10月28日

 5時45分に日暮里駅を出発したスカイライナー1号は、思いのほか混み合っていた。コロナ禍が始まったばかりの頃に、ほとんど乗客がいなかった時代はもう、遠い昔のことのように思える。始発だというのにたくさんの乗客がいて、通路側の席まで埋まっている。連休というわけでもないのに、成田空港も結構な混雑で、保安検査場には長い列ができていた。その入り口にはゲートがある。読み取り機にチケットのコードをかざすと、ゲートが開く仕組みになっているのだが、チケットを持っていない人が侵入するのを防ぐためなのか、前の人が通過してすぐにゲートに進んでしまうと、機械が反応しなくなる。ゲートの近くに係員がいて、何度も「前の方が通過したあと、ゲートが青くなってからお進みください」と繰り返し注意しているのだが、ほとんど誰もその声を聴いておらず、ゲートは何度も詰まってしまっていた。「私、さっきから何度も言ってます! 青く光ってから進んでください!」と、係員の声がフロアに響き渡っていたが、あの声はどれだけ伝わっていたのだろう。

 春秋航空621便は、定刻より早く広島空港に到着した。「車だったら、道が空いてたから早く着くとかあるけどさ、飛行機が早く着くってどういうこと?」「めっちゃ空が空いてたんじゃない?」「それか、めっちゃ急いで飛んだんじゃない?」後ろの列に座る3人組の乗客が、笑いながら言葉を交わしている。

 空港と在来線の駅を結ぶリムジンバスが発車するまでしばらく時間があるので、カフェにでも入るかと空港をぶらつく。前に広島空港から飛行機に乗ったときには、3階にあるロイヤルホストを利用した。税込968円のモーニングプレートを注文すると、トースト2枚とスクランブルエッグ、ソーセージにハッシュドポテトがついてきた。そのプレートに並ぶ料理は、どれもぺらぺらしたものに感じられて、これで1000円近くかかるのか、と考えてしまった。たぶんきっと、昔からロイヤルホストのモーニングはこんな感じだったのだと思う。それがぺらぺらしたものに感じられるのはどういうことだろう。上等な朝食に慣れてしまった、ということではないのは確かだ。だとしたら、ファミレスという場所に感じていた特別さが消えてしまったのだろうか。

 今日はロイヤルホストではなく、出発ロビーにあるカフェバーに入り、550円のコーヒーを注文した。コーヒーが1杯550円か。空港のカフェバーなのだから、それぐらいの値段がして当然なのだろう。前はあんまり、「550円か」なんて思わなかったなと気づいて、不思議な感じがする。高校生の頃に、あれはどういうきっかけだったのか、父と東京に出かけたことがあった。父の用事があって、それに同行したのだったと思う。当時プロレスが好きだったこともあり、闘魂ショップに立ち寄った。その前だったか後だったかに喫茶店に入り、メニューを開くと、コーラフロートが750円と書かれてあって、その値段にびっくりしたおぼえがある。あの頃は高校生だったし、東京の物価にも慣れていなかった。あれから20年以上経った今、どういうわけかまた、コーヒーの値段に「550円か」と立ち止まっている。

 こんなに早い時間帯の飛行機で里帰りしたのは、特に理由があるわけではなかった。LCCの春秋航空が運航する成田―広島航路は1日に2便あって、早朝便のほうが安く済むからと、この便を選んだだけだった。こんなに早い時間に実家に帰っても時間を持て余してしまうから、550円のコーヒーでしばらく粘り、パソコンを広げて仕事をしていた。

 実家の最寄駅に到着したのは、11時過ぎだった。いつもなら駅まで母親に迎えにきてもらうところだけど、今回は歩いて帰ることにした。「今日帰る」とは伝えてあったけれど、午前中に帰るとは伝えていなかったから、お昼ごはんの用意はないだろう。ただ、この時間帯だと「なんかありあわせで作ろうか?」という話になってしまいそうで、なんだかそれも億劫に感じられたので、近所のラーメン屋でお昼を済ませることにした。そのラーメン屋は、僕が小さい頃からずっとある。店の裏が通学路になっていて、同級生と一緒に下校しながら、店から漂ってくるスープの匂いやチャーシューの香りをかぐのが好きだった。そのお店を切り盛りしているおばちゃんは祖母の知り合いかなにかで、ラーメンを食べに行くと「あら、ともくん!」と出迎えてくれた。今はもうそのおばちゃんは店に立っていなくて、誰でもない客のひとりとして、黙ってラーメンを平らげている。

