3月19日

 3時過ぎに起きる。ゲストハウスでこの時間帯に起きなかればならないというのは緊張するが、無事に起きることができてホッとする。4時前に宿を出て、国際通りを歩く。この時間でもひと通りがあるものなのだなと驚く。

 

 

 

 

 

 

 

 17時頃になって那覇まで帰ってくる。そこまで運転してきた車を降りて、皆と一旦別れる。宿に引き返し、シャワーだけ浴びさせてもらえないかと相談する。潮風をたくさん浴びたし、汗もかいたので、飛行機に乗る前にシャワーを浴びておきたかった。大急ぎでシャワーを浴びたのち、缶ビールを買って「市場の古本屋ウララ」に行ってみると、ちょうど閉店作業をされているところだ。昨日は皆さんを連れてきてくださってありがとうございましたとUさんにお礼を言われる。いや、きっと皆も、ここで資料を探したかったんだと思いますと伝えておく。

 雨が激しく降っている。サンライズなはと浮島通りの交差点でタクシーを拾って、那覇空港を目指す。A.Iさんから連絡があり、「ROYAL」でゆし豆富そばを食べているところだという。

 

3月18日

 朝、セブンイレブンで必要な書類を出力し、昨日のうちに赤を入れたゲラをスキャンする。ほとんど沖縄のオフィスだ。今日から友人たちが那覇にやってくる。そのふたりが「到着したらまず、ブランチしたいね」と言っていると、ふたりと同行しているJさんづてに連絡があったので、ヘルシーに「金壺食堂」か、街場の食堂か、それかFさん念願のステーキハウスですかねと返す。「Fくんがステーキハウス一択だと言っている」と返信があったので、今日は朝ごはんは食べず、お腹を空かせておく。今日から明日の夜遅くまでは友人たちに同行取材するので、その前に送っておかなければならないメールをひとしきり送信する。

 昨日書きそびれたことがふたつある。ひとつめ。ひめゆり学徒隊の子たちが動員されたわずか3ヶ月の日々は、一体どんな天気だったのだろうと調べてみた。気象庁のウェブサイトでは、この100年間の気象情報が閲覧できるようになっている。当時は天気予報も軍事機密扱いで、戦争が始まると天気予報も消えたのだと何かで読んだ。しかし、統計は残っている。たとえば僕の出身地である広島は、1945年8月6日でさえ気象情報が記録されている。でも、沖縄は、1945年の春を迎えてから、1950年代に入るまで、すべての欄が「×」とだけ記載されている。

 10時過ぎ、皆がこれからチェックインする宿に向かう。すぐ近くがステーキハウスの入り口だったので、そこで待っていると、向こうから3人が歩いてくる。

 

 ここから先は別の形で書く。

 

 書きそびれていたもうひとつのこと。昨日の夕方に、週刊文春のスクープ記事に触れた。こういう記事は感情を拝して冷静に受け取るべきだとわかっているのに、ゲストハウスのキッチンで、涙を流してしまう。この件だけを特権化するために言うわけではなく、どこの誰だって、人にそんな思いをさせていいはずがないのだ。どうして世界はこんなふうにあるのだろう。涙が出る。こんな言葉を人に書かせてしまった人間は、組織は、そのことを抱えて生きていくべきだ。そして、そのことを何とも思わない人間は政治家なんてやめるべきだ。そう思うと余計に涙が出た。夕暮れ時、宜野湾トロピカルビーチに響くこどもの声を聴いているうちに、昨日の感情が思い起こされる。

3月17日

 セブンイレブンで、今日はピリ辛トマトのソースとサラミのなんとかを買ってくる。今日は朝からもう夏みたいな陽射しだが、アイスコーヒーではなく、名残惜しくてホットコーヒーを選んだ。もぐもぐ食べながら、新聞を読む。新聞は新聞でもH.Kさんの「HIMN新聞」である。そこに、一緒に「栄食堂」に出かけたときのことが書かれていた。そこで店員さんが口にした言葉はとても印象深かったのに、日記に書くのを忘れていた。そして、H.Kさんの描写を読んで、一緒に過ごした誰かが書く日記を読むのはとても面白いなと改めて感じる。それは、「記憶」と「記録」は別物だからだ。

