来週の月曜から、東京芸術劇場プレイハウスで『小指の思い出』が上演される。その公演のことをとても楽しみにしている。

 僕はまだ演劇を観るようになって日が浅いので、『小指の思い出』がどういった作品であるのか、詳しく知っているわけではない。それで少しでも知ろうとして、戯曲や記事などをチェックしているのだけれども、その中に野田秀樹さんと藤田貴大さんによる記者会見の記事があった。

 その中で野田さんは、「僕の若いころの作品のセリフって、身体性とくっついているところがあるんだけど、そのあたりはどう考えているの?」と訊ねていた。実際の現場ではもっとたくさん発言があったのかもしれないけれど、記事になっている範囲では、野田秀樹が自作について触れているのはこの箇所だけだ。つまり、唯一残っている発言は「身体性」に関する話だ。

 『小指の思い出』の原作は、野田秀樹による小説『当り屋ケンちゃん』だ(それが原作だと知っていたわけではなく、たまたま古本屋で見つけて、原作が存在するのだということを知った)。さっそく手にして読み始めると、おや、と思う箇所といくつか出くわした。それはたとえば、こんな言葉である。

  車と出会う前に、あまたの人々と出会っておかなければならない。
  ホンモノとニセモノを見極める嗅覚を持たなくてはならないのだ。


 こうした言葉に触れていると、そうだ、この小説あるいは『小指の思い出』が書かれたのは一九八三年という時代なのだということを強く感じさせられた。

 強く感じさせられたなんて書くと、まるで自分がその時代のことを覚えているかのようになってしまうけれど、一九八二年生まれの僕は、当然その時代の記憶を持ち合わせていない。ただ、持ち合わせていないからこそ、何か手がかりが欲しくて、本を読んだりもする。

 七〇年代後半から八十年代半ばにかけて、その時代感覚を記した書き手の一人に川本三郎がいる。川本三郎の著作の一つに、『同時代を生きる「気分」』(冬樹社)がある。一九七七年に刊行されているから、当時川本三郎は三十三歳になる年だ。表題にもなった「同時代を生きる『気分』」 という論考には、「『しらける』ことと『いらだつ』ことを超えて』という副題がつけられている。その書き出しはこうだ。

 「私たち」は今、よほどひどい時代に生きているのだろうか。それとも、今から見ればひどくのどかに幸せに見える時代もまた、その当時“同時代”に生きていた者にとっては、前方の見えにくいつらい時代であったと同様に、現代もまたとりたてていうほど珍しくもない程度にひどい時代でしかなかったのだろうか。


 それに続けて、川本三郎は三人の文学者の言葉を紹介する。その一つは、黒井千次による座談会での発言だ。黒井千次は、自分たちの世代は第一次戦後派のように世界がよく見えず、その点で自分たちはふしあわせであると口ごもりながら話したあと、現代の日常というものは「いろんなものが非常に明確な輪郭だとか、陰影だとかを刻み込んだ形で見えてこない。そのくせ、さし当っては少しもこまらないというふうな……」と。

 この「……」で発言を終えざるをえないもどかしさに対して、川本三郎は、具体的には何に対するもどかしさなのかはわからないとしながらも、「『気分』としては理解できる」と記す。

 紹介されている文学者のもう一人は、谷川俊太郎だ。

  きいた風なこと言うのには飽きちゃったよ
  印刷機相手のおしゃべりも御免さ
  幽霊でもいいから前に座っててほしいよ
  いちいち返事されるのもうるさいけど


 これは一九七五年の秋に刊行された詩集『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』の中に登場する一節だ。この詩に登場する「当世若者風の甘えた饒舌は気に障る」としながらも、「その『気分』は私にもよくわかる」と川本三郎は書いている。

 ここで谷川俊太郎の近刊の二つの詩集にかこつけて私がひっぱり出してきたい言葉は(略)「白けている」である。

 あるいは「しらける」である。

 「しらける」という言葉、ないしは態度が頻繁に登場するようになったのは、ここ四、五年のことだろうか。私の記憶では六〇年代には「挫折」はあったものの「しらける」はなかったように思う。たぶん七〇年前後からであろう、時に「シラケル」とカタカナ化されることによって、この言葉は実にさまざまな場面に出入りするようになった。まったく「シラケル」は実に貪欲で頑丈で、なんでも呑み込んでしまう。「平和と民主主義」「統一と団結」など、おちゃのこサイサイ、「革命」も「社会主義」も「我らの内なる体制」も、あげくの果てには「絶望」も「挫折」もいっきょに色褪せさせ、しまいには「シラケル」自らも、その拒絶の対象にしてしまう。「シラケル」とひとたび呟いたからには、いずれ「シラケルことにもシラケル」という復讐を受けてしまう。「シラケル」という、頑丈でどこにでも忍び込んでくる不逞の輩の前では、たいていの言葉は正気を失い、しぼんで見えてしまう。「絶望」も「孤独」も「沈黙」 も、「シラケル」にあってはひとたまりもない。