 久しぶりにあのラーメンを食べよう。そう思って国道沿いを歩いていると、向こうから水色の車が走ってくるのが見えた。うちの車とおんなじようなタイプだなと思っていると、母が運転席に乗っているのが見えた。きっと買い物にでも出かけるところなのだろう。この国道沿いは、あんまり人が歩いているような道路でもないから、こっちの姿に気づくかもしれない。少しだけ笑顔をつくって、運転席に視線を送っていたのだけれども、母親はこちらに気づくともなく走り去っていった。その表情に、どこかひっかかるものがあった。僕が知っている母の表情より、どこか暗く感じられた。ただ、僕が接してきたのは、家族の時間を過ごしているときの母だ。その表情と、ひとりで車を運転するときの表情は別物だろう。ひとりで運転しているときに笑みを浮かべている人なんていないだろうし、あまり深く考えないことにして、ラーメンと餃子のセットを平らげて、実家に帰った。

 玄関には鍵がかかっていた。そこにも違和感をおぼえた。さっきすれ違った車には、母親の姿しか見えなかった。だとしたら、父親は家に残っているはずだ。それなのに、鍵がかかっているのはどういうことだろう。玄関前に立ち尽くしていると、通りかかった人がこちらにやってくる。どうやら町内会の人らしく、町内で消防訓練があって、それぞれの班から2名ずつ参加しなければならないので、それを伝えておいてもらえるように、とのこと。このまま玄関に立ち尽くし続けていると、またなにか伝言を預かることになるかもしれない。それも億劫だし、こうして立ち尽くしているのは不審者に見えるかもしれない。どこか空いている扉はないかと探してみると、母屋の縁側があいていたので、そこから家に入ることができた。

 家に入ってみると、やはり父の姿も見当たらなかった。戸締りもせずに出かけたのは、それだけ慌ただしかったからなのだろうか。母屋から自宅のほうへ移動してみると、夏に帰省した時とは少し様子が変わっていた。居間に置かれたコタツの横に、衝立のようなものが置かれてある。洗面台には椅子が置かれ、玄関には杖もあった。

 あれは去年のいつだったか、父の具合が芳しくない、という連絡があった。父は何年も前に胃癌の手術をおこなっていて、そちらの経過は順調だったのだが、あるとき病院で検査をしてもらったところ、足の付け根に腫瘍がある、と言われたそうだ。その腫瘍を治療するには、足を切断するしかない――大学病院の医師にそう言われたものの、父は「足は切らん」と言って帰ってきたのだ、と。

 去年の12月、祖母の一周忌で久しぶりに父と顔を合わせたのだが、座っているのがつらいのか、お坊さんがお経をあげているあいだ、父は何度も姿勢を変えて、どんどん態勢が崩れていった。その姿を目にしたときに、坪内さんが言っていた「戦後80年はないかもしれない」という言葉が頭に浮かんできた。戦後70年の年に、『en-taxi』に掲載されたインタビューの中で、坪内さんはそう語っていた。人間の社会的な記憶が5、6歳から始まるとして、終戦のときに6歳だった子が、戦後70年のときには76歳を迎えていた。戦後80年を迎える頃には86歳となり、平均寿命を迎えることになる。そうすると、戦争の記憶を持っている世代がほとんどいなくなってしまって、「戦後××年」というくくりがもはや意味をうしなってしまうのではないか――と。僕の父は昭和20年、ちょうど終戦の年に生まれている。

 この一年は観光をテーマにした取材で広島に帰る機会も多かったのだが、帰省するたび、父の衰えを感じるようになっていた。足を少し引きずって歩くようになっていたし、座っているのが辛いからと、車の助手席には厚手のクッションが敷かれるようになっていた(父は免許を持っていないので、もっぱら助手席に乗る)。ただ、玄関に置かれた杖や、洗面台に置かれた椅子を目にすると、いよいよ生活に支障をきたし始めているいるのだろうかと考えてしまう。

 ひとりで考えていても仕方がないので、母に電話をかけてみると、父を連れて町内のクリニックにきているとのことだった。ここ数日は食欲がガタッと落ちていて、心配になって祖母を診てもらっていたクリニックに出かけたところ、「とりあえず点滴を打ちましょう」という話になったのだそうだ。父も車に乗っていたものの、シートをばったり倒して乗っていたから、姿が見えなかったのだろう。電話をかけて2時間ほど経って、父と母は帰ってきた。父は母に支えられながら帰ってくると、母屋の縁側に行き、リクライニングチェアに座って眠り始めた。

