朝5時に目が覚めてしまう。もう一眠りしようかとも思ったけれど、明日は早起きしなければならないので、もう起きてしまうことにする。7時にはジョギングに出る。走り始めて4週間が経つ。これまでにも思いついたようにジョギングする生活を送ったことはあるけれど、あまり長続きしなかった。億劫にならないように、タイムも距離も気にせず、ただ走っていたのがよくなかったのだろう。習慣として継続するには目標が必要だ。早く走れるようになるにはどうすればよいのか調べて、今日はインターバル走。最初の一キロは流し、次の一キロはスピードを出し、次の一キロはまた流し、と繰り返す。書いていて「一体何を目指しているのか」という気にもなるけれど、取材するにも原稿を書くにも体力が必要なので、なんとか続けていきたいところ。

 6キロほど走り、湯につかる。1時間以上長風呂をしながら、『月刊ドライブイン』の原稿に赤入れ。風呂上がりに洗濯物を干して、赤をデータに反映する。岡山県から電話。取材に協力してもらった会社からで、「社長はもう読んどったみたいで、特に問題はないそうです」とのこと。ほどなくして同じ方からもう一度電話がかかってくる。電話をかけてきてくれた方にも話を聞き、記事に反映させていたのだが、「私は今になって読んだんですけど、フルネームが出るのはちょっと」とおっしゃる。では、「受付の女性」の発言として残すというのはどうですかと提案すると、名前が出なければ、内容は問題ないですと言ってくださったので、そのように修正することにする。

 昼、近くのお好み焼き屋さんへ。うどん入りを1枚、そば入りを1枚テイクアウト。僕はそば入り、両親はうどん入り。父は8分の1だけ食べて、残りを母が食べる。父は胃癌で胃の大部分を摘出したこともあり、食が細くなった。食事をしていけばちょっとずつ胃が大きくなっていくそうだが、手術を終えても秋頃までは治療が続くこともあり、どこか弱気に感じられる。食後、赤を反映させた原稿を出力して、推敲を重ねる。15時に脱稿し、散歩に出る。今日はもう夏みたいだ。缶ビールを買って駅まで歩き、明日の新幹線の切符を買っておく。駅前に新しい居酒屋がオープンしていたので、次に帰省するときには立ち寄りたいところだ。こんな小さな町で居酒屋を始めるなんて、珍しい人もいるものだ。散歩しながら、編集後記の内容を考えた。

 夜はすき焼きだった。母が三人で乾杯しようというので、両親にも少しずつビールを注ぐ。毎晩ビールを飲んでいた父だったが、しばらく飲んでおらず、ずいぶん久しぶりに飲むらしかった。どう、おいしい、と尋ねる母に、父は首を傾げる。居間でお酒を飲み続けていられるように、あれこれ父に話を聞く。昭和二十年生まれの父が小さい頃のお祭りにはどんなものが並んでいたのか。外食するとすればどんなものを食べていたのか。「チャーハン」ではなく「焼きめし」なのはなぜかという僕の疑問から、戦後まもない頃のお好み焼き屋の話になる。今でこそ「これぞ広島風お好み焼き」みたいに整えられているけれど、戦後の物資がない時代に腹を満たそうと編み出されたのがお好み焼きだったはずだ。それをB 級グルメ的に語るのでも、正統なルーツを探るのでもなく、ただ戦後のある時期までのお好み焼きにまつわる風景を書き記すのは面白いのではないか。

 広島に生まれ育った僕は、原爆の話は何度となく聞かされてきた。そこで多くの人が亡くなったことや、生き延びた人にもさまざまな苦労があったことはすでに記録されている。でも、生き延びた人たちがどのように過ごしてきたのかは、その被害に比べて、どこか見落とされてるように感じる。お好み焼きをめぐる物語ということを入り口に、戦後十年くらいまでの風景を書き留めることはできないだろうか。そうすれば、取材にかこつけて里帰りだってできるし、取材に出かけるためのクルマだってある。そんなふうにアイディアは無限に膨らむのだけれども、そのアイディアをどうすればよいのか思いつかず、酒を飲みながら眠ってしまった。