 あの日、「栄食堂」で3人とも肉吸いを頼んだ。お店に入ってすぐ、お店のキッチン側に貼られたメニューを眺めながら、焼きめしにしとこかなと思っていたところに、H.Kさんが肉吸いもあるのだと教えてくれて、振り返るとそこにもメニューが貼られており、肉吸いスペシャル、肉吸い卵入り、肉吸いがあるらしかった。僕とH.Kさんが肉吸いスペシャル(卵と豆腐が入ったやつ)を、Eさんが普通の肉吸いを頼んだ。ほどなくして肉吸いが運ばれてくる。お店のお姉さんはお盆をテーブルに置き、あれ、どれがスペシャルやったっけと器を見比べる。これが普通のやんね、と言いながらも、なおもお姉さんは器を見比べていると、Eさんがお盆に手を伸ばし、自分で器を受け取ろうとした。その瞬間にお姉さんは、ええのええの、こっちでやるからと制止して、「嫁入り前やのに、火傷したら大変やわ」と笑った。

 僕は「嫁入り前」という言葉にそれほど強く反応したわけでもなかったけれど、なんとなく頭の片隅に残った。それを、店を出て動物園を歩いていたところで、H.Kさんが「自分、『嫁入り前やのに』って、今まで言われたことある?」とEさんに問うた。今ではほとんど発語されることがなくなったその言葉が気になるらしく、H.Kさんは何度か「嫁入り前」と繰り返した。その出来事が深く記憶され、10日ほど経った今、「HIMN新聞」では「箱入り娘」という言葉になっていた。それはとても鮮やかな記憶だと思った。こまかなことをねちねち指摘しているのだと誤解されるかもしれないが、そんなつもりはまったくなくて、ほんとうに鮮やかだなと感じたのだ。「嫁入り前」という言葉が「箱入り娘」となったのは、「HIMN新聞」にもあるように、『細雪』に登場するふとした言葉がきっかけだったのだろう。坪内さんは、いい加減な記憶違いには厳しかったけれど、誤記憶を大切にする人だったことを思い出す。「嫁入り前」が「箱入り娘」になっていく、記憶が別の記憶と繋がって言葉が広がっていく経過を目の当たりにしたようで、朝からなんだか興奮してしまう。

 Y新聞のサイトにはもう予告が出ているけれど、『あいたくて ききたくて 旅にでる』の書評をようやく書き始める。真っ白な表紙と、タイトルが気になって(「旅」とあると無条件に気になってしまう、旅が好きだからではなく、「旅」がどう位置付けられているのかが気になる)手に取ったのはいつだっただろう。自分が手に取るより先に、仙台に暮らす誰かがSNSで紹介しているのを目にしていたような気もする。『あいたくて ききたくて 旅にでる』は、35歳のときから民話を採訪してこられた小野和子さんの本だ。書評は文字数が限られているのでそこに触れられないけれど、序盤に出てくる、話を聞かせてもらう相手に対する線の引き方が面白かった。

 

「友だち」――明子さんとわたしのつながりを、いまこういうふうに書いたけれど、口当たりよく、こんな言葉を使うと、明子さんはひどくこだわってくる。そのこだわり方にきりきり舞いさせられながらも、それを通して、「土着」ということの意味を教えられてきたと思う。 

 

「たとえば、こんなふうにである」と話は続く。明子さんから電話がかかってきて、沢庵漬けにする大根を干しているから、あんたのぶんも干しておこうかと尋ねられる。ぜひ、だけどお金を払わせてねと小野さんが返すと、「あんた、おれの味方なのか、友だちなのか?」と明子さんが声を荒げる。あるものを分けて食う仲間が「味方」であり、お金を払うなんて言い出すのは、線を引いて付き合う「友だち」だ、と。体良く民話の採訪を進めようとする人であれば、「すいません、ご馳走になります」といって穏やかな関係を保とうとするだろう。でも小野さんは、「ええ。いいわよ。友だちで結構よ」と突っ張る。そこが面白かったし、わかる、と思った。

 語り手と聞き手の関係について、本の中で何度か触れられている。たとえば、第五話「はるさんのクロカゲ」。

 

 そういうときの語り手の表情に、なんとも言えない浄化されたうつくしさを感ずることがある。そこには、突然の乱入者であるにもかかわらず、「聴く耳」を信じようとする意志に支えられた驚くほど単刀直入な自己解放があるのだ。こういう意味で、語り継ぎの場は、「山を越えて」「街へ出て」語りを聞こうとする意志に支えられた聞き手と、語ろうとする語り手との、対等なぶつかり合いの場だと言ってよいのかもしれない。

 

 僕はまだ、誰かに話を聞かせてもらっている時間のことを、「対等なぶつかり合いの場」とまでは思えていない。ただ、場合によっては余計なことだと受け止められてしまうようなことをやっていると思うばかりで、「話を聞く」ということをここまで肯定的にとらえることはできずにいる。小野さんは半世紀にわたって採訪を続けてこられた方だ。半世紀後、自分がもし生きていたら、自分の仕事をどんなふうに振り返るだろう。