 父を寝かしつけると、母は一枚の紙を取り出した。点滴を受けるに先立って、血液検査を受けたらしく、検査結果が書かれていた。何の数値だったか、今となっては記憶にないが、いくつかの項目に異常が診られるらしかった(そのひとつがヘモグロビンだったことはおぼえている)。うちでは詳しい検査はできないけれど、すぐにでも大きな病院で診察を受ける必要があるだと、そのクリニックの医師は母に言ったそうだ。少なくとも輸血を受ける必要がある数値である、と。

 その医師は、診察室を出ようとした母を呼び止めて腕を掴み、ちゃんとした検査を受けんとはっきりしたことは言えんけど、あと1ヶ月くらいじゃと思うといたほうがええかもしれんど、と母に言ったそうだ。そのクリニックは、最後の数年は寝たきりになった祖母を診てもらっていたクリニックだ。つまり、母が長い介護生活を終えたばかりだということを知っている。そこへきて、夫まで先が長くないということを伝えるときに、そんな言い方になったのだろう。

 その話を聞いても、僕の胸に去来するものは特になかった。ただ、母が僕の腕を掴んだ感触だけが強く残った。

 母は、病院で受けた説明を僕に伝えるとき、自分がそうされたことを再現するようにして、僕の腕をぐっと掴んだ。母に触れられる記憶というのは、小さい頃にまで遡る。だからだろうか、母が僕の腕を掴んだ衝撃が、母が受けた衝撃のあらわれであるかのように感じられた。

 午後は部屋で原稿を書いていた。17時半頃になって「ごはんできたよ」と呼ばれ、1階に降りてみると、父は苦しそうにソファに腰掛けていて、「あんまり食べれんで」と母に伝えているところだった。「ええんよ、ちょっと食べりゃあええんじゃけ。ほんとひとくちでええんよ」と言いながら、母は食卓に料理を並べていた。

「こんな無様な格好になっとるわ」。父はこちらに向き直すと、そんな言葉を口にした。返す言葉が思い浮かばず、僕は黙ってビールをあけて、グラスに注いだ。父の姿に言葉を失ったというわけでもなく、特に浮かんでくる言葉がなかったので、黙ってビールを飲んだ。最近はもう、ずっと母さんの世話になっとる、と父は続けた。

「今朝、母さんとも話したんじゃけど――D家の長男――父さんの一番上の兄貴のところは、父さんら兄弟とはあんまり付き合いがなかった」。そんなふうに、父は独り言のように話し始めた。父は5人兄弟の末っ子で、母と結婚するときに婿養子に入っている。「D」というのは父の旧姓で、その本家というのか、父が生まれ育ったところは電車で数駅離れたところにある。「うちは兄弟の付き合いがほとんどなかったけん、Dの家に行くときも、兄貴がおらんときを狙って行きよった。それでのう、D家の墓はUのA寺にあるんじゃけど、兄貴は結婚してすぐ、別のところに自分の墓を買うとったよ。40万じゃったか、いくらじゃったか――今となっては忘れたけどのう。ともにはのう、もしもこの先も橋本のままじゃったら、あっこのうちの墓に入ってほしいと思うとる。これは昔から言おう、言おうと思いよったんじゃけど、なかなか言えんじゃった」

 まさか「余命一ヶ月」と言っている医師がいるとは想像していないだろうけれど、体力の衰えを感じて、父は父なりに最期の時について考えているらしかった。そんなときに出てくるのがそんな話なのかと、思わずにはいられなかった。僕は「親になる」という選択をしなかった人間なので、墓という場所に対しては、何の想像も持ち得ていない。墓に入ったとしても、その墓の面倒を見る人は誰もいなくなる。いやそういう実務的な問題を差し引いて考えても、墓に入るということに対して何のイメージも持ち得ず、そこらへんに撒いて欲しいとしか思えずにいる。それは別に、散骨に対してロマンチックなイメージを抱いているという話でもなく、自分の骨が埋められている場所に(もっと言えば自分の骨に)何らかの意味があるとは思えず、それよりは自分がよく足を運んだ場所に何かが宿るのではないかと思っている、ということだ。ただ、「家」というものが今よりずっと強い意味を持っていた時代を生きてきて、「養子に入る」という人生を選んだ父からすれば、それはきっと、大きな問題だったのだろう。

 父は「ようやく言えた」といった様子で、どこかほっとした表情を浮かべている。僕は墓に入るということすら想像していないことを考えると、安堵した父の姿も含めて、すべては徒労であるかのように思えてくる。

