6月26日

 4時半に目を覚ます。5時、アラームを止めて、シャワーを浴びる。6時にアパートを出て、羽田空港へ。7時に南ウィングの時計台で待ち合わせ。今日から『cw』の取材だ。こないだの沖縄滞在と違って、もしもぼくが感染していたら編集者の方が行動経路を把握しているので、細かくは書き残さない(取材だから、細かく書くのは憚られるというのもあるけれど)。だから、印象に残ったことだけを書き出す。

 飛行機を乗り継いで向かった先は石垣島だ。同じく『cw』の取材で訪れて以来、二度目だ。到着ロビーに出ると、チラシが配布されていた。「石垣市からのお願い」と書かれたその紙には、「感染対策」の方法がイラストつきで書かれている。「マスクを着用しエチケットを守りましょう」「手指の消毒をこまめに行いましょう」「部屋に帰ったら手洗い・うがいを行いましょう」「滞在中は、毎日体温チェックをし、体調不良時の外出は控えましょう」「三密(密接・密集・密閉)を回避しましょう」「宿泊施設、交通機関、店舗等事業者による感染防止ガイドラインを守りましょう」と、この6項目が挙げられている。さすがにしっかり警戒しているなと感心していたら、島内で観光客――その多くはグループ客だった――がマスクを外して談笑している風景を何度となく目にした。

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 この日は竹富島を訪れた。竹富島を訪れるのは初めてだ。大学生の頃、ドド子さんが竹富島の魅力を語っているのを聞いたことがあるけれど、自分が訪れる日はやってこないだろうと思っていた。大学生の頃から、自分がどこかに出かけるとすれば、ライブやイベントのためか、誰かに会いにいくか、あとは帰省のときくらいのもので、「旅に出よう」と思ったことは一度もなかった。だからぼくの中で、竹富島はもっとも縁遠い世界の一つだと思っていた。今のようにちょこちょこ沖縄に足を運ぶようになってからは、竹富島は観光客で賑わっているイメージが強く、足を運ぼうとは思わなかった。その場所にいるというのが、とても不思議なことに感じられた。しかも、コロナの影響で、観光客の数はまだずいぶん限られていた。編集者のTさんは、当然ながら取材で頻繁に訪れていることもあり、「こんなに人がいない竹富島は久しぶり」と話していた。いつもはレンタサイクルが行き交い、水牛車はピストン輸送を繰り返し、観光客が流れ作業のように竹富島を「観光」してゆく風景が広がっていたのだという。今日の風景は、昔に戻ったみたいだとも語っていた。コロナの影響で目にすることができた風景を焼き付けるように、取材後は島内をそぞろ歩き、取材先に引き返し、缶ビールを買って中庭でぼんやり過ごした。名前は知らないけれど、いろんな花が植えられていて、見事に咲き誇っている。こんな贅沢な時間を今後味わうことはあるのだろうか?

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 最終便で石垣に引き返し、シャワーを浴びたのち、飲みに出かけた。1軒目で飲んだあと、ひとりで夜の街に繰り出した。行き先は決まっていた。前回訪れた「やふぁやふぁ」という居酒屋だ。あのとき、カウンター越しに目にした大将の仕事ぶりと、八重山そばの茶碗蒸しがとても印象的だったので、いつか再訪したいと思っていたのだ。ちょうど〆の料理が欲しかったこともあり、お店に向かってみると、まだぎりぎり営業していたのでカウンターに座らせてもらう。カウンターはビニールカーテンで遮られていた。眼鏡を外した状態で見ているように、少しぼやけているけれど、大将の姿が見える。そばを啜り、満足したところで宿に引き返す。

6月25日

5 5時過ぎ、テレビから流れる地震速報の音で目を覚ます。そこそこ揺れを感じる。「この程度か」と思いながら再び眠りにつく、いつか本格的な揺れが東京を直撃して、死んでしまうのだろうなと思う。9時過ぎまで、ゆるゆるとケータイをいじり続けてしまう。気合いが入らず、10時にコンビニに出かけ、アイスコーヒーのLサイズとジューシーハムサンドを買って帰ってくる。知人を見送り、風呂に湯を張り、『みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。』を読んだ。14時、焼きそばを作って平らげる。雨が上がっていたので洗濯機をまわし、干す。寝転がって坪内さんの本を読もうとしたところで、ベランダの向こうに鳥たちが飛び交う音が聴こえてくる。そこには枇杷の木があり、腐りかけの枇杷の実がなっているから、鳥がついばみにきているのだ。それは別によいのだけれど、ついばみにきた鳥が洗濯物の上にとまったり、糞をしたりするのではと不安になり、とりこんでコインランドリーに向かう。乾燥させて帰宅したあとで、ぼくが留守にしていた間に知人がお隣さんから預かっていた高枝切り鋏を持ち出し、枇杷の実を切り落とし、伸びた枝を切る。そうこうするうちに16時となり、今日も新宿行きは諦めて、自転車で上野に出て、ヨドバシカメラソーダストリームのボトルを交換する。不忍池には蓮が茂っている。17時、オープン直後のバー「H」に立ち寄り、ハイボール。坪内さんのこと、Hさんに尋ねてみたいこともあるけれど、こらえる。ハイボールを2杯飲んで、アパートに引き返し、知人の帰りを待ちながらチューハイを飲んだ。