 この本について、対象へのアプローチの真摯さを褒めるのは適切ではないと思う。本来すべてがこうあるべきなのに、そうでないアプローチが世の中に存在していることが間違っているのだ。僕が感銘を受けたのは、たったひとりで採訪を始めながらも、「世間にはわたしのやっていることはわかってもらえないだろう」と背を向けるのでなく、採訪を始めて6年目の段階で「みやぎ民話の会」を立ち上げられていることだ。それは1975年、東北自動車道が開通した年だと巻末の年表にある。道路が開通すれば生活が変わる(本の中で語られる「山道」と「大道」の違いは印象深い)。高速道路が開通して「民話」が途絶えてしまう前にと、仲間を集めて組織を立ち上げたことに、なにより頭が下がる。

 お昼頃になって書評を完成させて、メールで送信。宿を出て、栄町市場まで歩く。これまで夜にばかり栄町市場に足を運んできたけれど、ここは「市場」である。昼の姿も見ておかなければと、歩いてまわる。ぐるぐる歩いて、「コツコツ」というスタンドでお昼ごはん。今日の日替わりランチはポーク玉子と味噌汁だ。味噌汁はかなりのボリュームで、そうめんまで入っている。食事を終えると、おもろまちまで足を伸ばし、「球陽堂書房」(メインプレイス店)をのぞく。ひとしきり棚を見て、隣のタリーズに入る。朝は「名残惜しい」なんて思っていたくせに、アイスコーヒーを頼んだ。パソコンを広げ、先日京都で取材した原稿を書こうと思ってみると、テープ起こしのデータが入っていなかった。テープ起こしはウィンドウズの小さなパソコンで(小さいと手を動かす範囲が狭くて済むので作業が楽)、原稿はMacBook Airで書いているから、たまにこういうことが起きてしまう。

 宿の近くまで引き返し、取材させてもらった衣料品店をのぞく。昨日、Uさんと話したときに、「Eさんが橋本さんに会いたがってましたよ」と言われていたのだ。僕の顔を見るなり、Eさんはパッと顔をほころばせ、ずっと会いたかったんです、ここ、どうぞと椅子を出してくれる。これをね、渡そうと思って。ずっと持ち歩いてたから、封筒が汚くなっちゃって、一回取り替えたの。これ、ラブレター。開けてみて。そう促されて中を確認すると、手紙と1万円札が入っている。こちらだけ受け取りますとお金を返そうとすると、いやいや、これを受け取ってもらわないととずっと思っていたんですとEさんは頑なに言う。

 Eさんに話を聞かせてもらったあと、原稿を書き、担当してもらっている記者の方にお店まで原稿確認に行ってもらった。話を聞いた僕ではなくて、いきなり新聞記者が訪ねてきたことにEさんは驚いたのだろう、取材はなかったことにして欲しいとおっしゃったそうだ。そのとき、僕は中国にいてEさんに電話をかけることもできず、連載は休載となった。翌月、あらためて僕がお店に伺って、お話しして、翌月の誌面に掲載させてもらえることになった。記事が出てみると、古くからのお客さんや同級生からも「読んだよ」と連絡があったそうで、Eさんも喜んでくださった。そのお礼と、一回断ってしまったことを申し訳なく思っている気持ちがあるらしく、これだけは受け取ってくれとEさんが言う。僕はそれを受け取って、そのお金でEさんのお店で売られているシャツを買った。

3月16日

 今日も朝からセブンイレブンに出かけ、パンのコーナーに立つ。メロンパン、ソーセージドッグ、ピリ辛トマトのソースとサラミのスティック、ふわふわちぎりパン、ふんわりしっとりホイップロール、ランチパックによく似たポケットランチ、コロッケパン、こんがり3種チーズのもっちりパン、ミルクフランス、アーモンドチョコホイップ。甘いパンは好みでなく、こってりしたものも食べたくなるとなれば、今日も3種チーズのもっちりパンしか選択肢がなかった。しかし、こうしてみると、ここでは甘いパンを買う人が圧倒的に多いのだろう。帰り道、洋服のお直しをする半露店の前を通りかかると、入ってきたら駄目と言ってるでしょう、と野良猫を叱っている。動作で追い払おうとすることなく、ずっと言葉で語りかけている。