「今頃はのう、縁側で庭を見ながら、じーっとしとる。あの庭は、きれいなけんね。あそこへ座って、3時間ぐらい――近頃は椅子に座っとるのがしんどいけん、1時間半ぐらいしかおられんけどのう。それで――前にも話したことがあるかもしれんけど、父さんの一番上の姉は広島市立女子――今の舟入高校に通いよって、学徒動員で被曝して死んだんよ。親父はそのとき、広島二中に勤めよった。そこの生徒らは廿日市のほうに学徒動員されとって、それを引率しておったけん、助かった。アーちゃん(僕の祖母)の弟は、広島工業学校に通いよって、学徒動員されて死んじゃった。そんとな話は、よおある話なんよ。じゃけん、縁側に座っとると、幸せじゃのうと思うんよ。足が痛いときもあるけど、幸せじゃのうと思う。あんたは沖縄に行く機会が多いじゃろうけん、戦闘機を見ることも多いと思うけど、うちの縁側に座っとったら、だんだん空が青うなってきて――そこには何も通らん。戦闘機が通らんのが、平和じゃと思う」

 僕は黙ったまま、ビールを飲んでいた。父が青い空を見上げているときに、戦闘機が飛び交っている空のことを考えてしまう。「今のイスラエルでもなんでも、人民を大切にするというのは、実際にするのは難しいよの」と、父はひとりで話を続けた。新聞を読んでも、立派なことを主張する人は多いけど、実際には相手の意見を蹴散らすだけで、人民を大切にするということをやるんは難しいことよと。人民、という言葉が出てくるのが、どこか意外に感じられた。ただ、僕の頭の中には、国際情勢のことよりも、縁側という言葉が呼び起こす記憶が膨らんでいた。

 今の実家は、中学2年生のころに、祖母が暮らす母屋にくっつけるようにして新築したものだ。それまでは同じ町内でも、少し違うエリアにある借家に暮らしていた。その家にも縁側があり、小さな庭があった。僕が小学生だったころ、父が鳥籠を買ってきたことがあった。父はその鳥籠の中にみかんを置いて、扉に糸を引っ掛けておいて、縁側でじっと息を潜めていた。その鳥籠にメジロが入った瞬間に、糸から手を離し、メジロを捕まえていた(メジロを捕まえるのは違法だと、当時からなんとなく知っていたけれど、今となっては時効だろう)。そんな記憶を掘り出して話すと、父はむせ返しながら笑っていた。

 「中学校時代の同級生で、よおメジロを捕まえよるやつがおったんよ」と、父は言った。「造り酒屋の息子で、金持ちでね、悪いやつじゃったんよ。そいつがいっつも、鳥をとりに行きよって、メジロもウグイスも、いっぱい持っとった。そいつがのう、いっつも話しよったんよ。すり餌を作るのが難しいんじゃ、って。でも、そいつらがやりよるのを見よったけ、捕まえるのはすぐにできたんよ」

 父が鳥を捕まえていたのは、僕が小学生の頃だ。仮に10歳だったとすると、当時父は47歳。その年齢になって、中学校時代の同級生を思い返すことがあるのかと、少し不思議に思う(こどもの相手をしていると、自分の少年時代の記憶がよみがえってくるのかもしれないけれど、それは僕にはわからないことだ)。父は私立高校の教員をしていた。電車で通勤していたにもかかわらず、小学生の僕が学校から帰ってくると、もう家にいる、という日も珍しくなかった。その家には自分の部屋というのはなく、台所と繋がっている部屋に兄と僕の机を並べていた。僕の机のすぐ隣に勝手口があって、そこにはいつも瓶ビールが2箱積み上がっていて、町内の酒屋さんが定期的に配達にきてくれていた。

「あの頃は、ひどかった」と父がつぶやく。父はいつも早い時間からビールを飲んで、21時頃には眠りについていた(その時間には「テレビ消せ!」と言われていたから、小さい頃にドラマやバラエティを見た記憶がない)。ただ、ビール以外の酒を飲むことはなく、ビールもせいぜい日に2、3本だったはずだから、「ひどかった」という印象は僕にはなかった。それを今になって「あの頃は、ひどかった」と振り返るのが意外でもあった。

 父と話しているあいだに、母は母屋から家具調トイレを運んできた。それも祖母の介護で使っていたものなのだろう。そんなものを運んでこられることに、父はちょっと怪訝な顔をしたものの、「もしも夜中にトイレに行こうと思うて、転んでしもうたら、どうにもできんけん」と母が言うと、特に文句は言わなかった。