 ここで文学者たちは、あるいはその語り口にケチをつけながらも引用している川本三郎もまた、それまで確固たる意味を持っていたはずの言葉たちが、「シラケル」という言葉によって相対化(あるいは無効化)されることに敏感に反応している(ただ、川本三郎はそうして相対化されてしまうことに単に苛立っているわけではなく、「いらだってシラケているのである」と記している)。ところで、一九五〇年代後半から一九六〇年代前半に生まれた世代は「シラケ世代」と呼ばれた。学生運動が下火になったあとに成人を迎えた、政治的に無関心であるとされた世代である。野田秀樹は一九五五年生まれだから、ギリギリこの世代に含まれるのかもしれない。

 『小指の思い出』が書かれた一九八三年、「軽薄短小」という言葉が流行語となった。

 この年、日本経済新聞社が『時代は「軽・薄・短・小」』というタイトルの本を出している。これは、当時のヒット商品の特徴が「軽・薄・短・小」であることを指摘する内容だが、中でも象徴的なヒット商品が一九七九年に発売されたウォークマンだ。それまでは部屋の中でしか聴けなかった音楽が、手軽に持ち運べるようになったわけだ。このように、最初は商品の特質を表す言葉であった「軽薄短小」は、次第に文化や性質を表す言葉としても使われるようになっていく。ニュー・ジャーナリズムの旗手と呼ばれたトム・ウルフは『そしてみんな軽くなった――トム・ウルフの一九七〇年代革命講座』という本を刊行しているし、日本でも嵐山光三郎椎名誠が七〇年代末頃から「昭和軽薄体」と呼ばれる文体を使い始めた。

 昭和軽薄体の特徴の一つに、カタカナ表記を多用したことが挙げられる。

 さきほど引用した川本三郎の著作でも、「白ける」ではなく「シラケル」とカタカナ表記が用いられていた(だからといって川本三郎が昭和軽薄体の作家だったわけではないけれど)。「革命」という言葉も「社会主義」という言葉も、かつて持っていたはずの意味が「シラケル」という言葉によって相対化されてしまい、「カクメイ」になり「シャカイシュギ」になってしまった。言葉が、存在がリアリティを持っていた時代であれば「革命」と書くことができたのに、そのもっともらしさを失ってしまうと、それは「カクメイ」に成り下がってしまう(そういえば、さきほど引用した『当り屋ケンちゃん』の中でも、「本物と偽物」ではなく「ホンモノとニセモノ」と書かれていた。

 ただ、これは昭和軽薄体に限らず、川本三郎の著書の中でも「白ける」ではなく「シラケル」と書かれているし、あるいは先ほど引用した『当り屋ケンちゃん』の一節でも、「本物と偽物」ではなく「ホンモノとニセモノ」とカタカナ表記が採用されている。

「本物」が「ホンモノ」に変質してしまう――そうした感受性について、川本三郎は『都市のキーワード』の中で触れている。その年を象徴するキーワードをいくつか提示し、論考が加えられているのだが、一九八三年のキーワードとして取り上げられているのは「アジア」「温泉」「ロマンチック」「シミュラークル」「自己演技」「ふつうの人」「ビンボー」「少女」「インテリア」「宗教」だ。こうして並べただけでも、何か時代の空気が伝わってくる。

 少し内容に立ち入ってみる。まずは「宗教」。

 川本三郎は、集英社から『仏教を読む』という全集が刊行され、学研からは『恒河』という宗教をテーマとした雑誌が創刊され、大丸デパートで開催されたチベット密教展に大勢の人が詰めかけ、『ユリイカ』でもオカルト特集号が出たことなどを取り上げて、宗教が流行しつつあると指摘する。