 ホットコーヒーを飲みながら原稿を書く。11時過ぎに宿を出て、「市場の古本屋ウララ」をのぞき、Oさんに取材できたことを自慢してしまう。読谷バスターミナル行きのバスに乗って、砂辺に出る。「ゴーディーズ」に入り、ベーコンエッグバーガーとバドワイザーハンバーガーを食べる前にと、トイレに立ち、手を洗う。食事の前にきちんと手を洗う、という意識は自分の中で希薄だったなと思わされる。ハンバーガーを平らげたところで、もう一度手を洗っておこうと席を立つと、会計だと勘違いした店員さんがレジに向かって歩き出す。今のタイミング、完璧にお会計だと思ったと話す声がトイレに聴こえてくる。

 少し歩いて浜辺に出る。第二次世界大戦米軍上陸地モニュメントと、その向こうに広がる海を眺める。浜辺を歩いていくと、波の上に立つ人の姿が見えてくる。ウェットスーツがあちこちに干されている。ブリトーの店に軍服を着た若者が3人並んでいる。ブリトーというものを僕はまだ食べたことがない。このあたりにくると立ち寄るイタリアンの店に入る。ここは3階にあり、海を見渡せるのだが、エレベーターの入り口が目立たないのか、お昼時を外せばいつも空いている。ビールだけ頼んで、海を眺めながら原稿を書く。

 那覇に戻ってくる頃には15時半になっている。「ジュンク堂書店」(那覇店)を眺めながら、次の書評検討本を探す。明日の委員会に書評検討本として出せば、おそらく4月18日か25日に掲載されることになるだろう(この時差がいつももどかしい)。4月の書評欄には、絶対に沖縄戦に関連した書評を掲載したい。前回の委員会のとき、記者の方から「今度取材で読谷に行くんです」と聞かされて、ああ、4月1日に向けてですかと聞き返した。記者の方は、4月1日?とキョトンとした様子だった。4月1日は読谷からアメリカ軍が上陸した日だった。

 やはりこの本しか選べないという一冊を決めて、「ジュンク堂書店」をあとにする。「市場の古本屋ウララ」をのぞくと、ちょうど店主が不在になっているタイミングだった。今日買っておきたい本を見つけたが、戻ってこなそうなので、「あとで買いにきます」と書いた紙を挟んで店をあとにする。路地に入り、宿に戻ろうとしたところで「橋本さん」と呼び止められる。振り返るとUさんだ。引き返して、本を購入する。

 椅子を出してもらって、Uさんと話す。最近は通りが静かだから読書がはかどるとUさんが言う。テーブルの上には『ごろごろ、神戸。』が置かれており、僕の書評がきっかけで読んだのだという。うれしい。いや、すごく良かったですと言われ、僕が書いたわけではないのに、なんだか嬉しくなってくる。あれこれ話すうちに、そういえば、この本の中にも出てきますけど、最近寅さんを観たんですとUさんが言う。『男はつらいよ』には沖縄が舞台の回があり、そこには市場の姿も映し出されている。その映画が公開されたのは1980年で、私が生まれた年だけど、私が生まれた年だとは思えないくらい昔に見えたという。たとえば10年前のことも、ひどく昔に思えるかもしれないし、時間感覚がよくわからなくなってくる――と。

 僕が神戸で見てきた風景の話にもなった。Uさんの関心事はやはりアーケードのことだろうけれど、あまり細かくアーケードのことを見ていなかったなと反省する。三ノ宮のアーケードは、支柱を建てるのではなく、建物の壁に直付けされている。どうしてその方式が採れたのか、Uさんは不思議に思っていたそうだが、少し前に三ノ宮のアーケード事情に詳しい方がいらしたときに、震災のあとに建物を再建するのと一緒にアーケードも計画されたから、それが実現できたのだという。そのことを知っていれば、公設市場の建て替えのプランにアーケードも加えてもらうことができたけど、今からだともうどうにもならない。Uさんの話に、言葉を失ってしまう。ひょいひょいとあちこち出かけているのに、自分の見たいものしか目に入れてないせいで、誰かが必要としている情報を届けられずにいる。

 書いているうちに思い出したが、まさに「目」の話になったのだった。『ごろごろ、神戸。』の書評に「目が宿る」という言葉があって、橋本さんが書いた又吉さんの『人間』の書評の中でも、主人公の網膜に家族の目が宿るという部分に触れられていたけれど、そのふたつの書評は意識的に繋げているのか、と。そのふたつの書評を近づけようとしたつもりはなかったけれど、僕がずっと「目」のことを考えていることが滲んだのだろう。