6月24日

 9時過ぎまで起きれなかった。自分の中に言葉が詰まっているのか、久しぶりで同じ夢を見た。夜、壺屋のやちむん通りを歩きながら、喉に違和感をおぼえて、口から陶器の破片を吐き出し続ける夢。知人も寝坊して、慌てて支度をして出勤してゆく。今日はほとんど、何もできなかった。昼はスーパーに買い物に出かけ、焼きそばを作る。夕方から新宿に出かけるつもりでいたけれど、徒歩圏内から出かける気力がわいてこず、16時半に缶ビールを開けた。疲れが溜まっている。

6月23日

 目を覚ますと、雷の光が射し込んでくる。9時、ホテルを出て界隈を歩く。雨が降っている。路地を歩くこどもたちが、樋から勢いよく落ちてくる雨水に傘をあててはしゃぎ、走り去ってゆく。それは角のお菓子屋さんのこどもたちであったらしく、ひとりは回転作業をする家族のもとに駆け寄り、もうひとりは向かいの店の店員さんにちょっかいを出しに行っている。とてもあざやかな風景だ。花屋さんが早くから店を開けていて、百合の花がたくさん並べてある。新天地市場本通りまで歩いていくと、商店の軒先にある陳列台に、おばあさんたちが腰掛けて足をぷらぷらさせている。「上原パーラー」でじゅーしーおにぎりを買って、名刺を渡して、界隈を歩く。雨はいつのまにか上がっていて、晴れ間も覗いている。10時過ぎ、「ジュンク堂書店」を覗き、沖縄に関する本を5冊と、山本美希『かしこくて勇気ある子ども』を購入する。

 10時半にホテルに引き返し、11時にチェックアウト。荷物を少しだけ預かってもらって、最後にもう一周、界隈を眺めておく。国際通りにはロケ隊の姿があった。慰霊の日のまちの様子を撮影しているのだろう。「セブンイレブン」(新天地浮島店)で新聞2紙を買う。琉球新報は、新聞を包み込むように、紙面が1枚追加された特別編成だ。その紙には全面に写真が印刷されている。海と、そこにのぼる朝日だ。その紙面は、特別な印象をもたらす。一方の沖縄タイムスは、一面で「戦後75年」と報じながらも、トップ記事は嘉手納基地で昨日発生した火災を報じている。あえて今も強いられている現状をトップに据える沖縄タイムスにも、そして特別編成にした琉球新報にも、それぞれ批評性を感じる。

 ホテルで荷物を受け取って、タクシー(津嘉山タクシー/車番0120)を拾う。本がぎっしり詰まったスーツケースは重く、運転手さんがトランクに乗せるのを手伝ってくれる。空港に向かってもらうあいだ、信号で停まるたび、運転手さんが手を拭っていて、なんだか申し訳なくなる。昨日の夜に買った傘は、タクシー運転手さんに引き取ってもらうつもりでいたけれど、受け取ってもらえないかもしれない。逡巡しながらも、空港にたどり着いたところで「もしよかったら」と伝えると、「雨が降ったとき、お客さんに渡します」と喜んで受け取ってくれてほっとする。

 11時45分、チェックイン。スーツケースは24キロを超えていて、超過料金として1000円支払う。レストラン街のあるフロアに移動して、テレビのある店を探す。12時からはNHKで慰霊祭の中継が放送される。飲食店には行列のできている店もあった。端から端まで歩いてみても、どこにもテレビのある店はなかった。チェックインカウンターがあるロビーにテレビが設置されていたことを思い出し、「ローソン」(那覇空港店)で缶ビールを2本買って、テレビを探す。ちょうどテレビの目の前が空いていた。チャンネルもNHKに合っているようだ。ほどなくして12時になる。中継は始まらず、マーケット情報が流れ出す。NHKNHKでもBSにチャンネルが合っているようだ。うかつだった。他にテレビを観ている人はいないので、テレビの横にあるスイッチでチャンネルを通うとしたところ、操作できない設定になっている。慌てて荷物を抱えて、中継が流れているテレビを探す。どこに行っても、慰霊祭の中継は観られなかった。

