昼過ぎ、新宿へ。2週間近く続いた新宿通いも今日でひと段落だ。14時、2016年としては最後となる『てんとてん』の公演が始まる。「今っていうのは、春で。そして、朝、なんだけど」。冒頭の台詞を、吉田聡子はとても語りづらそうに語り始める。初日に聴いた声とは違う声だ。それは冒頭のモノローグに限らず、他の役者の台詞にも共通することだ。

 『てんとてん』という作品は、マームとジプシー初となる海外公演に向けて制作された公演であり、2013年、2014年、2015年と海外で上演されてきた作品である。そのせいか、初日の公演はあまり「日本語で語られる公演を観た」という印象を持たなかった。僕がこの作品を観過ぎているせいで、そこで語られている言葉を「言語」として解釈する必要が(他の作品を観るときに比べると)少ないということもあるだろう。

 でも、それだけが理由ではないように思える。初日は「海外公演の延長線上にある」という印象があったけれど、今日ははっきりと、この場にいる日本人の観客に向けて語られているという印象を受けた。

 日本で上演するにあたり、また2016年という今に上演するにあたり、テキストに変更が加えられた箇所がある。その印象の違いはとても大きなものだ。去年までのバージョンでは、舞台の終盤、召田実子がこんな台詞を口にする。

「この町の、この土地の地面は、おおきく揺れて。おおきな波にも、のまれた。この町は、この土地は。その揺るぎない事実が、のしかかる。のしかかる。のしかかる。のしかかる」

 そこでは「2011年、春」という言葉も登場する。この台詞が放り出すように唐突に語られるのは、一つには出来事の突拍子のなさによるものだろう。揺れはいつだって突然やってくる。ただ、それよりも大きな要因としてあるのは、これが海外でいるということだ。イタリアの、チリの、ボスニアの、ドイツの観客は、2011年3月11日に起きた事を情報として知っている。しかし、そのあいだには途方もない距離がある。その距離が、放り出されるような語りに現れているように感じる。

 『てんとてん』では、世の中で起こった悲劇的な出来事が三つ取り上げられる。一つが3月11日の地震津波であり、一つがその10年前に起きたアメリ同時多発テロだ。

 「あの日はたしか、日本の時間でいうと、けっこう夜で。ぼくはたしか風呂あがりで、アイスとか食べながら、ソファでくつろいでいて。それで、テレビつけて、つけたとこが、ちょうどニュース番組で。それを見ていたら、突然なにかの中継の映像に切り替わって。その映像には、日本じゃないどこかの国のビルが映っていて。そのビルにはさっき、飛行機が一機、突っ込んだらしい。との報道がされていて。で、ぼくが、なにこれってことで見ていたら、さらに二機目が、そのビルに突っ込んで。それがこの」

 3月11日の出来事と9月11日の出来事の扱われ方には共通するものがある。起こってしまった悲劇的な出来事と、それを知らされた「私」――つまり無傷で安全な場所にいる「私」――との距離が、そこに込められている。

 『てんとてん』という作品は、単に同時多発テロ東日本大震災が扱っているというだけでなく、劇中に登場する3つの時制のうち、一つが2001年であり、一つがその10年後の2011年だ。2001年、劇に登場する6人は中学生だ。学校で彼(女)らは「ねえねえ、きのうの夜の、見た?」「ビルに、飛行機が突っ込んだやつなんだけど」なんて言葉を交わしている。

 ここで同時多発テロは、どこか遠い世界のお話として語られている。中学生の子どもにとって、それはリアリティのない話だったのだろう。では、リアリティとは一体何だろう?