 僕も昨日追悼文を書いたところだが、Uさんが追悼文を寄せた本も完成したばかりで、追悼文についても話した。何を書けば追悼したことになるのかわからない、とUさんは言う。言われてみれば、何が追悼と呼べるのだろう。考えながら話す。もしも2020年に生まれた人が、やがて故人の存在を知ったとき、「ああ、こんな空気をまとった人だったんだ」とわかるように、個人を知る人が読んでも「ああそうだ、こんな人だった」と思い出せるように、自分は書いているのだなと思う。それでいて、ひとつの芸文として成立しているように、読み終えたときになにかしらの感慨が残るように、書いている。だから、書き終えたあとで読み返していると、涙が出てしまいそうになって、いやいや、自分の文章で泣いてどうすると冷静になる――僕はそんなことをつらつら話した。自分の文章を読み返して涙が出そうになるだなんて、なんて能天気な話だろう。でも、Uさんは正面から話を聞いてくれて、「書き終えたばかりの段階で、そんなに客観的に自分の書いたものと向き合えてるんですね」と感心してくれる。

 こんな話にもなった。なにか諍いごとがあったとき、台湾では喫茶店に出かけていき、話のいきさつを話し、どちらが悪かったのかをその場に居合わせた人たちが判断してくれる――そんな話を聞いたとUさんが言う。喫茶店というのは僕の記憶違いかもしれなくて、もっと別の場所だったかもしれないが、とにかくそんな文化があるらしかった。Uさんはそれが羨ましいという。話を聞きながら、僕にとってここはまさにそんな場所だと思った。諍いごととは違うけれど、取材がうまく行かずに落ち込んだり、くよくよしたり、うまくいって嬉しくなったり。縁もゆかりもないこの土地で、思い浮かんだ気持ちを真正面から話せると思えるのはUさんだけだ。こうしてお店に出かけていって話すだけで、連絡先を知っているわけでもないし、今後も知ることはないだろうけれど、同じような心持ちで文章を書く、ソウルメイトだと思っている。

 18時に宿に戻り、RK新報の原稿をおおむね書き終える。もう少し推敲が必要なので、しばらく寝かせておくことにして、19時過ぎに飲みに出る。「信」は営業していなかった。どうしようかとグルグル歩いていると、「末廣ブルース」の方に出くわし、そのまま「末廣ブルース」に入り、レモンサワーとまぐろ刺宮古島スタイルを頼んだ。味噌で和えてあり、にんにくの風味も効いておりウマイ。レモンサワーを2杯飲んだところで「KYJ」に流れ、墨廼江を飲んだ。メニューの中に豆苗とキノコのお浸しがあり、「このお浸しをください」と指差すと、なえ……と店員さんが言う。キッチンに向かって、まめなえのお浸し、ご注文いただきましたと伝えると、他の店員さんたちが一斉に笑う。北海道からやってきて、最近アルバイトを始めたばかりだという。良い店員さんだし、良い店だなと思う。昨日の空きっぷりを目にした以上、今日も「うりずん」に行かなければと栄町まで歩く。扉を開けると、今日の「うりずん」は大盛況だ。

3月15日

 6時過ぎに目を覚ます。よく晴れている。春雨ヌードルを買ってきて朝食をとり、『E』の原稿に取りかかる。11時に宿を出て、県庁前まで歩き、バスを待つ。砂辺のあたりに行き、「浜屋そば」か「ゴーディーズ」でお昼を食べてから、13時から海辺でカネコアヤノのライブ配信を観るつもりでいた。でも、そのあたりにはコンビニが少なく、ビールを飲みながら配信を観るのは難しそうだ。それならばと予定を変更し、バスを乗り継ぎ、新原ビーチに出る。

 13時ちょうどに「食堂かりか」に到着し、カレーと生ビールを注文していると、ライブ配信が始まる。向こうに海と砂浜を見やりながら、小さい画面を通じて、東京のどこかのライブハウスで演奏されている姿と音に触れる。「食堂かりか」は思っていたより賑わっていた。ビールを2杯、それに赤ワインを1杯飲んだ。本当は赤ワインをお代わりしたいところだけど、今日はまだ書かねばならない原稿がある。

 バスを乗り継ぎ、ひめゆり平和祈念資料館に行く。バスの中でも原稿を書く。ちょくちょく観にきているけれど、今日は日付のことをじっくり見る。

1942年3月6日、女師・一高女、心身鍛錬のため十七里行軍を実施。午前2時に学校を出発し、勝連城趾まで往復約68キロを歩く。

1944年3月22日、第32軍(沖縄守備軍)が創設され、女師・一高女の校舎の一部が兵舎となる。

1944年6月、小禄飛行場建設工事に動員される。

1944年9月、女師・一高女は隔日もしくは週2日、陣地構築に駆り出されるようになり、授業は週3日になる。

1944年10月10日、十十空襲。

1945年2月15日、女師・一高女生徒が沖縄陸軍病院で看護訓練を始める。

1945年2月22日、校舎が空襲に遭う。

1945年3月23日、米軍による艦砲射撃が始まる。米軍が沖縄上陸作戦に向けて動き出したこの日の深夜、222名の生徒と18名の引率教師は学校の敷地内にあった校長住宅前に集まり、訓示を受け、南東に向かって5キロ歩き、南風原の沖縄陸軍病院に動員される。いつも夜の道だったのだなと、展示を見ながら思った。