 精神的なもの、スピリチュアルなものを求めようとする気持が若い世代に静かに浸透してきているのは、おそらくこの急激に変化しつつある正体不明の新しい時代の始まりと関係がある。それは単に物質的な豊かさが満たされたときにおきる精神的な飢餓感というものではない。文明に対する神秘、物質に対する精神、表層に対する深層という図式的な二元論の上に立った精神世界ブームではない。


 ここで川本三郎は「単に物質的な豊かさが満たされたときにおきる精神的な飢餓感というものではない」と但し書きを加えているが、八〇年代は物質的な豊かさが過剰になり始めた時代でもある。一九八二年に「おいしい生活」というキャッチコピーを掲げたセゾングループは、八〇年代に日本全国に消費社会を浸透させて行った。消費社会の浸透と平行するようにして、宗教あるいはスピリチュアルなものが求められるようになっていく(それがオウムへと繋がりもする)。ニューアカの一翼を担った中沢新一のデビュー作『チベットモーツァルト』は、まさにチベット密教がテーマになっている(しかし、「ニューアカ」というくくりで思想書がブームになる、つまり消費されるというのもまた、八〇年代の軽さと無縁ではない気がする)。

 他の「キーワード」も見てみよう。たとえば「ビンボー」――これも「貧乏」ではなく「ビンボー」だ。「ビンボー」がキーワードとして取り上げられたのは、この年、一九八三年に放送され驚異的な視聴率を記録したNHK朝の連続テレビ小説おしん』が放送されていたからだ。

 内容的にいえば『おしん』は徹底的に“ビンボー・イズ・ビューティフル”の貧乏物語である。山形県の貧農の娘おしんは戦前日本の大衆の多くが苦しんだ貧乏の象徴である。それが高度成長以後一躍“豊かな社会”を実現してしまった現代日本にとっては失われた希少価値になる。ひとは自分が貧乏のただなかにいるときはむしろ夢物語を見たい。成功し豊かになってはじめて貧乏を振り返る余裕が出てくる。だから“豊かな社会”ほど貧乏や不幸の商品価値が出てくる。


 つまり、『おしん』はかつてあった貧乏を記号的に消費する視聴者たちによって支えられていたということになる。八〇年代、時代がバブルに向かいつつある中にあって、「貧乏」は「ビンボー」になり形骸化していく。たとえば翌年の一九八四年、この年から始まった流行語大賞において、新語部門で金賞を受賞したのが「オシンドローム」(『おしん』のヒットに伴う社会現象を指す)、流行語部門で金賞を受賞したのが「マル金マルビ」だ。これは一九八四年にベストセラーになった渡辺和博による『金魂巻』に登場するフレーズだ。同じ職業をしていても、持ち物、服装、生活スタイル、人間関係などで金持ちと貧乏に分かれてくる――それを「マル金」と「マルビ」とに分けて軽妙に分析したわけだが、ベストセラーとなると言葉は一人歩きしていく。

 「貧乏」は「ビンボー」になり「マルビ」になる――「マルビ」になると、そこには『おしん』のような悲惨さはない。

『当り屋ケンちゃん』の中では、こんな記述がある。

 曲り角に身を潜めて、向うからやってくる車に自らを当てる。
 ブルーバードであるとか、サニーとか、シビックとかいった、年収一千万以下、底知れぬ小市民の乗る車などに当っても仕様がない。
 ふんだくれる金は知れている。
 外車は理想だが、それが見当らぬ時は、せめてプレジデントとかセンチュリーとか、とても小さな路地に入って行くとは思えない車に当る。
 このぐらいのことは、素人でもわかる。
 難しいのは、その先だ。
 近頃は、ハンバーガー屋でバイトをしながら、生活費をきりつめて外車を買うような類いの人間が増えてきている。
 だから当り屋も難しくなった。
 外車だ! と思って安心して、ぶつかって行くと、なんのことはない、フダンは新聞配達だったりして、当り損になることがある。


「生活費をきりつめて外車を買うような類いの人間」は、おそらく新聞配達員の「マル金」と言えるだろう。戦前くらいまでの時代であれば、あるいはもっとさかのぼって貴族がいたような時代であれば、身なりと社会的地位が一体化していた。しかし、現代という時代はそう単純には行かないのだ。
 
 『同時代を生きる「気分」』を引用したとき、その冒頭で「川本三郎は三人の文学者の言葉を紹介する」と僕は書いた。その一人は黒井千次、もう一人は谷川俊太郎だった。残る一人は江藤淳だ。江藤淳は、川端康成が一九七二年に自殺したあと、こんなことを書いている。

