができているのだろうかと近づいてみると、「COFFEE SHOP」と看板に書かれてあった。

 コーヒースタンドにどうして行列ができるのかと不思議に思っていたが、行列のお客さんたちは皆、ソフトクリームを注文していた。どうやらここのモカ・ソフトクリームは中山競馬場の名物になっているらしかった。知人はお昼ごはんを食べたあと、ひとりで場内を散策しているときに「耕一路」を見かけ、どこかのタイミングで食べようと心に決めていたらしかった。せっかくだから、ぼくにひとくちお裾分けをと思ったようだが、パドックはひとだかりがすごくて諦めたのだという。

 「ソフトクリームの中では、コーヒー味が一番好きなんよ」と、知人は言った。もう10年以上一緒に暮らしているけれど、そんな話は初めて聞いたので、知らないことってたくさんあるのだなと気づかされる。聞けば、小さい頃に家族でおばあちゃんちを訪ねた帰り道、サーティーワンに立ち寄ることが多く、そこで「ジャモカ」というコーヒーフレーバーのアイスクリームを食べるのが好きだったのだと、知人は教えてくれた。先々週に行列を見かけたときには「なんだ、ソフトクリームか」と通り過ぎていたくせに、そんな話を聞くと、妙に食べたくなってくるのだった。

 やがて本馬場入場を迎え、出走馬が馬場に姿を現し、スタンドは観衆で埋め尽くされる。ファンファーレが鳴り響き、歓声が湧き上がる。1200メートルのスプリント戦は、レースが始まると、あっという間に最後の直線に馬の群れがやってくる。抜け出したのはママコチャだった。残り200メートルを切っても、ママコチャが先頭のまま、馬の群れが迫ってくる。外からナムラクレアが差してくるが、ママコチャの脚色は衰える気配がなかった。内を突いてまた別の馬も伸びてくる。どの馬でもいいから、差してくれ!、と、心の中で叫んだ。そんな感情が自分の内側から出てくることが不思議だった。自分が買った馬よ、来てくれ!ではなく、どの馬でも、なんでもいいから差してくれ!という、謎の感情が湧き上がってきたのだった。そんな感情が届くはずもなく、ママコチャは1着でゴールし、見事にGⅠのタイトルを獲得した。

 なかば呆然としたまま、ターフビジョンに映し出されるリプレイ映像を眺める。やがてレースは確定し、表彰式が始まる。どこか緊張した面持ちの厩務員の姿を眺めていると、自然と拍手をしていた。表彰台にはもちろんオーナーの姿もあって、ああ、この人があの勝負服のオーナーなのか、とぼんやり眺めていた。

 最終レースも外れ、この日も1レースも当たらなかった。中山開催は今週で一旦終わり、来週からは府中に舞台が移る。次に中山開催がある頃にはもうすっかり冬になっているのだなと、東中山駅までとぼとぼ歩きながら考える。冬に食べるソフトクリームも悪くないけど、今日みたいに残暑を感じる季節のうちに、モカ・ソフトクリームを食べておけばよかった。

 夜になって、友人からLINEが届いた。そこには「ソダシが引退」と書かれてあった。記事を読むと、調教師のコメントとして、「ちょうど妹のママコチャがG1を勝ったことで、金子オーナーから『ちょうどいいタイミングでバトンを渡せるんじゃないか』というお話がありました」という言葉が報じられていた。それを目にした瞬間に、憤りをおぼえた。ソダシは安田記念を終えたあと、脚部不安で入厩できないままになっていたというから、直接の原因はそこにある。でも、引退する理由として、妹がGⅠ馬になって、「ちょうどいいタイミングでバトンを渡せるんじゃないか」というのは、どういう話なんだろうか。ソダシに魅了されていたファンは、あくまでソダシの走りに魅了されていたのではないか。

 ソダシの引退を知らせてくれた友人は、大のソダシファンだ。その胸中を思うと、なんと返事をすればよいのか、言葉に詰まってしまう。どう返事しようかと悩んでいるうちに、凱旋門賞の中継が始まった。