 バスがくるまで時間があるので、隣の土産物館に入り、ホットコーヒーを飲んだ。お茶請けにサーターアンダギーがついてきた。土産物の売店のかたが、これ、よかったらと佃煮かなにかを置いて行ってくれる。資料館にはそれなりに人がいたけれど、やはり観光客は激減しているのだろう。バス停にはバスを待っている若者が何人かいた。みんなひとりでやってきた観光客のようだ。17時半に那覇バスターミナルまで引き返し、せっかくだからとバスターミナル上の県立図書館に行ってみると、コロナの影響で17日まで閉館しているらしかった。

 オリオンビールのロング缶を3本買って宿に帰る。冷蔵庫を開けると、「はしもと」と書かれた焼きそばパンがある。昨日、「明日の晩ご飯に」と買っておいたのを忘れていた。レンジでチンして、それにかぶりつきながらビールを飲んで、原稿を書く。20時過ぎになってようやく完成する。坪内さんの追悼文はきっとこれが最後だろう。今回の追悼文を書くために、あらためて『ストリートワイズ』を読み返して、最初に収録されている「一九七九年の福田恆存」は福田恆存の追悼文として書かれたものだったことを思い出す。「あとがき」にこうある。

 

 さらに同じ年一九九四年十一月二十日、私が最も尊敬していた思想家福田恆存が亡くなった。一週間後の土曜の夜、『文學界』編集長寺田英視さんから電話があった。福田さんの追悼文を書かないかというのである。私は驚いた。なぜなら私はそれまで寺田さんに一面識もなかったのだから。どうやら細井さんが私と福田さんの関係を寺田さんに話してくれたらしい。

 この突然の原稿依頼は、私をひどく緊張させた。しかし私は、この原稿、「一九七九年の福田恆存」を書くことで、文筆家としての自分に対して自覚的になっていった。つまり自分の頭で物を考え、それを筆に移し変えて行くこと、移し変えて行くうちにまた新たな発見があること、文字通り文章が一つの行動であることを。(…)

 

 「QJ Web」、『群像』、『本の雑誌』、それに今日書き上げた『E』と、追悼文を4本書いた。坪内さんの追悼文を書くのは、とても緊張することだ。同じような追悼文を、いろんなところに書くわけにはいかない。それぞれ違ったアプローチで、その時期に応じて、原稿を書かなければ許されないだろう(なにより坪内さんに)。「追悼文を」とだけ原稿依頼を受けたところから、何をどう書こうかと考えて、それを言葉にしていく時間は、僕にとってかけがえのない時間だったような気がする。坪内さんがいなくなってしまった今、これから何を書いていこう。教え子のなかでも僕より優秀な人はたくさんいるし、衣鉢を継げるほどの器ではないと自分がいちばんわかっているけれど、言葉を書いて生きていこうと強く思ったのがこの2ヶ月だ。

3月14日

 6時に目を覚ます。ずいぶん肌寒く感じる。雨が降っている。セブンイレブンに出かけ、なんだったかチーズがトッピングされて焦がしてあるパンと、R-1と、ホットコーヒーを買ってくる。宿でメールを返し、テープ起こしを進める。今日のどこかの時間帯にと取材をお願いしていたOさんに電話をかけると、13時半に、という話にまとまる。昼、赤いきつねの特盛とじゅーしーおにぎり。テレビでは「Aランチ」という番組が放送されている。100回目の放送を記念して、ズバリAランチ特集を組んでおり、『月刊ドライブイン』で取材させてもらった「ドライブインレストランハワイ」も映る。

 13時15分に宿を出て、開南からバスに乗り、13時31分にOさんの自宅兼仕事場にたどり着く。少し離れたところからも、軒先にOさんが立っておられるのが見えたので、久しぶりに全力で走る。ちょっと私が内装をやっている現場を使わせてもらえることになったから、そこに行こうね。そう言ってOさんの運転する軽自動車に乗せてもらって、たどり着いたのは僕の宿から歩いて10数秒の場所だった。何か飲み物をご馳走しますよとOさんが言うので、いやいやいやいや、僕が払いますと自動販売機の前で言い合う。取材させてもらうのに、僕がご馳走になるわけにはと伝えると、そうかね、じゃあ、私はこれと、一番安いミネラルウォーターをOさんは選んだ。