 これはもう、出発ロビーに出るしかない。お土産を選ぶことなく、保安検査場を通過し、テレビがある場所を探す。チャンネルはやっぱりNHKに合っていなかったけれど、カウンターの職員の方に話し、チャンネルを変えてもらう。なんとか玉城デニー知事の平和宣言の途中から聞くことができた。汗を拭きながら缶ビールを開ける。ちょうど新型コロナウイルスに言及しているところで、「この感染症は、病気への恐れが不安を呼び、その不安が差別や偏見を生み出し、社会を分断させるという怖さを秘めています」と語る姿に感銘を受ける。「ここ平和祈念公園には、国籍や人種の別なく戦争で亡くなられた全ての方々の名前を刻む『平和の礎』があります」とした上で、ヒロシマナガサキにも言及し、分断ではなく連帯を呼びかける。沖縄の慰霊の日における平和宣言でありながらも、沖縄だけのことに言及するのではなく、あとで全文を読むと中村哲医師のことにも触れられていた。ここにはたしかに言葉がある。

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 続いて平和の詩の朗読が始まる。2013年から慰霊祭に足を運ぶようになって、平和の詩の朗読を毎年楽しみにしている(ここ数年は早朝から足を運んでいるので、リハーサルから聴いている)。今年は式典の規模が縮小されるということもあり、現地に足を運ぶことは早々にあきらめたけれど、どうにかリアルタイムで聴きたくて、空港内を駆けまわったのだった。これまでぼくの中で強く印象に残っているのは、2013年に小学1年生が朗読した「へいわってすてきだね」で、そこにある「よなぐにうまが、ヒヒーンとなく」という一行の声の響きを今でもはっきりおぼえている。それはとてものんびりした声で、与那国ののどかな風景がありありと目に浮かんでくるようだった。

 今年の朗読は、「懐中電灯を消してください」という言葉で始まる。詩の中でも鉤括弧つきで表記されているが、これはガマを見学したときに、ガイドの方が発した言葉だろう。詩の朗読でも、そのように発語されている。

 

「懐中電灯を消してください」
一つ、また一つ光が消えていく
真っ暗になったその場所は
まだ昼間だというのに
あまりにも暗い
少し湿った空気を感じながら
私はあの時を想像する

 

 最後に入ったのは5年前か、アブチラガマを見学したときのことを思い出す。あのときもガイドの方に促されて、懐中電灯を消した。あの湿度と匂いを思い出しながら、朗読を聴く。詩の中で、「私はあの時を想像する」。

 

あなたがまだ一人で歩けなかったあの時

あなたの兄は人を殺すことを習った

あなたの姉は学校へ行けなくなった

 

あなたが走れるようになったあの時

あなたが駆け回るはずだった野原は

真っ赤っか 友だちなんて誰もいない

 

あなたが青春を奪われたあの時

あなたはもうボロボロ

家族もいない 食べ物もない

ただ真っ暗なこの壕の中で

あなたの見た光は、幻となって消えた。

 

 この「平和の詩」は、詩的な表現に走ることなく、淡々と綴られている。戦場の悲惨さを書き立てようとすれば、もっと仰々しい表現だって使えるはずだけど、「真っ赤っか」「あなたはもうボロボロ」と、素朴な言葉で綴られている。朗読自体も、あくまで淡々と読み上げられていく。その姿がとても印象的だった。ぼくは広島出身だったこともあり、小学生の頃から平和教育を受けて育った。祖母は被爆し、親戚が何人か亡くなってもいる。でも、そのことと、戦場の悲惨さを、まるで自分自身が目にしたことのように語ることには違和感がある。この詩は、現代を生きる「私」が、かつてそこにいた「あなた」を想像する、という境界線を越えることなく綴られ、朗読されていた。そして、「あの時」、生き延びるという決断をした人に語りかける。それは、今のわたしたちに託されているものを照らし返す。とても素晴らしい朗読だった。

 感銘を受けていると、総理大臣からのビデオメッセージが始まる。

 

 令和2年・沖縄全戦没者追悼式が執り行われるに当たり、沖縄戦において、戦場に倒れた御霊、戦禍に遭われ亡くなられた御霊に向かい、謹んで哀悼の誠を捧げます。

 

 この人の挨拶をずっと聞いているけれど、本当にほとんど言葉が変わらないのでもはや感心する。「今日私たちが享受している平和と繁栄は、沖縄の方々の筆舌に尽くしがたい苦しみ、苦難の歴史の上にあることを、私たちは決して忘れません。沖縄戦から75年を迎えた今、そのことを改めて嚙み締めながら、静かに頭を垂れたいと思います」。この言葉を、総理大臣が発してくれてよかったとすら思う。6月23日の慰霊の日がやってくるたび、わたしたちはかつてここで起こったことを思い出す。そして「頭を垂れた」気持ちになり、日常に戻ってゆく。そんなふうに首を垂れて、関心を向けたつもりになって、現在起きている問題から目を逸らしているのではないか――総理大臣の空疎な言葉によって、そう自問自答させられる。

 スクリーンに映し出される総理大臣の姿を、玉城デニー知事は苦い顔をしながら、じっと見つめていた。「沖縄の方々には、永きにわたり、米軍基地の集中による大きな負担を担っていただいております」。その言葉に、聞いていてギョッとする。ギョッとしたというのは、「担っていただいております」という言葉だ。「担う」というのは主体的な行為であるけれど、沖縄県民は主体的に基地を引き受けようとしたことはなく、奪われ続けているだけだ。基地が集中している状況は「到底是認できるものではありません」と口では言うけれど、この「担っていただいております」という物言いは、総理大臣の本心が透けて見える。

