3月23日

 昨日のうちに20日の延長戦のテープ起こしは終えていたので、さっそく構成に取り掛かる。5月売りの号に掲載予定で、そうなるとゴールデンウィーク進行となるため、早急に仕上げる必要がある。6時間話したところから、文字に起こしたのは3時間ぶんだけれども、それでもかなりの量がある。どうやってまとめるか、唸りながら仕事を進める。17時過ぎに家を出て、まずは秋葉原PCR検査を受けにいく。「まずは」というのは、今日はお台場のライブハウスでライブを観る予定があったからで、チケットを買っていたし楽しみにしていたものの、家を出てみるとどうにも体が重く感じる。構成仕事のことが気にかかっているのと、移動続きで疲れが溜まっている。お台場まで1時間かかることを考えると、今日はライブを楽しめる体調ではない気がして、PCR検査を受けたあと、成城石井で惣菜を買って帰途に着く。

3月22日

 テレビをつけると、「電力需給逼迫警報」という聞きなれない警報が出ていた。ニュースではエアコンの設定温度を下げるなど、節電の協力を呼びかけている。4キロだけジョギングする。半袖で走れるのが嬉しいけれど、ジョギング用の鞄(?)が必要だ。今日はずっとスマホを手に持って走っていた。こうして過ごしていると、「エアコンの設定温度を20度に」という話をリアリティを持って受け止めるのがどうしても難しくなる。スタバでアイスコーヒーをテイクアウトし、20日の対談のテープ起こしに取り掛かる。ニュース速報が流れ、1ドル120円台になったとテロップが表示される。上原パーラーの弁当を空港で平げ、昼過ぎの飛行機で帰京する。機内でもずっとテープ起こしを進めていた。成田空港に到着すると、「出発地と到着地の寒暖差は20度以上となっております。お風邪など引かれませんように」とアナウンスが流れる。今回はコートを持ってきておらず、戦々恐々としていたけれど、気を張っていたせいかそこまで寒くは感じなかった。

3月21日

 朝、国際通りスターバックスコーヒーでホットコーヒーとアンバターサンドをテイクアウト。朝からRK新報の書く。それを書き終えると、WEB「R」から依頼されていた原稿を練る。昼過ぎ、RK新報の原稿をコンビニで出力し、お話を聞かせてもらった方のところに持っていく。一瞬掲載を断られそうになり、動揺したけれど、原稿の内容を読んで「まあ、これなら」と言ってもらえてホッとする。過度に注目が集まることを避けるという方は、少なからずいらっしゃる。最終回なので、お店の名前が大きな見出しにならないようにできないか相談してみます、と伝えておく。午後は「R」の原稿を書く。

3月20日

 昨日の日記に書きそびれていたけれど、名護から那覇に引き返す道中聴いていたのは、ビル・エヴァンスの『New Jazz Conception』だった。これは数日前、朝にコーヒーを淹れて仕事に取り掛かろうとしたときに、なんとなく「今日はジャズでも聴いてみるか」とアップルミュージックで「ジャズ」と検索し、入門的なプレイリストを開き、そこに並んでいる名前を見比べて、この人にしようとビル・エヴァンスで再度検索し、一番古いアルバムとして出てきたものを何となく再生していた。朝だからジャズがいいんじゃないかと、それぐらいの安直な気持ちで再生して、最初はただBGMとして流していただけだった。僕はジャズにほとんど触れてこなかったので(例外として、向井さんが言及していたり、ライブの開場中に流していたものは断片的に聴いている)、ジャズの何たるかも、ジャズが何であるかもわからず、このアルバムも特にピンときたわけではなかったのだけれども、「この人生はジャズと無縁のまま終わるのかなあ」と思いながら、何度か繰り返し聴いていた。1曲目の始まり方が格好良かったのもある。こんなふうに始まる1曲目があるのかと新鮮な気持ちになった。聴いているうちに何かわかるかもしれないと思って、朝にちょこちょこ再生していた。それが、ドライブしながら聴いていると、アクセルを踏んでいないほうの足をリズムに合わせて動かしている自分に気づき、あれ、ちょっと馴染んできているのかもしれないという気がした。気分が揺れ動くように、音が動く。こういう音楽で優雅に踊れるような人間だったら楽しいだろうなと夢想する。自分が踊っても熊がよたよた動いているようにしかならない。