 1時間近く、話を聞かせてもらう。Oさんに最初に取材を依頼したのは11月のことだ。だが、わたしはそんなに歴史のことはわからないからと断られてしまっていた。でも、その後であらためて手紙を書き、那覇の歴史に語って欲しいのではなく、あくまでこの界隈に携わってこられたOさんご自身のことをお聞きしたいのだと伝えた。Oさんはアーケードのメンテナンスをずっと引き受けてこられた方で、今年1月に始まったアーケードの撤去にも携わっていた。朝早くに、アーケードの撤去の仕事を終えられたOさんにご挨拶して、今は撤去でお忙しいと思うので、それがひと段落された時期にでも聞かせてもらえませんかとお願いしたところ、そうね、これがひと段落したらね、とOさんが言ってくれて、ようやく話を聞かせてもらえたのだった。

 お礼を言って、そのまま界隈をぶらつく。取材させてもらった市場中央通りのお店の前を通りかかると、あるお店の方がゴーグルをつけている。花粉症ですかと尋ねてみると、いやいや、向かいから粉塵が飛んでくるから、と教えてくれた。真向かいで公設市場の解体工事をやっているから、風が吹くと防塵壁を越えて粉塵が飛んできて、家に帰ってみると目やににセメントが混じっているのだという。こっちだとね、意外なところにコロナの影響が出ているんですよ。お店の方はそう前置きして、こんな話を聞かせてくれた。泉崎にあるいくつかのホテルは、ランチビュッフェを行っている。そこを普段利用するのはお年寄りで、模合の場として賑わっているのだという。でも、この騒動で学校が休みになり、お年寄りは孫の世話をしなければならなくなって、家から出られなくなり、ランチビュッフェが閑散としているのだ、と。

 界隈をぐるりと歩いたのち、宿に引き返す。午前中からやっていたテープ起こしを勧めて、18時になってようやく完成する。これで追悼文を考える準備は整った。コンビニで紙に出力して、「足立屋」でせんべろセットを注文し、ビールを飲みながら原稿を練る。せんべろセットの3杯のうち、最初の2杯はビール、最後の1杯はホッピーセットにして、あとで中を追加する。19時に「信」に移動して、信さんにご挨拶。お通しに佐賀のようかんを出してくれた。きっと温泉旅行で佐賀に行かれていたのだろう。無観客配信が始まる時間が近づいていたので、今日はビール1杯だけで店をあとにする。帰り際、「新報、読んでますよ」と信さんが言ってくれた。

 コンビニで残波の2合瓶とさきいかを買ってきて、宿のリビングで酒を飲みながら無観客配信を見ながら、原稿のことを考える。いつもだったらリビングには誰かしらいて、あまり「同じ宿に泊まっているのも何かの縁だ!」ということで誰かと言葉を交わすつもりがない僕は、そこで過ごすことは滅多にないのだが、貸し切りなのでゆったり過ごす。配信が始まって1時間29分くらい経ったところで、「友達」問題がたちのぼる。

「君たちも、いつメンっていうなら責任をとってもらわな。こんな時代じゃなければ、指切って、押してるで、自分」。僕も、いつだってそれぐらいの気持ちでいる。だから世間で言う「友達」という言葉にびっくりしてしまうときがある。ただ、そういう気持ちを、自分は口に出して語ることがないので、画面越しに耳にするその言葉の強さに驚く。だが、その言葉が真正面から受け止められることなく、話が流れてゆく。話が再び友達問題に向かい、友達になれるかな、と声がする。「なれますよ」と返事がある。しかし、それに続けて語られた、せっかくだから、もしそれでいいならという返事に、強く反応してしまう。「こんな時代じゃなかったら、抱きしめてんで」という言葉も、「そうっすね、なにもかもコロナのせいですよ」と、やはり流れてゆく。僕だったらここで席を立って帰っただろう。

 最後まで配信を見届けたのち、コンビニで缶ビールを買って「桜坂セントラル」に行ってみる。当然あかりは灯っていなかった。今日はここでライブを観るはずだった。そのためにこのタイミングで航空券を手配していたのだが、ライブは延期になってしまった。変わり続ける那覇の街並みを眺めながら、何度となく「とがる」という曲を聴いてきたけれど、それをここで、ライブで観るはずだったのだ。いつかきっとここで聴けますようにと祈りを込めながら、ビールを飲み干す。今日はもう栄町市場まで歩く元気はないので、どこかで1杯だけと歩いているうちに、「末廣ブルース」のネオンに吸い寄せられる。もう閉店作業が始まっていたけれど、どうぞどうぞという言葉に甘えて、1杯だけみかんサワーをいただく。おでんを片づける様子を眺めていると、よかったら大根とこんにゃくだけでも食べます?と、器に盛ってくださる。何気なくこんにゃくを食べて、ぎょっとする。こんなこんにゃく、食べたことないと思わず顔をあげると、ヒデキさんがにやりと笑い、「美味しいでしょ。八王子から取り寄せたんです」と教えてくれる。