 メッセージの後半では、「美しい自然に恵まれ、アジアの玄関口に位置する沖縄の優位性と潜在力は計り知れません」と、あいかわらず経済振興をちらつかせる。「本年3月には、念願の那覇空港第2滑走路の供用も開始しました。現下の新型コロナウイルス感染症による危機を乗り越え、沖縄が『万国津梁』として世界の架け橋となるよう、沖縄の振興をしっかりと前に進めてまいります」と語る。「万国津梁」という言葉自体は昔からある言葉ではあるけれど、玉城デニー知事が政策の目玉として掲げる、知事の諮問機関の名前が「万国津梁会議」である。

 中継が終わり、感想をつぶやいているうちに12時50分だ。ぼくが登場するスカイマーク514便は13時から搭乗が始まるとアナウンスが流れる。沖縄そばを食べてから飛行機に乗るつもりだったけれど、そんな時間はなさそうなので、25番搭乗口の一番近くにある売店でサンドウィッチとさんぴん茶を買って、飛行機に乗り込んだ。27H、隣の席は空いていてほっとする。飛行機の中で、『かしこくて勇気あるこども』を読んだ。羽田空港に到着して、荷物のターンテーブルのところに出てみると、ここには那覇空港と違って「距離を」という案内は見受けられなかった。17時ちょうどにYMUR新聞に到着し、委員会に参加。もうすでにほとんどの委員が揃っている。今日はあの本が並んでいるのではないかと思っていたが、本の山の中には見当たらない。本のリストを手に取り、確認してみると、やはりあの本のタイトルが含まれている。どうしよう。あの本だけはぼくが書評しなければと思っていたのに(だから、本当は慰霊の日の夜は那覇で過ごすつもりでいたけれど、便を変更して委員会に出席した)。「セリ」のときに、手をあげて、「その本はぼくも書評したい」と手をあげるしかないか――ぐるぐる考えていたら、委員のSさんが「橋本さん、これ」と手渡してくれる。Sさんはぼくの追悼文もすべて目を通してくれていて、取っておいてくれたのだろう。自分の席に戻らず、すぐ近くにある椅子に座り、読み始める。

 20時に委員会が終わる。ここ最近はハイヤーで送ってもらうのを避けてきたけれど、このスーツを抱えて地下鉄の階段を上り、団子坂を上がるのは想像するだけでシンドイので、ハイヤーで送ってもらう。アパートの郵便受けを覗くと、『みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。』が届いている。中を開くと、編集者のNさんから手書きでメモが添えられている。その字はどこか坪内さんに似ている。荷物を解き、整理しているうちに知人から連絡があり、慌てて外に出る。今日は「たこ忠」で飲もうかと話していたのだ。席はほぼ埋まっていたけれど、隣の客とそれなりに距離が保てる小上がりが空いていたので、そこに座らせてもらう。隣に座る若い二人組のうち、ひとりはマスクをつけている。店員さんが「前回もお聞きしたかもしれないんですけど」と、名前と連絡先を書いて欲しいとメモを差し出す。もしも今日この空間に感染者がいた場合にと、連絡できるように対策を取っているのだろう。こうした感覚は店ごとに全然違っているのだろう。

 知人を前に、沖縄滞在中に感じたことを話す。こうして日記を書く中で、「男女が」だとか、「観光客が」だとか、「地元の子が」だとか、あれこれ書き綴ってきたけれど、そうしたまなざしがとても差別的だということ。しかし、目にした人たちに「あなたは地元ですか、観光ですか」と、ひとりひとりに問いかけることもできないこと。その人たちは、書かれるために存在しているわけではないのだから、勝手に書き記していることが暴力的であること。でも、こうして書き残しておかなければ、この時期の風景が後世に伝わらないこと。書くことがいよいよ難しい時代になってきた――そんなことを知人相手に語りながら、どうして自分はそんなふうに書き残そうとするのだろうかと疑問が浮かんだ。この一週間、沖縄に滞在しながら、猛烈に日記を書いた。メモをつけている時間も含めれば、滞在しながら、そのうち3時間くらいは書き残す作業に費やしていた(リアルタイムで書いておかなければ、記憶から消えたことはたくさんあるだろう)。誰に頼まれたわけでもないのに、こうして日記をつけている。