 「『てんとてん』では、世の中で起こった悲劇的な出来事が三つ取り上げられる」と書いた。一つが東日本大震災であり、一つがアメリ同時多発テロである。最後の一つは、劇中の彼(女)らが暮らす小さな町で起きた殺人事件だ。同じ町に住む20代の男が3歳の女の子を殺し、その遺体を裸のまま森の中にある用水路に捨てられていたのである。そんな出来事があっても彼らの日常生活は滞りなく続いていってしまうし、朝になれば学校に登校しなければならない。そのことに“あや”は思い悩んでいる。

「でも、なんでみんなそんなに器用に振る舞えるわけ?」
「は?」
「いや、あんなことがさあ、あったのに」
「え?」
「なんでそんなにみんな、普通に日常に戻れるわけ?」

 そう問われた同級生の“しんたろう”は答えることができず、言葉に詰まる。皆は普通に日常に戻っていく。その速度になじむことができずにいる“あや”は家出をし、森の中でひとりキャンプを始める。

 この“あや”というキャラクターが印象的であるのは去年と同じであるのだが、その印象の質は違っている。去年は、「世の中で起き続ける出来事のスピードについていけず、ちょっと立ち止まって考えようとする女の子」として僕の目には映っていた。でも今年は、彼女が“ひとりでいる”ということが際立って映る。

 “ひとりであること”というのは、今年の『てんとてん』で強調されたポイントの一つだ。

 先ほど引用した召田実子のモノローグは、今年は概ねこのような内容になる。

 「ひとりになりたかったのは、あやちゃんだけじゃない。私たち皆、一人になりたかった。夜は、森は、私たちを一人にしてくれる。朝は、やっぱりやってくる。夜も、やがて訪れる。その繰り返しをひとりぼっちで過ごす事ができたなら、どんなに幸せだろう。そう思っていたのは、あやちゃんだけじゃない。私たち皆、ひとりになりたかった」

 なぜ“ひとりであること”が強調されたのか――? この『てんとてん』という作品が、その土地に向けて、その会場に観にきた観客に向けて上演するのだということを重視してきたことを考えると、今、私たちがいる時代がどんな時代かを考えることが近道ではないかと思う。

 『てんとてん』のいうのは不思議な作品で、最初にその作品を観たときは熊本で3歳の女の子が殺された事件のことを思い浮かべたが、翌年観たときには佐世保の女子高校生が同級生に殺された事件を思い浮かべたし、去年であれば中学生の二人組が高槻で殺害された事件を思い出した。悲劇としか言いようのない事件が、次から次に起きていく。前の事件のことだって整理がついていないのに、新たな事件が起こり、前のことを少しずつ忘れてしまう。

 もう一つ、今年の上演では直接的に言及されなかった東日本大震災のこともある。震災のあと川上未映子さんは、マームとジプシーのために「まえのひ」という詩を書き下ろした。このテキストを含む数篇を一人芝居で上演するツアーが行われたのは2014年で、いわき、松本、京都、大阪、熊本、沖縄、東京を巡った。まさにその熊本で、この春大きな地震が起きた。あらためて、私たちは決定的な何かが起きてしまう「まえのひ」に立たされているということを痛感させられる。しかし、痛感すればするほど、世の中にある悲劇的な出来事と「私」との間の溝も際立ってくる。

 私たちは、会ったこともなければ名も知らない人の不幸をも悲しんでしまう。知っている人であればなおさらだ。家族や恋人が亡くなったときには、ショックのあまり呆然とする人だって少なくないだろう。しかし、悲しみにくれると同時に、その悲劇と「私」とが無縁であることもはっきりとわかってしまう。“あや”が友人にしたためた手紙にはこうある。

 「友人なんて、けっきょくのところ、他人でしかない。でも、わたしはこうもおもいます。家族だって、恋人だって(恋人なんてできるのかな?)。みんな、わたしの他人ではないか、と。わたしは家族も、恋人も(恋人なんてできるのかな?)。誰のことも信じることはできないとおもう」

 “ひとりでいること”と“誰かといること”。その関係については“あや”が家出をしたあとの学校でも触れられている。“あや”はニワトリの飼育係だったのか、彼女の家出によって餌を与える人が不在となり、代わりに“じつこ”が餌を与えている。その“じつこ”に“さとこ”が話しかける。