 お通夜に出るため、旅程を変更して飛行機を乗り継ぎながら、私は心のなかで「なんとひどい、まずしい時代だろう」というようなことを、つぶやきつづけていた。(略)われわれは、現在でもやはり当時とあまりちがわない“現実喪失”のなかに生きており、われわれの文化はあらゆる虚飾にもかかわらずかつてないほど貧しく、地方的なものに低下し、国民の虚栄心となれあいの帰結が近づいているように思われる。私には、三島事件以上に川端氏のガス自殺が、日本の将来に対する悪い予兆であるように感じられてならない。


 「現実喪失」や「虚飾」、「虚栄心」といった言葉は、江藤淳がある論争を引き起こした言葉に置き換えると、「フォニー」だ。

「フォニー」という言葉は、サリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公・ホールデン少年の口癖でもある。たとえば、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』にはこんな一節が登場する。
 

 最低の映画だった、とホールデンは言う。しかし彼が本当にイヤだったのは、隣りに座っている女が、映画の間じゅうずっと泣き続けていたことだ。(略)映画が嘘っぽくなればなるほど、この女はさらに激しくおいおい泣くんだ。

 きっとすごく心が温かいからだろうとか君は考えたりするかもしれない。でも違うんだよ。僕はこの女のすぐとなりに座っていたからそれがわかる。彼女は小さな子どもを連れていたんだけど、その子はすごい退屈しまくっていて、便所に行きたいってずっと言ってるんだ。でも連れて行ってやらないんだよ。そこに座ってじっとおとなしくしていなさい、と繰り返すだけだ。なにしろ漬け物石なみに心が温かいやつなんだよ。インチキくさい映画を見ておいおい泣いているやつなんてさ、十中八、九まで実は根性曲がりのカスなんだ。嘘じゃないぜ。


 ここに登場する「嘘っぽく」と、終盤に登場する「インチキ」は、原文では同じ言葉――「phony」だ(これは僕が原文を当たって確認したわけではなく、坪内祐三アメリカ 村上春樹江藤淳の帰還』を読んだに過ぎないし、この引用も孫引きだ)。

 ここで「フォニー」として批判されている感覚は、川本三郎『時代のキーワード』に登場する「自己演技」の項目とリンクしている。川本はこう書く。

 ぶりっ子、ひょうきん族、目立ちたがり屋。最近の子供たちに共通していることは“演技力”が増し、なかなかホンネを見せないことだ。何か意見をいうときにはいつもおどけたり、茶化したり、とぼけたり、演技で表現する。
 自分の感情をストレートにぶつけていればすんだ『あしたのジョー』や『若者たち』の時代に比べるとその自己表現方法ははるかに屈折してきている。
 「私ってぶりっ子なの」と自分から批判用語を先取りして居直ってしまうこともできるし「今日はツッパリ、明日はぶりっ子」と簡単に“衣装”を変えて不良から優等生へと一人二役を楽しむこともできる。

 江藤淳であれば、そうした若者を「フォニーだ」と厳しく批判したかもしれない。川本三郎もまた、そうしてフォニーになりつつある若者の感覚を察知しながらも、江藤淳に同調することはなかった。『同時代を生きる「気分」』の中で、川本三郎はこう書く。

 なにをやってもダメだ、なにをいっても空しい……。政治も非政治ももはや空しい……。そうした断念があり、諦念があり、にもかかわらずやはりもう一度やってみようという祈念がある。誰に対する祈りなのかは知らない、しかし、シラケルことにも倦み、いらだつことにもいらだち、なおかつ、自分の中心に向ってまっすぐに言葉をぶつけようとする時、もはやそこには祈念しかない。政治にうんざりする気分はもうわかった、政治的用語にシラケる気分ももういい、だが同時に、私は、非政治ももうどうでもいい。沈黙があり、断念があり、自嘲があり、“それがどうした!”なのだ。いま言葉をもう一度、見つけ直さなければならない。


 一九八〇年前後は、言葉が、社会が、どんどんフォニーになってしまう時代だったのかもしれない。その中にあっても、フォニーではない言葉を模索する人たちは当然いたはずで、野田秀樹もその一人だったのではあないか――。
 そう考えてみたときに、稽古場で繰り返し観ていた『小指の思い出』の世界が、すとんと腑に落ちたような気がした。理解できたわけではないけれど、そこにある感覚に触れられたような気がした。もちろん、その戯曲に書かれていることは八〇年代という時代の感覚だけではないけれど、そうした時代感覚と対峙する中で書かれた戯曲ではあるのだから。