6月22日

 5時半に目を覚ます。つけっぱなしのテレビから、本部で豪雨が降ったと報じられている。沖縄は今日、一日中雨だそうだ。曇りガラスだから外の様子は見えないけれど、たしかにいつもより薄暗い気がする。11時50分に外に出る。傘はなく、雨に降られながらアーケードのある区画まで走る。市場中央通りを歩いていると、空き店舗となっていたところで工事が始まっていて、よく見ると前に取材させてもらったOさんが作業している。ご挨拶して、工事の姿を写真に収めていると、「ミルク食堂」の方が通りかかる。「さっぱりしましたね」と笑いながら、通り過ぎてゆく。「上原パーラー」でネパールカレーを買って、パラソル通りで平らげる。雨だからか人通りも少なく、静かだ。紙に手書きで書評を書き始めると。30分と経たないうちに書き終わってしまう。ホテルに引き返して、パソコンで入力しておく。

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 14時、仮設市場へ。様子を眺めてまわっていると、肉屋さんにお客さんの姿があった。接客している店員さんに、また別の店員さんが話しかけて、「皮がついてないと、お供えにならないよ」と伝えている。明日は慰霊の日だから、御供物を買いに来るお客さんもいるのだろう。皮がついてないと、お供えにならないんだ。そう思いながら階段を上がり、事務所で組合長のAさんに取材。途中でAさんのケータイが鳴り、どうぞどうぞと反射的に言ってしまう。テレビ局から取材の相談らしかった。現在の市場の様子をあれこれ確認している。今の状況では対面取材はなるべく控えるべきだというのはわかるけど、タクシーで千円以下の距離にあるのだから(そもそもぼくからすると徒歩圏内)、様子を確認するだけなら足を運べばいいのにと思う。自分で見聞きせずに、取材なんてできるかよ。しかも、今後のイベントなどの話になったとき、「そのときにはプレス(リリース)出されます?」という声が聴こえてきて腹が立つ。流れてきたプレスリリースをフォローするだけで取材になるかよ。電話は40分近く続く。心が折れそうになる。取材を受ける側も、話せば話すだけ疲労が溜まるはずで、こちらの取材が手短に終わってしまうのではと不安になる。でも、最終的にはしっかり話が聞けてほっとする。

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 仮設市場を出て、アーケードのある区画まで走り、「市場の古本屋ウララ」に立ち寄る。これまではアーケードが張り巡らされていたから、雨が降っていてもまったく行動に影響は出ることがなかったのになと思う。「わたしも、ついさっきコーヒーを買いに出たんですけど、前はこんなに苦労しなくて済んだのにと思いました」とUさんが言う。沖縄在住の唯一の友達だから、「昨日取材で聞けた話も、今日の取材で聞けた話も面白かった」と、聞かれてもいないのに報告してしまう。また無事に来れるといいですねと言われて、どこか別の空港を経由してでもきます、と答える。16時にホテルに引き返して、鬼のようにテープ起こし。2時間ほどで完成。19時、国際通りの「ファミリーマート」で出力し、「末廣ブルース」に入り、ビールとてびちアラビアータを注文。てびちアラビアータ、美味しいのだけれど、ぼくは箸遣いが下手だから、肉をこそぎ取るのに奮闘する。隣で「明日は慶良間に潜りに行く」と話していた標準語の女性から、ノーガードで「それ、何食べてるんですか?」と声をかけられ、マスクを定位置に戻し、「てびちアラビアータです」と答える。店員さんの中にも、マスクをあごにずらして作業をしている姿がある。ビールを1杯、レモンサワーを1杯飲んだところで店を出る。「パーラー小やじ」に立ち寄るも、混んでいたので通り過ぎ、「ファミリーマート」(那覇神里原通り店)でビールと傘を買い、栄町市場の「うりずん」へ。カウンターは昨日より空いている。他に座っているのはいずれも観光客で、お互いにどんな旅をしているのか話し合っている。東京からやってきたという男女は、女性のほうは沖縄出身であるようだが、男性がずっと沖縄料理の説明をしている。どうしてすぐにこういう構図になってしまうんだろうなあ。白百合を2合飲み干したところで会計をして、「謝花酒店」でビールを買い、ごんたを眺める。ほとんど動くことなく、横たわっている。ああ、一回ぐらい触れておこうかと手を伸ばした瞬間、さっきまであんなに動かずにいたのに、はうっ、と体を起こす。

6月21日

 9時、洗濯物を抱えてホテルを出る。ポークたまごおにぎりの店の向かいにあるパンケーキ屋には行列ができている。並んでいるのは8人で、誰もマスクをしていなかった。「金壺食堂」の隣の路地にあるコインランドリーで洗濯。タイマーを42分にセットして、「セブンイレブン」(新天地浮島店)でサンドウィッチとアイスコーヒーを買って、パラソル通りで食す。10時半には乾燥まで終わり、引き返す。市場本通りと市場中央通りの境目あたりに、グループが佇んでいる。ひとりはオリオンビールのTシャツを着て、座り込んでいる。その向こうにだるだるのお腹が見える。通りのTシャツ屋さんで買った服に着替えようと、それまで着ていたTシャツを脱いで裸になっている。Tシャツには「OSSAN」の文字がある。仮設市場の前には「れ」ナンバーの車が横付けされていた。頼むからマナーよく過ごしてくれよと願う。

