7時過ぎに起きて、入念にストレッチをしたのち、ジョギングに出る。鹿児島の建物はいかにも近代建築という感じで、重心の低い建物が多く、走っていて面白い。ホテルに戻ってテレビをつけると、安室奈美恵のコンサートの映像が流れている。ああ、最後のライブが終わってしまったのか。シャワーを浴びて、9時の高速バスに乗って熊本に移動。3時間ほどで到着し、まずはお昼ごはんを食べる店を探す。ぶらついていると、以前から気になっていた「焼きそば お好み焼 ニック」という看板に出くわし、ニック焼きBを注文。焼きそば+目玉焼き+ちょぼ焼きが一枚の鉄板にのっている。ちょぼ焼きとは、混ぜないタイプのお好み焼きで、たくあんが入っており、熊本の郷土料理であるようだ。何度も熊本を訪れているのにまったく知らなかった。たくあんの食感と風味がアクセントになっていてウマイ。

 熊本市現代美術館に移動して、チェルフィッチュの映像演劇「渚・瞼・カーテン」観る。演出家の岡田利規さんと映像作家がコラボレーションして、演劇を、映像作品として美術館に展示するというもの。せっかく鹿児島のドライブインに取材するのだから、少し足を伸ばしてこの展覧会を観ておかなければと思ったのである。入り口に「渚」と題したテキストがあり、まずそのテキストからして強く心に残る。そうして会場に足を踏み入れ、すぐ左手には「A Man on the Door」が映写されている。映写されている場所は非常扉で、「このドアを開けると、海岸が見えます」と映像の中の男が語る。でも、このドアは開けないでください、なぜならそういうことになっているからですと男は続ける。ドアを開ければ海があり、そこには海岸がある、海岸はあるけれど海は見えない、なぜならそこには12メートルもの高さの壁があるからです、と男は説明を続ける。今、私はその海岸に立っていて、あなたには私の姿はこれぐらい(実際の人間のサイズ)に見えているけれど、本当はこれぐらい小さいサイズにしか見えません、と。この映像作品はとにかく素晴らしいと感じる。そして、この展覧会で岡田さんが伝えようとしていることが、入り口にあった「渚」というテキストもあいまって、明瞭に、まっすぐに僕の中に届いてくる。それは、想像するとは何か、ということに尽きる。私がいるのは熊本市現代美術館であって、その非常扉を開けたところで殺風景な風景しか存在しないけれど、それでも扉の向こうに渚の風景を想像する。そこに男が立っている姿を想像する。映像の中で語っている男は現在には存在していないのに、その姿を想像する。その「想像する」ということが、自分の中でどのように立ち上がるのか、その過程がはっきりと自分で認識できる。

 わずか3分の映像作品だが、もう「良い作品を観た……」と打ちひしがれた気持ちで次に進むと、そこには「カーテン」と題したテキストが置かれていた。一つ目の映像作品の印象と相まって、あまりによいテキストだったので、ノートにメモをした。

 カーテンみたいに、軽くて、薄くて、柔らかいものほうがいいとおもう。壁みたいな、重くて固いものは、全然なくていいとおもう。そんなに仰々しいことにしなくても、カーテンで、じゅうぶんにことは足りるとおもう。外を気にしたくないときは、カーテンを閉めればいいのだし、閉ざされていることで、孤立しているような、さみしいような気がしてきたら、そのときはカーテンを開ければいい。壁では、そんなふうにいかない。(略)壁よりも、カーテンのほうが断然いいとおもう。窮極的には、カーテンだってないほうがいいとおもう。目に見えるもの実在するものが、何もない、というのがいちばんいいとおもう。認識だけで分けられている、というのがいちばんいいとおもう。壁よりも、カーテンのほうがいい。カーテンよりも、認識だけのほうがいい。認識というのは、壁なんかよりもずっと堅牢で、丈夫で、確かな、揺るぎないものだとおもう。