「じつこちゃんさあ、あやちゃんの替わりに、にわとりに餌をあげているんでしょ。だれかの替わりに、こういうこと押しつけられるのって、たまらなくない?」

 “じつこ”が「誰も餌をあげなくなったら、このにわとりたち、死ぬだけだよ」と反論すると、さらに“さとこ”はこう語る。

「それが運命なのかもしれないじゃん、このにわとりたちにとって。だって、与えられたものしか食べることができないこいつらにとってさあ、与えるひとがいなくなったらさあ、そりゃあ死ぬしかないじゃん。でもそれと同じでさあ、わたしたちコドモもさあ、与えられるしかないじゃん。オトナに与えられないと死ぬだけじゃん。まあ、そういうことになっているからね。だから、自分ってさあ、自分ひとりで自分ってわけじゃないんだよなあ」

 ところで、『てんとてん』という舞台には、いくつものテープが貼られている。舞台の端から端に、いくつもの線が平行し、交差し、並んでいる。あの舞台を思い出すとき、つい最近読んだ『「いき」の構造』のことを少し考える。

 自由芸術として第一に模様は「いき」の表現と重大な関係をもっている。しからば、模様としての「いき」の客観化はいかなる形を取っているか。まず何らか「媚態」の二元性が表わされていなければならぬ。またその二元性は「意気地」と「諦め」の客観化として一定の性格を備えて表現されていることを要する。さて、幾何学的図形としては、平行線ほど二元性を善く表わしているものはない。永遠に動きつつ永遠に交わらざる平行線は、二元性の最も純粋なる視覚的客観化である。模様として縞が「いき」と看做されるのは決して偶然ではない。

 舞台上に張り巡らされた模様が九鬼周造的に「いき」であるかどうかはともかく、ここで印象的なのは、「いき」というものが「永遠に動きつつ永遠に交わらざる」ものとされていることだ。

 別の箇所では、「『いき』の構造は『媚態』と『意気地』と『諦め』との三契機を示している」とも書かれている。僕なりに勝手に噛み砕けば、私ひとりの世界で完結している人間は「上品」であるが「媚態」に欠け、したがって「いき」ではないことになる。私が誰かと関わろうとする態度に「媚態」がある。しかし、「関わることができた」と思ったところで「媚態」は消えてしまって、ただ倦怠が残る。この「媚態」を一時的なものではなく、絶対的なものたらしめるのが「諦め」だ。「媚態」という形を取りつつも、運命を知り執着を脱した「諦め」をも同居させることで、「いき」たり得るということになる。

 『てんとてん』に話を戻す。

 今年加筆されたテキストで印象的な箇所がある。その加筆というのはごくささやかなものだが、とても大きな加筆だとも言える。

 “あや”が家出した翌日、学校は大騒ぎになる。誰もがいなくなった“あや”のことを噂し、心配している。“あゆみ”は学校一の荒くれ者である“はさたにくん”を呼び出し、捜索に協力してもらえるようにお願いをする。快く了承してくれた“はさたにくん”と“あゆみ”とが走っていると、いつのまにか“じつこ”が並走している。「どうしたの、実子ちゃん」と尋ねられた彼女は、唐突にこう切り出す。

 「それはそうと、ふたりって、友達っていますか? あの、私、ここ曲がるんですが、えっと私と、えっと私と、友達になってもらっていいですかー!」

 そう言い残して走り去る“じつこ”の後ろ姿に、“あゆみ”は「友達だよ、実子ちゃん!」と答える。が、「アイツ、何か隠してねえか」と“はさたにくん”が言い出すと、「あの子、影が薄いよね、たまに見えないくらいだもん」と“あゆみ”は言うのである。このやりとり、大枠は以前から存在していたのだが、「友達」のくだりは加筆されたものだ。

 この“あゆみ”というキャラクターをどう理解するか――それは今年の『てんとてん』を考える上でとても重要なことだ。友達だと言っていたのに、その直後には「影が薄いよね」なんて語る彼女を、性格が悪いだとか、二重人格だとか、そういった言葉で切り捨ててしまうのはたやすいことだ。だが、それでは何かを見落としてしまう気がする。

 たとえば、“はさたにくん”に“あやちゃん”の捜索をお願いしたあとのシーン。飼い犬3匹(に見立てたミニ四駆)を従えた“はさたにくん”が、「てめーらさあ、おれに、おれらに、そのこと、お願いするってどういうことか、わかってる?」「それ相応の、覚悟を持ってほしいとおもうよ」と語り出し、しばらく延々と語る場面がある。インチキラッパーのような語りでおかしみのあるシーンで、以前から好きなシーンだ。