3月13日

 5時過ぎに起きる。ケータイを眺めていると、法務大臣の答弁の動画が流れてくる。他の日なら許されるわけではないけれど、よりによって3月11日にこんな答弁をする人が政治家だということに動揺する。プロフィールを調べて、いわき出身だと知り、さらに驚く。政治家の言葉には常にある種の嘘くささが漂うものだと思うけれど、そういうレベルではなく、言葉が言葉として成立していない。言葉で有権者に語りかける仕事であるはずなのに、言葉がこんなに空疎なのはどういうことだろう。空疎という次元を通り抜けて、言葉が崩壊している。

 コーヒーを淹れて、冷えた茹で玉子を平らげ、テープ起こしを進める。10時半、スーツケースを転がしてアパートを出る。荷物を抱えているせいかGoogleマップが表示した時間では乗り換えられず、5分ほど遅れてしまう。スーツケースを担いで階段を駆け上がり、1a出口に出てみると、きらきら光るニットを身に纏った友人のA.Iさんが立っている。そこにいるのはAさんだけで、F.Yさんの姿は見えなかった。間違えて飯田橋駅のa1出口で待っていたらしく、急いでこちらに向かっているようだった。今日は江戸川公園でAさんとYさんの対談を収録する。せっかくだからコーヒーでも買って待ちましょうかという話になる。Yさんってコーヒー飲むっけ、とAさんに尋ねられ、いや、飲まないと思うから紅茶にしておきましょうと答える。

 僕がYさんと話すようになったのは、去年の1月下旬、Aさんの写真撮影に同行したことがきっかけだった。Aさんが共著を出すにあたり、沖縄で写真を撮ることになって、その現場にスタイリングでかかわっていたのがYさんだった。撮影の翌日、3人で沖縄をあちこち車で巡っているうちにぽつぽつ言葉を交わし、それがきっかけとなり、昨年6月から月に1回のペースでYさんのお仕事に関する取材を続けてきた。そうして時間を重ねているうちに、いつのまにかコーヒーよりも紅茶派だなんてことまで知っていたのだなと思う。年をまたいで続けてきた取材も、今日が最終回だ。江戸川公園のベンチに座り、お茶を飲みながらふたりに話を伺う。最後に撮影をとなったとき、Yさんはベンチに座ったままなので、AさんとYさん、ふたりのカットじゃなくていいんですかと確認すると、Yさんはきっぱりと「はい」と言う。

 取材を終えて、電車を待つあいだ、江戸川橋駅のホームでYさんと少し話す。Yさんが僕のことを認識するより少し前から、僕はYさんのことを認識していた。Yさんが衣装として携わる作品の現場を取材していて、ひっそりとその場に居合わせながら、Yさんが衣装のプランを修していく様を見ていた。Yさんも、自分が関わる作品のドキュメントを書いてくれている人がいるとは知っていたけれど、はじめて「この人が橋本さんか」と認識したのは、去年の沖縄での撮影のときだという。こんなふうに長い時間をかけて沖縄で取材したり、撮影があるとなれば運転手役を買って出てくれたり、一体どういう人なんだろう――そう思っていたところに、車の運転を終えた瞬間に一瞬姿がなくなったと思っていたら、すぐに缶ビールを手に戻ってきて、「あ、変な人だ」と思ったとYさんは笑っていた。

 京成上野駅からスカイライナーに乗り、成田空港を目指す。僕が乗っていた車両には、他に3人しか乗客がいなかった。でも、いざジェットスターの便に乗り込んでみると、ほとんど満席に近い状態である。子供連れの外国人観光客も、僕の隣に乗ったガタイのいい外国人の男性も、消毒用のジェルを取り出して手を拭いている。飛行機が飛び立ってしばらくして、ポーンと音が鳴りベルト着用サインが消えたところでテーブルを出し、コンビニで買っておいたかしわにぎり2個と唐揚げとウィンナーのセットを箸でもそもそ食べる。食べ終えて、レジ袋にまとめていると、誰かが飲み終えたコーヒーの紙カップを手にしたキャビンアテンダントが歩いてくる。僕のゴミも処分してもらおうと差し出すと、キャビンアテンダントは立ち止まり、青い手袋をはめて僕が差し出した袋を受け取った。