 この家に引っ越してきた頃は、父と母は2階の和室に布団を並べて寝ていた。祖母の介護が始まってからは、母は母屋で寝るようになっていたと思う。祖母が亡くなってしばらくすると、今度は父の具合が悪くなって、布団で寝起きするのはしんどいからと、祖母が使っていた介護用ベッドを運んできて、父は1階の和室で寝起きするようになった。21時には眠りにつく父と違って、母は遅くまでテレビを見ている(そのまま寝落ちすることもある)ので、母屋で寝起きしている。

 「刺身、美味しかった?」と母が声をかける。

 「美味しいけど、えっと食べんかった」と父。えっと、というのは、たくさんという意味だ。

 「かぼちゃもやわらかかったじゃろ?」

 「いや、あんまりおいしゅうなかった。母さんがともに作るわりには、おいしゅうなかった」

 小さな茶碗に3分の1くらいだけ盛られたごはんを食べ終えると、「もう寝るけん」と父は言った。歯磨きする? もう寝る? おしっこはええんじゃね?――と、ひとしきり確認すると、母は父を立たせ、肩を貸すようにして父をベッドまで連れて行く。「ほいじゃあね、ともくん。無様な格好で」と言いながら、父は和室に消えていった。父を寝かせると、母は「ちょっと、向こうで食べようや」と言って、食卓に残っていた皿をお盆にのせて運んで行った。

「最近はねえ、今みたいに長い時間元気にしゃべること、あんまりないんよ」。母屋の扉を閉めると、母はそう言った。僕は日本酒の白牡丹を飲んでいた。「ちょっと、ひとくちちょうだいや」と母が言うので、母のコップにも酒を注いだ。

「母さんの味としては美味しくない、ってねえ」と、母は笑った。「だって、父さんの様子を見て、10分おきに台所と行ったり来たりしよったら、そりゃ美味しいものは作れんわいね。それがわかっとらんのじゃなと思うたけど、まあ、言わんかった。しょうがないよね。いつかはそういう日がくるんじゃけ。父さんにはもう、今の状態のことを言うつもりはないんよ。あの人はもう、おそれじゃけん。まあでも、アーちゃんの法事までは頑張って欲しいなと思うとる。父さんもねえ、アーちゃんの三回忌をちゃんとやらにゃいけんっていうことを、ずっと気にしよったけん。……今日、日本シリーズやりよるんかいね。ちょっと観てみようか」

 そう言って母はテレビをつけたが、時刻はまだ18時になったばかりで、野球中継は始まっていなかった。今日から日本シリーズが始まるようだ。母はミュージックフェアーにチャンネルを合わせて、特にテレビを観るでもなく、かぼちゃの煮物をツマんでお酒を飲んでいた。僕は日本シリーズが始まる前に食事を切り上げて、部屋に戻った。自分の部屋にはテレビがないので、隣の兄の部屋に入って、テレビをつける。日本シリーズにはあまり関心を持てなくて、チャンネルをまわしていると、『ジョブチューン』が放送されていた。今日はスシローの寿司を「超一流寿司職人」たちが査定していた。

 ひとりで白牡丹を飲みながら、母の言葉を思い返す。母はもう、どこか覚悟を決めている様子だった。祖母の三回忌の法要があるのは12月9日だから、1ヶ月半先だ。それまで父の体調は持つのだろうか。Googleカレンダーを開いて確認すると、今から1ヶ月後というと、僕はちょうどイタリアから帰国する日だ。もしも僕がイタリア滞在中に体調を崩したら、どうやって連絡をとればいいのだろうかと考える。と同時に、もしも連絡があったとしても、予定を早く切り上げて帰国するつもりは自分の中にはないのだなということにも気づかされる。親の死に目に会いたいという人であればきっと、イタリア行きを中止するのだろう。その人たちにとって、死に目に会うということは、何を意味しているのだろう。

 『ジョブチューン』ではスシローの回転寿司が合格をとり続けている。気仙沼産かつおたたき、グリルチキンチーズ炙り、店内殻むき赤えび、フカの天ぷらガーリックソース、新・コク旨まぐろ醤油ラーメン。あれは何のときだったか、「こちらはできるだけ油を落とさせていただいている商品になります」とスシローの従業員が口にしたのが印象に残った。この番組は、企業の社風というかカラーがはっきり見えるのが面白い。スシローの商品は、結局すべて「合格」になった。スタジオのタレントたちが試食するたびに「うめえー!」と言っていることに、白々しさをおぼえる。スシローで寿司なんか食べないくせに。酒を煽りながら、そんなことを考えていた。