 しらばくホテルで涼んだのち、12時半に外に出る。坂を下っていると、自転車をこいで上がってくる人とすれ違う。あれ、あの顔には見覚えがと思っていると、向こうもこちらに気づく。やっぱり、「ジュンク堂書店」のM店長だ。挨拶しながらすれ違う。今日は日曜日だから、よく利用する店はほとんど定休日だ。どうしようか。沖縄に来てからまだそばを食べていないことに気づき、「足立屋」の向かいにあるそば屋に足を運んだ。「足立屋」がここでオープンするきっかけになったのは、「このあたりにおいしいそば屋があるから」と訪れたときに、貸し店舗の看板が出ていたからだ。その看板はずっと目にしていたものの、一度も入ったことはなかった。

 自分の除菌ジェルを取り出して、手を除菌して、壁にかかっているメニューを眺める。先客の器のサイズを確認して、大盛りにしようかと考えていると、「はい、430円ね」とソーキそばの並盛りが出てくる。細麺で、あっさりした味だ。食後、昨日取材の約束をとりつけていたお店に立ち寄る。もうちょっと後の時間がよさそうだったので、15時に再訪することにする。仮設市場をのぞくと、ベンチで『るるぶ』を熟読する二人組がいた。魚屋の前には外国人の団体客の姿もあった。中国語で接客する店員さんに、ガイドらしき男性が「上海語も話せるんですか」と驚いている。

 14時40分、「ファミリーマート」(国際通り中央店)。書評する本の中から、書評に必要になりそうなページだけコピーをする。分厚い本だから、酒場で広げづらいので、コピーを取っておく。店の外ではおじさんたちがコーヒー泡盛を飲んでいる。部屋に本を置き、まちぐゎーを散策する。今日は朝からしずかだ。基地で働いている人たちなのか、アメリカの人たちをちらほら見かける。マスクはつけていなかった。15時、取材。45分ほどで終わり、タクシー(第一交通/車番0185)を拾って古島に向かってもらう。「ニコニコレンタカー」(那覇新都心店)でレンタカーを借りる。レンタカー、返却から2時間空けないと次の客に貸し出さないようにしているようだ(最初は16時からのレンタルで申し込んでいて、15時からに変更してもらおうと電話したところ、「手配した車両は14時まで前のお客様が利用される予定なので、16時からしかお貸しできないんです」と言われた)。

 ダッシュボードには「消毒済みです」と書かれた紙が置かれている。車両の操作を案内されるなかで、「エンジンかけるときも、エンジンを切るときも、ここを二回まわしてくださいね」と言われる。聞き流しそうになったけれど、「前に、二回まわさずにエンジンを切ったお客様がいて、バッテリーが上がってしまったことがあるので、お気をつけください」と言われて、不安になり、「二回まわすって、どういうことですか?」と聞き返す。どうやらカチッ、カチッと二段階まわさないとエンジンが停止しないことを伝えたいらしく、ああ、二段階ですね?と聞き返すと、「ああ、そうです、二段階です、そう、二段階。そうだ、二段階。二段階」とちょっと笑いながら店員さんが繰り返す。そんなにしっくりきたならよかったです、と心の中で思いながら、ナビをセットする。

 Bluetoothを接続して、埋火『diorama』を聴く。たしかに夏に似合うアルバムだ。冷房の効いた車内で聴いていると、とても心地よい。糸満方面に向かっていると、瀬底島に「わ」ナンバーと「れ」ナンバーが次々曲がってゆく。16時55分、閉館間際の「ひめゆり平和記念資料館」にたどり着く。まわりの土産物屋はどこも閉まっていた。館内に入り、亡くなった方の写真と、プロフィール、それに亡くなった場所が記された部屋でじっくり過ごす。南部撤退後、自宅がすぐ近くにあったにもかかわらず、最後まで学徒隊と行動をともにしていた子。喜屋武海岸で大波にさらわれた子。避難する同級生たちに「お先にどうぞ」と道を譲り、それが最後の姿になった子。「私は皇国少女だ、殺せ」と米兵に詰め寄り、眉間を撃たれて即死した子。何事にも生真面目な態度であたり、生徒からは「神様」と呼ばれていた平良先生。この先生と学徒たちが荒崎海岸に身を潜めていたところ、6月21日の正午ごろに米兵があらわれ、自動小銃を乱射した。そこで2名が即死する。銃声と悲鳴で騒然とするなか、先生と学徒は手榴弾で自決している。