 この日は朝から、トークイベントに向けた仕込みをしていた。どんなことを話そうと思っているのかをある程度まとめておき、ゲストにお迎えするUさんにメッセージで送っておく。そこからさらに、具体的な流れを考える。トークイベントは、後日某ウェブサイトに採録してもらうことになっている。トークイベントだけならさほど手間はかからないのだけれども、それとは別に、トークイベント終了後にUさんとどこかで延長戦のようにトークをして、そちらはまた別の媒体に掲載することになっている。となると、話が重ならないように、別の筋も考えなければならない。それをどのように振り分けるかが悩ましく、ぎりぎりまでかかってようやくまとめ終える。

 14時50分にジュンク堂書店に到着してみると、会場となる地下のベンチには誰も聴衆が座っていなくて、Uさんだけが座ってメモに視線を落としているところだ。よくみると、荷物を置かれている席が2、3はあるけれど、もしかしたら参加者は数人になってしまうのかもしれない。だとしたら、わりとコアな話をしないと満足してもらえないかもしれないな――と算段していたのだが、開始時刻が近づくと来場者が増え、客席はほとんど埋まったのでホッとする。トークイベント自体に緊張することはなくなったけれど、冒頭の3分くらい、ICレコーダーのスイッチを入れていなかったことに気づき、そこで一度動揺したせいでずっと忙しない心地がした。

「今日のお客さんは、どんな人たちだったんでしょうね?」Uさんとそんなことをぼとぼとしゃべりながら沖映通りを歩き、なるべく空いているお店(かつオープンエアーな場所で過ごせるお店)を探して歩き、17時、サンライズなはに最近オープンした酒場に入店。ビールで乾杯し、トークの延長戦を始める。途中でスーツケースを引いた若者グループが通りかかり、小さな扉の前にしばらく佇んでいた。このあたりでスーツケースを引いたグループ客というのは珍しく(ゲストハウスはちらほらあるけど、そのあたりの宿泊客はあまりスーツケースを引いている印象がない)、しばらく眺めていると、郵便受けから鍵を取り出し、ぞろぞろ中に入っていく。特に何の看板も出ていないので不思議に思っていたけれど、あとで検索してみると民泊施設になっているらしかった。途中で河岸を変えて、23時まで話し込んだ。誰かと言葉を交わすことに存在意義を見出している節もあるので、満ち足りた心地で宿に引き返す。

3月19日

 6時過ぎに目を覚まし、ジョギングに出る。対岸に浮かぶ水納島と、伊江島を眺める。また、本部半島の先のほう、美ら海水族館がある方面も見えている。3キロほど走ってみると、こんどは自分が泊まっている宿のあたりが遠くに見える。さっきまで自分はあそこにいた。そして、一昨日の晩はあの島にして、今日はこれからあの島に行く予定だ――そんなふうに考えていると、自分は一体何をやっているんだろうかという気持ちになる。ひとつの場所に佇んでいると、見えない風景があって、その風景を見ようと移動する。そこで「さっきまで自分はあそこに立っていたのだ」と確認して、また移動して、「ああ、さっきまでいた場所はあそこで、その前にいた場所はあそこだ」と確認する。それが何になるのかはわからないけれど、そうやって乱反射するように移動しないとキャッチできない何かがあるのだと、どこかで思っているのだろう。

 ジョギングを終えて、洗濯機を回し、慌ただしくコインランドリーで乾燥させ、今帰仁に向かう。昨日はAランチで満腹になっていたので食べられなかった「リマタピオカサンド」のタピオカサンド、どうしても食べておきたかったものの、船の時間の都合もあるので今日もイートインは難しそうだったので、開店時刻の8時半に作っておいてもらえないかとお願いしてあった。8時半にタピオカサンドを受け取り、渡久地港へと急ぐ。8時51分、出航時刻の9分前だから大丈夫だろうと安心していたら、なぜだかシャッターが降りている。風もそんなに強くないのにと思っていたら、今日は軽石漂着の影響で全便欠航だと知らされる。