 テキストをメモしていると、「ここからは、あなたたちはみえません」という声が聴こえてくる。「あなたたちは、こっちには入ってこられません」。そこに展示されているのは「The Fiction Over the Curtains」で、カーテンのように半透明のスクリーンに映写されており、何人かが入れ替わりに登場し、いくつかの掌編が上演されてゆく。作品を説明したテキストを読むと、「役者の言葉や動き、観客の観測点に応じて、作品の『向こう側』と観客のいる『こちら側』の、内外の関係が入れ替わる」とあり、近くにいた学芸員に「この作品、スクリーンの裏側も見れるんですか?」と尋ねてみる。あちらのスペースからでしたら、裏側もご覧いただけます、と学芸員さんは言う。その「内外の関係が入れ替わる」というのはどんな風景だろう。舞台の向こう側から観ているような感覚にもなるものだろうかと、裏側から眺めていると(裏側からでも映像は問題なく観ることができた)、あの、こちらは「どんなふうに映写されているか」はご確認いただけますけど、作品は正面からご覧くださいと注意される。あなたはこの展示の説明は読みましたか、その上でそんな注意をしているのですか、では「正面」とはどこだと考えていらっしゃるんですかとたたみかけそうになるが、ここでそんなことを言ったところで変な人にしかならないだろうことは明らかだったので、指示に従う。この映像演劇も面白くはあったのだけれども、その面白さを言語化できないでいる。それを言語化しようとすればできる気もするのだけれども、それでは一番肝心の部分を取り残してしまう気がする。一体この作品は何だったのだろう。

 続けて「楽屋で台本を読む女」を観る。タイトルに沿うように、少し区切られたスペースに展示されている。映像が映写されるスクリーンは鏡台のようになっており、鏡台の手前には(まさに楽屋のように)椅子が置かれている。そこからやや距離があって、鏡台の手前とは異なる色彩の椅子が四つ並んでいる。常識的に考えてこちらが観客用の椅子なのだろうが、だとすれば鏡台の手前の椅子は何のために置かれているのだろうかと気にかかったが、「あえてそういう場所に座る」みたいな性格を持ち合わせているわけでもなく、観客用とおぼしき椅子に座る。センサーでもあるのかと思うほどぴったりのタイミングで作品が始まり、すぐに鏡台の前に置かれた椅子の意味がわかる。映し出される映像の中には――鏡の向こう側の世界には――ひとりの女優が座っていて、鏡ごしに語りかけてくる。そうして語りかけられることで、そこに置かれた椅子には誰も座っていないにもかかわらず、映像(鏡)の中で語り続ける彼女の姿を観ているうちに、そこに彼女がいるかのように思えてくる。そして映像(鏡)の中で語る彼女は、ときどき後ろを振り返る。鏡の中には、僕の姿も映し出されている。そこでは僕も映像(鏡)の中に取り込まれていて、現実と虚構が複雑に混じり合ってゆく。これはなかなか面白い体験だった。とても面白くはあるのだけれども、こうして説明するだけではトリックアートのようでもある。こうして交差する視線から、今後どのような作品が立ち上がるのだろうかと想像する。

 それに近い感想を抱いたのは「働き者ではないっぽい3人のポートレート」だ。この作品のテーマになっているのは視線であり、見る/見られるの関係、あるいはまなざすということが俎上に挙げられている。3人の登場人物たちは、それぞれ「見る/見られる」エピソードを語る。ひとりが語るのは、喫煙所の対岸にある公園にいつもいるおじさんがいて、喫煙所に行くたび、視線を注がれていることに気づかれていないと思っているんじゃないかと思うほどに凝視されるという話だ。また別のひとりが語るのは、電車に座って考え事をしていると、気づかないうちに誰かのことを凝視してしまっていることがあって、でもそれは、見ているけれど見ていないのだという話。もうひとりは、「私、見える人なんです」と語る。でも、正確に言うとそれは「見える」ではなくて、「見られていることに気づく」感覚に近いのだと彼女は続ける。「その視線というのがかなり不躾な目線で、デリカシーみたいなのがあってもいいと思うんですけど、そういうのがないんですよね」と語る。観客である私からすれば、映像の中にいる彼女は(いま現在には存在していないという意味で)幽霊のようでもあり、映像の中にいる彼女から見た私の存在もそれに近いだろう――そんなことを思い浮かべていると、映像の中の彼女はスクリーンのこちら側に目線を向け、「(デリカシー)ないですよね?」とつぶやく。そうして作品は終わる。この作品が言わんとしていることはよくわかる。「見る/見られる」、あるいは「まなざす」ことについて問いかける作品にはなるだろう。熊本に暮らしていて、なんとなしに美術館を訪れた人に対しては、その人たちの生活の中の意識を少し変える作品にはなるだろう。この土地で上演されている意味としてはそれで十分ではあるけれど、飛行機に乗って観にきた身としては、そのもう一歩先の風景を見たいと思ってしまう。まなざすことがデリカシーのないことだとわかっている。それでも最初から最後まで見届けると、凝視しようと思って生きている人間としては、「(デリカシー)ないですよね?」と言われたあとに、思わず「おう、ないで!」と言ってしまいそうになる。「見るって決めてんねん、もう。普段は人の目なんかほとんど見れへんけど、上演時間は最初から最後まで目をそらさんって決めてんねん」と言ってしまいそうになる。