 17時25分、閉館のアナウンスが流れたので外に出た。資料館には5人くらいだけ見学者の姿があった。米須(西)の交差点を右に曲がる。海抜33メートルと表示されている、海はすぐそこなのに、そんなに高いのか。畑は土が耕されてあざやかな色をしている、そこにホースで水を撒く姿があった。サトウキビが茂っている。海岸線に近づくと、路上駐車の列が見えてくる。サーフボードを手に海に出ていく姿がある。舗装されていない道に入り、採石場の前を通過すると、荒崎海岸の入り口にたどり着く。そこには何台かクルマが駐車されていた。ここにクルマが駐車されているのはかなり珍しいことだ。やはり今日が6月21日だからだろうか。長ズボンで着てよかったなと思いながら、海岸に出る。そこに人影はなかった。人はどこに行ったのだろう。不思議に思っていると、ぼくのあとから海岸にやってきた人はサーフボードを手にずんずん進んでいく。ひめゆり学徒隊散華の地の碑の前に、しばらくたたずむ。30分ほど過ごしたのち、喜屋武岬に移動し、海を眺めた。

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 19時過ぎに喜屋武岬を出て、那覇方面に引き返す。名城ビーチのあたりに、ホテルか何かが建設されているのが見えた。そういえば新しい市場がオープンしたはずだと、糸満公設市場に立ち寄ってみる。7月11日から本格的にオープンすると貼り紙が出ている。近くには駐車場も建設中で、ここが無料で利用できるのであればお客さんも足を運びやすくなるだろう。駐車場の向こうには「足立屋」があった。「足立屋」はツマミが各店舗ごとに特色があるはずなので、お酒は当然飲まないにしても、せっかくだから立ち寄ってみようか。中の様子を覗いてみると、カウンターはわりと埋まっていた。那覇と違って、ここでは外の客が入ってくることに抵抗を感じるお客さんも多いだろうから、入店はあきらめる。路地にはスナックがいくつもあり、あかりが灯っている。いつか入ってみたいなと、通りかかるたびに思っている。20時半にレンタカーを返却し、「ローソン」(おもろまち駅前店)で缶ビールを2本購入し、飲みながら歩く。21時近くに「うりずん」の覗くと、今日はカウンターが結構埋まっている。白百合を2合飲んでから帰途につく。

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6月20日

 11時45分にホテルを出た。まずは仮設市場を覗く。1階は閑古鳥が鳴いている。2階には昨日と同じく、全店舗を合わせて10組くらいの客入りだ。市場を出て、界隈を歩く。朝に羽田を出ても、ようやくこの時間に到着するぐらいだから当たり前かもしれないけれど、歩いているのは地元の人が多いように感じる。ちびっこを5人連れた女性が歩いている。こどもたちは市場中央通りで土産物店で足を止め、楽しそうに佃煮を試食している。市場本通りにある化粧品店では、中学生くらいの女の子がアナスイの広告を食い入るように見つめていた。地元の人の中にも、このタイミングで初めてまちぐゎーを訪れる人もいるのだなと思う。

 「上原パーラー」でネパールカレーとゴーヤのお弁当を買って、パラソル通りで平らげたのち、原稿を書く。後ろから何やら打ち合わせしている声が聴こえてきたので振り返ると、ロケ隊がいた。パソコンを広げていたら、撮りたい画にならないだろうから、移動してあげたほうがよいかもなと思っているうちに、ロケ隊は移動してゆき、遠くからハキハキした声でレポートする声が聴こえてくる。どうやら八軒通りでロケをやっているようだ。パラソル通りに面したお店の方達も、「何事だろう」と顔を覗かせている。アイスコーヒーのカップを手にした男女が通りかかる。「ここ、いいね。日本じゃなくて、どっか別の国みたい」と女性がつぶやく。しばらく原稿を書いていると、昨日は隣のテーブルにいた男性が、ぼくと同じテーブルに座る。発泡酒を2本手にしているのかと思っていたけれど、視界の端で確認すると、1本は発泡酒、もう1本はトマトジュースだ。口の中に違和感があるのか、足元に唾を2度落とす。明日からは鞄を地面におくのはよそうと思う。今は足元にトートバッグを置いている。

 14時30分、企画「R」の原稿を書き終える。やっと書き終えた! 推敲用に、セブンイレブンでプリントアウト。店内で地元っぽい女の子二人組がなにやら作業をしている。どうやらここで販売されているミニ扇風機を買ったらしく、パッケージから取り出し、電池をセットしているところだ。「市場の古本屋ウララ」に立ち寄り、「BOOKSじのん」に行くにはどのバス停で降りたらいいんでしたっけ、と尋ねる。レンタカーで何度か行ったことはあるけれど、バスで行くのは初めてだ。「皆さん、行くと大体『ついつい買い過ぎた』と言って帰ってくる」とUさん。