 “はさたにくん”の長話に、男子である“しんたろうくん”はついツッコミを入れてしまう。“はさたにくん”にも、“しんたろうくん”にも、女子二人はどこか面倒くさそうな顔を浮かべている。ただ、今年はそれだけでなく、二人の女子の表情が少しずつ違っていることが印象的だ。

 “さとこ”にとっては、“はさたにくん”の話も“しんたろうくん”の話もどうだってよくて、一刻も早く“あやちゃん”の捜索を開始して見つけ出すことだけに関心がある。“あゆみ”もまた、男子の話になんてまったく関心を抱いていないのだけれども、では実際に“あやちゃん”を見つけることを第一に行動しているかというと少し違うように見える。いや、もちろん“あゆみ”だって“あや”が見つかってほしいと心から願っている。願っているのだが、彼女の行動原理はそこにはなく、自分が立てた計画――ここでは“はさたにくん”と飼い犬に依頼をし、捜索を初めてもらうこと――をつつがなく進行させることが何より重要であるように見える。つまり、この場にいる全員が「あやちゃんを探したい」という点で繋がっているけれど、誰もがわかりあえていないとも言える。こうしたグラデーションは昨年には感じられなかったものだし、『てんとてん』という作品を観るたび、「このキャラクターのことを僕は捉え損なっていたのかもしれない」という発見や変更がある。それは劇だけに起こることではなく、実際の生活にも起こることである。だからこそ「もっと知りたい」と思うのだし、それを重ねれば重ねるほど「誰かをわかるなんてことはありえないのではないか」という気持ちにもなり、私はひとりであるということにもいきあたる。

 『てんとてん』という作品は知人にも見てもらった。関西に出かける用事があって忙しそうだったが、「一緒に暮らしている人間がこれだけ追いかけてる作品が、これだけ近場で上演されるんだから観てよ」とお願いをして観てもらった。観劇後、僕がここに書いたような感想をつらつら語っていると、「でも、もふがそうやって観てることがいいことなのかどうか、わかんない」と知人は言った。「普通に初めて観る観客は、そんなことまで考えられないじゃん。そこでもふが、そういう感想を発表したとしても、それが読んだ人のためになるとも思えないし、マームのためになるとも思えないんだけど」と。

 知人と演劇の話や僕が書いている文字のことについて話すと、大抵は喧嘩になるのだが、この話に関しては喧嘩にもならなかったし、「それはそうだろうな」としか思わなかった。『てんとてん』という作品が初めて海外で上演されるとき、僕は皆に同行して、旅の過程を書き記しておこうと思い立った。そのときは、彼らの旅を日本の観客にも伝えようと思っていたし、それが彼らのためにもなるはずだと思っていた。そこからはずいぶん遠い場所にこの日記はきてしまっている気がするけれど、どういうわけかまだ書き続けている。

 『てんとてん』のラストでは、同じ場所で10日前に観た『カタチノチガウ』のことを思い出していた。「このコドモは、世界とつながることができる?」という台詞や、脚立から飛び降りる直前に長女役の青柳いづみが語っていた台詞のことも、徐々に暗転してゆく舞台の中に思い浮かべた。

 21時からは打ち上げが行われた。NEWoManからほど近い場所にある沖縄料理屋がその会場で、僕は久米仙と白百合をボトルで飲んだ。この10日間、僕は毎日記憶をなくすまで酒を飲んだ。今日になってようやくその理由がわかったような気がする。僕は皆と酒を飲むのが楽しみであるのだけれども、舞台の上に存在していた姿と、それを客席で観ていた時間がすべてで、酒の席で彼らに話せることはないという気持ちになってしまうのだ。この日の打ち上げでも、途中から席を離れて、荷物置き場のようにして使っているテーブルから皆の姿を、そしてこの打ち上げには来れなかった数人の姿を眺めてひたすら酒を飲んだ。そのせいか早々に酔っ払い、2次会には参加せずに帰った。