 しかし、それにしても、太田信吾さんと川崎麻里子さんのコミカルさが印象に残る。もちろんそれは俳優に備わっているものでもあるだろうけれど、あの素っ頓狂は岡田利規という演出家に備わっているものだろう。別に笑いを起こすわけではなく、「どうです、シュールでしょう」という声が聴こえてくるほど主張が強いわけでもなく、でも、奇妙で目が離せなくなる。それはこの「働き者ではないっぽい3人のポートレート」だけに限ったものではなく、また今回の映像演劇に限ったものでもなく、常に漂っている。その素っ頓狂に、いつも目が釘付けになる。

 「第四の壁」と題した映像作品にもそうした素っ頓狂を感じる。説明文を引用する。

 いつ訪れるかわからない侵入者を阻止するため、門の前に土嚢を積み上げるという演劇を、三人の男性が上演する。しかし途中から、一人の女性が脚立を持ち込み、何やら楽しげな飾り付けを始める。同じ場所で、異なる場所と異なる第三者を想定しながら、それぞれ作業に勤しむ。

 侵入者を阻止するため、壁を作る。これは現在の世界に対する批評を感じるし、入り口近くに置かれていた「カーテン」というテキストとのつながりも感じる。あるいは、この映像演劇を通じて描かれようとしている、観客席と舞台とのあいだにある壁、映像の向こう側とこちら側にある壁、私が見ている世界と私が存在している世界は別物だと思ってしまっている意識について描かれている作品だということは想像にかたくない。ただ、「壁を作ることに勤しむ男性たち」と「楽しげな飾り付けを始める女性」を対置するのは、あまりにもストレートであるように感じる。チェルフィッチュの『三月の5日間』は、イラク戦争が始まった日を挟んだ5日間を過ごした何人かの若者たちの姿が描かれる作品だ。そこにはデモの描写もある。あの時代のデモといって思い出されるのは、渋谷のサウンドデモだ。そこで小西康陽が引用したテキストに吉田健一の随筆がある。「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである」。この言葉のことを、ここ数年で改めて考える。各自の生活を美しくして、それに執着すること。それが戦争に反対する唯一の手段だということを否定するつもりはない。芸術の役割も、そこに近いものがあるだろう。ただ、実際にはそれが戦争を止めないということを私たちは知っている(と書いていて、吉田健一は「戦争を止める唯一の手段」ではなく「戦争に反対する唯一の手段」と書いていることに改めて気づき、そのことについて考え始めてしまったけれど、それはすぐには答えが出ないので深入りしないでおく)。積み上げられた土嚢に、楽しげな飾り付けをする。それは美しい風景であるようにも見える。そこに希望を持ちたいと思う。でも、それは現実を変える力は持ちえない。戦車に花を挿して歩いても、兵士の胸ポケットに花を挿して歩いても、それは美しい風景にはなるけれど、それは現実を押しとどめる力を持ち得ない。そのことについて、岡田さんは何を感じているのだろう。「第四の壁」を観て、そんなことを考えた。