『当り屋ケンちゃん』の冒頭には、「不鑑賞の手引き――作家自作を語る」と題した前書きが載っている。

 横断歩道には、青にならないうちから渡る人がいる。
 私は、こういう人を横断歩道のツウと呼んでいる。
 「俺は、この信号のことは、よく知っている。この信号なら任せておけ。この信号とは昔なじみの深い仲なのよ」と、粋な感じで、真っ先に渡る。
 (略)
 昔は、横断歩道のツウになるのは、そう難しいことではなかった。誰もが評論家になれるようなものであった。
 横の信号を見て、赤になったら渡る。
 技術はそれだけであった。
 まあ、バカでも横断歩道のツウと評論家ぐらいにはなれたものである。
 しかし、そう手易く手の内を読まれたとあっちゃあ、横断歩道の方も面白くない、というので、七〇年代を境に、
 渋谷や新宿を中心とした田舎町で、スクランブル交差点という前衛的な横断歩道が現われた。
 スクランブル交差点にある信号は、野球のブロックサインのようなもので、どこを見てどうすればいいのかわからないような信号である。一番安全なのは、目をつぶることである。


 このまえがきがどこまで本気で書かれたものかはわからないけれど、そこは僕には探りようもないことなので、真に受けて考えることにするならば、やはりそこに時代感覚が影響していると思わざるを得ない。もちろん横断歩道とスクランブル交差点のことは単なる比喩であるにしても、人間関係も、言葉も、世の中も、昔は二つの道路の交差点でしかなかったものが、どんどん複雑怪奇になっていく。そしてかつてあったはずのリアリティは色褪せていく。

『小指の思い出』の戯曲を読んでみると、くるくるとシーンが入れ替わり、次々とイメージが浮かんでは消えてゆき、その全体像はとらえどころがない。あるいは、次々に言葉遊びが登場してもいる。そのとらえどころのなさの中で、いつもはっとするのは身体を描いた描写だ。「指紋がほどける」といった描写もそうだし、まず当り屋という職業(?)自体が、身をかけて金を稼ぐという仕事でもある。世の中が、言葉が、人間関係がどこまで複雑になろうとも、身体はここに存在している。その身体をかけて金を稼ぐというのは、バブルに向って不動産投資や株式の売買で巨額の金を稼ぐ人が増えていく中で、何よりリアリティのある仕事だったとも言えるかもしれない。

 ここまでは当然、一九八〇年代の話だ。最初にこの戯曲が書かれたときにはまだ生まれてもなかった藤田貴大という演劇作家には、まったく違う時代感覚があるはずだ。今やもうスクランブル交差点を見て「どこを見てどうすればいいのかわからない」なんて人はいないだろう。そうした時代感覚に対応するように――観客が見ていてかったるく感じない速度を提示するように、藤田作品ではしばしば配置がぐるりと回転させられていく。

 違っているのは時代感覚だけではなく、身体性に対する意識も違っているはずだ。 

 先ほども引用したように、谷川俊太郎は「きいた風なこと言うのには飽きちゃったよ」と詩に書いていたけれど、むしろ今は、きいた風なことを、いかに自分たちのリアリティとして取り戻せるかに重点があるようにも思える(マームとジプシーの海外公演はそういうものとしてあるように感じるし、台詞の中で「何を知ったような気になってんだよ」「身をもって知ってから言えと思うね」といった話も登場する)。

 マームとジプシーの舞台で、役者たちは身体を動かし、舞台上を駆け抜ける。それは、わからないことに手を伸ばそうとする姿勢にも見えるし、「きいた風なこと」を「きいた風に」言うのではなく、ある距離を走りきった先にようやくリアリティを持って何かを語ることができる――そうした考えが、役者を走らせているようにも思える。

 ただ、それは藤田貴大自らが戯曲を書いているときの話だ。今作は既に戯曲は存在しているのだ。

 今回の公演は、単に「これまで培った技術を総動員して、キャリアのある俳優とも仕事をして、マームとジプシーとしては最大規模の会場となるプレイハウスでの公演を行う」――といったことではないはずだし、視覚的に、あるいは音的に二〇一四年にふさわしいものを作り上げるということではないはずだとも思う。もちろん、その二つのことだって圧倒的に重要だけれども、それらが完成した先には、藤田貴大という演劇作家による二〇一四年という時代に対する回答があるはずだ。