 それならもう、午前のうちに那覇まで――と思い浮かべたところで、クリーニングに出していたシャツのことを思い出す。少なくとも昼過ぎまではこのあたりで過ごすしかない。何をしようかと思い浮かべたときに、最初に浮かんだのは伊江島だった。おととい出かけたばかりだけど、レンタサイクルを借りて島内を巡っているとき、一眼レフを持ち運ぶのは億劫だったこともあり、ケータイでしか写真を撮っていなかった(夕方以降は一眼レフでも撮影していたけれど)。もしも今後伊江島について何か書く場合に、そこで目にした風景の写真も必要になるかもしれず、もう今日のうちに撮りに行くことに決める。11時の船に乗り、11時半に到着して、レンタサイクルを1時間だけ走らせ、13時の船で本部新港まで帰ってくる。

 本部町営市場でコーヒーを買って、のんびり名護に向かってみる。クリーニング店を覗くと、もうシャツは仕上がっていた。受け取りながら、少し雑談する。創業60年余りと記されており、どうして閉店されることにしたんですかと尋ねると、まだB円が流通していた時代からやってきたんだけど、もう年だから。店を畳むのにも体力がいるから、元気があるうちに閉めることにしたんですと、お店のお父さんが言う。しわくちゃだったシャツはきれいに仕上がっている。このシャツを着るたびに思い出しそうな気がして、図々しいお願いだとは思いながらも、名刺を渡し、作業されているところを写真に撮らせてもらえませんかとお願いする。

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3月18日

 夜中には嵐となり、コンテナハウスのような宿には雨音が猛烈に響いていた。が、すぐに二度寝する。夜が明けても嵐のように雨が降り続けており、傘もなにも持っていないのでタクシーを呼び、朝8時の便を目指して伊江港へ。売店を眺めていると、「おう、おはよう」と声をかけられ、ここで誰かに話しかけられることなんてあったっけと振り返ると寿司屋の大将だ。これからこどもの入学金を払いに行くのだという。昨日のうちに自分はライターだと身分を伝えてあったものの、そのときは名刺を持っていなかったので、「今日こそ名刺交換だな」と大将に言われ、名刺を交換する。せっかくだからと、『水納島再訪』もお渡しする。これで伊江島にも1冊は届いたことになる。

 今日は10メートルを超える風が吹いており、水納島の航路は当然のように全便欠航となっていた。伊江航路はびくともせずに運航している。船内の売店でおにぎりとホットコーヒーを買う。おにぎりの味は、せっかくだから「みそ」を選んだ。フェリーには意外と若者のグループ客も乗船していて、同じく売店金ちゃんヌードルを買って平らげながら談笑していて、無敵だなあと思う。驚いたのは、若者グループの多くが駐車場ではなく、バス乗り場に向かっていたことで、少し前に「免許を取得する若者が減り、レンタカーがないと不便な沖縄は敬遠され始めている」なんてニュースも出ていたけれど、ああ、本当だったんだという感じがする。だからこそ那覇–本部も高速船を就航させたのだろう。

 当初の予定では水納島に渡るつもりだったけれど、欠航では手も足も出ない。ただ、明日は船が出そうな予報だから、水納島には明日日帰りで向かうことにする。とすると、今日はぽかんと一日空いている。飛行機から見えたことを思い出し、辺野古まで車を走らせる。テントの下にはまばらではあるが座り込んでいる人がいて、ゲートには後ろで手を組んだ姿勢を保ち続けている警備員がずらりと並んでいる。久志郵便局の近くに車を停めて、ヘビが出ないかと注意しながら小さな山を分け入り、展望台に出る。ここを訪れるのは3年ぶりで、前回は2019年1月の終わりにA.IさんやY.Fさんと一緒だった(あのときは『Iさん』に掲載される写真を撮影したあとだった)。あのときと違って、重機が稼働する音が海から響いている。ただ、前回訪れたときにはもう土砂の投入は始まっていたはずだから、あのときは偶然作業がストップしている日だったのか、それとも自分の記憶から音が消えてしまっただけなのか。ここからみても、思いのほか埋め立ては進んでいる。Googleマップを開き、そこが灯台の跡地だったと知ってびっくりする(もしかしたら最初に訪れたときにも灯台跡地だと説明を受けていたのかもしれないけれど、その段階ではまだ灯台ということはキーワードとして引っかかるものになっていなかった)。