 最後に「瞼」というテキストを読んだ。このテキストも素晴らしかったが、そういえば現在発売中の『新潮』に岡田さんによる「映像演劇」に向けたテキストが掲載されているはずで、そうであるならばこれほど素晴らしいテキストも掲載されているに違いないと思ってメモをすることなく会場をあとにしてしまったのだが、そのテキストは会場でしか読めないものであった。どうしてメモしなかったのかと後悔している。しかし、それにしても、奇妙なリンクを感じる。作家と作家を比較することにどこまで意味があるのか疑問ではあるし、並べられることを喜ばしくも思わないだろうけれど、マームとジプシーの作品が近年描こうとしているものと非常に近しいものを感じる。これは別に、マームの作品をよく観ているからそんなふうに語りたがっているわけではなく、まず「渚・瞼・カーテン」というタイトルからして問題意識がかなり重なっている。マームの作品では海が繰り返し描かれてきて、初期の作品では藤田さんの郷里である北海道の海が描かれていたのに対して、ひめゆり学徒隊に着想を得た『cocoon』を舞台化したり、いわきや北九州の滞在制作で故郷とは違う海を描いたりと活動を続けるなかで、その海は普遍的な意味を帯びつつある(それが来月上演される新作『BOAT』に繋がるのだと思う)。そして、マームは『ヒダリメノヒダ』あたりから、見るということ、目というフィルターのことについて作品の中で言及することが増えているが、それは「瞼」というテーマと重なる。「壁よりカーテンのほうがいい」というテキストも、マームが2016年の『ロミオとジュリエット』あたりから強調している「壁」というモチーフにも重なる(もちろん現代という時代を意識しながら活動している作家で「壁」について無意識である人なんていないだろうけれど)。

 そうして重なる部分に目が行くのと同時に、その二人の作家が決定的に違っているところも際立つ。それは、「現在」という瞬間に託しているかどうかの違いだ。

 藤田貴大は、現在という一瞬に賭けている。演劇は現在にのみ存在しうるもので、今日この瞬間に劇場にいる俳優だけが舞台に立ち、今日この瞬間に劇場にいる観客だけが舞台を観る。その一瞬にすべてを賭けている。彼の作品が文字として書かれた戯曲によってではなく、口伝によって作られていくこともそれに近いだろう。自分以外に誰もいないホテルの一室や自宅の机で想像するのではなく、そのテキストは常に俳優の身体や舞台装置が実在する空間で紡がれる。その点で岡田利規は対照的であるように思える。たとえば、『部屋に流れる時間の旅』。この作品が京都で初演されたときと、昨年東京で上演されたときではずいぶん俳優の印象が違って見えた。それは演出として違う指示を受けたのかと思っていたけれど、そうではないのだと後で聞いた。それは、作品とともに俳優が世界を旅するなかで堆積したものがあり、演じているうちに変化していったのだろう。その「いずれ伝わる」ということを、演出家として強く信じているように思える。だからこそ映像演劇に踏み出したのだろう。

 しかし、それにしても大満足の展覧会だった――ふらふらと現代美術館をあとにして、階段を降りていると、道路を挟んだ向かい側に鶴屋百貨店が見えた。そこには「鶴屋ビアガーデン」の文字が見えた。もうビアガーデンが始まっているのか。これは行くしかないだろう。開店時刻の18時まで原稿を書いて時間を潰し、屋上へ。昔ながらのビアガーデンといった感じで、とても贅沢な空間だ。向こうに修復中の熊本城も見えている。ビールの大ジョッキと、ヤムウンセンを注文。ジョッキを傾けながら、展覧会を反芻する。「瞼」に書かれていたことを思い出す。そこで書かれていたのは、想像することは何かということだ。瞼を閉じているからこそ見える世界がある。僕にとってお酒を飲むこともそれに近いことだ。それは、現実から目を背けて逃避することではなく、世界をよりクリアにみるために酒を飲んでいる――というのはこじつけだろうか?

 21時、「Re;li」のIさんたちと待ち合わせ、ワイン食堂へ。今日のお昼にお店を訪れた際に、「良かったら食事でも」と誘っていただいていたのだ。あれこれ質問してくださって、「みえるわ」のときのこと、今日観てきたばかりの感想について話す。「橋本さんの視点ってやっぱり独特で面白いですね」と言ってくださるのだが、そこまでの話ができていると思えず、ふるふるした気持ちで帰途につく。