 バス停に行く前にと、もう一度仮設市場に立ち寄る。2階に上がると、「道頓堀」の佐和美さんの姿があったのでご挨拶。今日は何されてたんですかと尋ねられたので、人の流れを見ておこうとぐるぐる歩いてましたと答えると、「今日はこのあたりは駄目ですよ、皆さんここに行ってるんじゃないですか」と、沖縄タイムスを広げて見せてくれる。豊見城市に「イーアス」という商業施設がオープンするという記事が出ている。佐和美さんは新聞をテーブルに置き、何も頼まなくていいから、座って読んでくださいと言う。せっかくだからと生ビールを頼んだ。最近は新聞を置くようになったと佐和美さんが言う。今までは忙しくて新聞を広げてる暇なんかなかったけど、最近は新聞を読む時間ができたから、と。それに、お客さんに新聞でも読みながらゆっくりしてもらったほうが、お客さんが入ってくれるから、と。たしかに、ここ二日間、お客さんは一つのお店に集中する傾向があった。前はお昼時になれば満席で、いかに回転をよくするかが大事だったはずで、たった一年でこんなに変わるとは想像していなかった。

 ビールを飲んだところでお店を出て、国際通りでバスを待つ。カメラを提げた男性と、ブルーシールのアイスクリームを食べながら歩く女性が通り過ぎてゆく。きっと「沖縄は感染者が出ていないから安心」と、開放的な気分になっているのだろう。そうした観光客に地元の人たちが向けるであろうまなざしのことを考える(しかし、ぼくはここ数日ずっと、通りかかる人の服装や佇まいから「観光客」「地元」とに二分して考えているけれど、このまなざしもまた差別的だと言える。「観光客」と「地元」とを、それらしい類型に当てはめて考えているのだから)。15時10分頃になって、90番具志川行きのバスはやってきた。国際通りにのぼりが出ているのを、あらためて見る。昨日も視界に入っていたけれど、さほど気に留めずに見過ごしていたものだ。その存在に気づいたのは、さっき読んだ沖縄タイムスに「住民生活と観光両立へ」という記事が出ていて、その隣に「国際通り『安全』PR」と題した写真入りの記事を見つけたからだ。さまざまな標語が書かれたのぼりが国際通りに張り出され、新聞に掲載されたのぼりには「空高く風吹き抜ける/国際通りは/野外商店街です」と書かれている。ここで「野外」と強調されていることに、すぐ近くにあるアーケード商店街との対比が込められているように感じる。かつては国際通りもアーケード化を目指していたのに、それが叶わなかったのだということを思い出す。揃いのジャージを着た女の子たちが、ミニ扇風機を持って国際通りを歩いているのが見えた。これまで観光客が使っているのはよく見かけていたけれど、沖縄の子たちのあいだで流行り始めているのだろうか。

 広坂団地入口でバスを降りる。広々とした公園の真ん中にガジュマルがあって、家族連れがブルーシートを広げている。男の子ふたりは虫取り網を手に歩き、女の子はガジュマルに登ってしがみついている。「BOOKSじのん」に立ち寄り、あれこれ本を手に取る。2022年の『cocoon』までに必要になるはずだと、値段のことはまったく気にせず選んだ。会計は24200円だ。バス停まで引き返していると、ちょうどバスが通り過ぎてしまう。炎天下でバスを待つのはつらく、お金を使ったせいで却って豪勢な気持ちになって、タクシー(松島交通の車番16)で開南まで引き返す。ほんの少しだけではあるけれど、観光客が戻りつつある。Uさんのお店を通りかかったとき、値段を見ずに買ったら、なかなかの値段になりましたと伝えると、「古本って、値段を見ませんか」ともっともなことを言われてしまう。

 「足立屋」の前を通りかかると、外の立ち飲みエリアが空いていたので、せんべろセットを注文。今日はこないだ会えなかった店員さんたちが店番をしている。「いやー、大変でした」と店員さん。20日間くらい臨時休業して、ようやく再開したものの、やはり以前ほどの売り上げには戻っていないようだ。「三密の象徴みたいな場所ですからね」と店員さんは苦笑する。「でも、こっからV字回復目指して頑張りますよ」と。何が一番利益率が高いだろう。せめて売り上げに貢献しようとメニューを眺めてみても、せんべろの店だけあってどれも手頃な値段だ。ここのメニューの中では高価なきんきの焼き物を注文する。

 18時、ホテルに引き返す。企画「R」の原稿に少し手を加え、グループLINEに送信。20時、「セブンイレブン」(新天地浮島店)でオリオンビールを買って、飲みながら栄町市場まで歩く。今日の混雑ぶりはどうだろうと、おそるおそる扉を開けると、店員のAさんが「覗き見禁止よ!」と笑う。カウンターの端っこが空いていたので、そこに座らせてもらって、残波の水割りを飲みながら、ゴーヤの黒糖酢漬けとミミガーとハツの刺身をつまむ。「東大」のおでんと焼きてびちがテイクアウトできるという話が少しだけ広まってきたのか、持ち帰り用に焼きてびちをいくつか作っている。小一時間ほど過ごしたところで、Aさんのほうに視線を向けると、何も言わないでも「はーい、はしもっちゃん、おでん食べまーす」とAさんが言う。ここは日・月が定休日なので、今回の滞在では今日が食べおさめだ。次に食べられるのはいつになるだろう。いつもケータイで撮影しているごんたのことも、デジタルカメラで撮っておく。

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