 せっかくだからと、辺野古漁港にも行ってみる。2015年、それこそ水納島滞在を終えた日にここを訪れている。皆でスカシカシパンを探して歩いたときのことを思い出す。あの日は洋上に抗議のボートが浮かんでいたし、もっと先まで砂浜を歩くことができた。今はもう、堤防のあたりまでしか進めなくなっている。堤防は海辺の岩礁にある神社へと続いている。漁を終えて着替えている方に、「あそこの神社まで行ってみても大丈夫ですかね?」と確認して、そこまで歩く。フェンスの向こうにはガードマンがひとりいて、こちらを警戒している。しばらくして振り返ると、ガードマンがふたりに増えていた。

 再び車を走らせ、名護へ。記事を書くために、復帰当時の琉球新報が読みたくなって、名護の図書館を訪れてみると、なんと縮刷版ではなく当時の紙を製本して保存されている。資料として複写したいものの、半世紀前の紙は脆くなっており、また製本されていることもあってコピー機に載せるのが大変そうだ。容易にびりっと破れてしまいそう。不安になって、カウンターのスタッフの方に相談し、お金を払いたくないというわけではないのだけれど、破損せずに複写する勇気がなく、またノドのあたりもしっかり見えるようにしたいので、写真で撮影する形にさせてもらえないかと尋ねてみる。上司の方に掛け合ってくれたものの、「破損した場合でも、責任をとってくれとは言わないので、コピー機で」との返事だった。一日分の新聞をコピー機に載せるならともかく、一ヶ月分を綴じたものをコピー機の上にひっくり返すのは神経がすり減ってしまうので、ほんの数枚だけにとどめておく。

 図書館を出て、クリーニング店を探す。最初に向かったお店はもう閉店してしまっていて、中がからっぽになっていた。次に向かったお店は、営業していたものの、もうすぐ閉店すると貼り紙が出ている。沖縄入りした日に着ていた長袖シャツ――この春買ったばかりのもの――を、日曜日のトークイベントで着るつもりで、ちょっと皺が目立ちやすい感じなので、クリーニングに出す。差し出したシャツを見て、「作業着?」と店主が言う。いや、普通のシャツです、と言葉を返す。たぶんこのとき自分の心の中には、「いやいや、ルミネで買ったシャツですよ、わりとおしゃれなやつなんですよ」と、言い返したい気持ちがあったように思う。もっと正直に書けば、「わかってもらえないかもしれないですけど」と、思っていた気がする。僕の言葉を聞いた店主が「なんでこんなくしゃくしゃになってるの」と言うのを聞いて、消え入りたい気持ちをこらえつつ、「旅行で来てまして、鞄に押し込んでしまってて……」と弁明する。明日の夕方までに仕上げてもらう約束をして、料金を払ってお店を出る。

ドライブインレストランハワイ」でAランチをぺろりと平らげ、本部町営市場の「みちくさ珈琲」へ。店内の営業を再開されている。ホットコーヒーをいただきながら少しお話しして、『水納島再訪』を追加で納品する。今帰仁まで車を走らせ、「リマタピオカサンド」。先日、舞台作品に向けた鼎談企画でお話を伺った――そしてM&Gの皆と一緒に会ったことがある(ものの直接言葉を交わしたことのない)Aさんのお店だ。飲み物だけ注文すると、「もしかして、、橋本さんですか?」とAさんが気づいてくれる。こないだまで上演されていた作品について、それにM&Gについて、あれこれ話す。Aさんはフィッシュマンズのマネージメントをされていた方でもあって、制作者目線での話もあり、しみじみ聞く。

 16時半に本部まで引き返し、町立博物館で今月から始まった『1945年 本部』という写真展を観る。1945年7月に渡久地に配備され、偵察任務にあたっていた第91上空写真偵察航空団の兵士が撮影した写真が残っており、それを発見したアメリカの写真蒐集家の方が本部町に寄贈した写真を使った展示だ。偵察航空団は日本がポツダム宣言を受諾したことで役割を終えて、10月には撤収しているので、展示されている写真はわずか4ヶ月のあいだに撮影されたものということになる。そこには谷茶の哨戒魚雷艇(patrol torpedo boat、通称「PT」の)基地を空撮した写真もある。渡久地港のすぐ近く、谷茶公園周辺に「PT」があったという話は字誌などにも書かれてあるけれど、その写真を見たのは初めてで興奮する。

 印象深かったのは「ランドリーガールズ」たちの写真だった。米軍キャンプには、日本人の若い女性たちが「ランドリーガールズ」として働いていたらしく、彼女たちを撮影した写真も残されている。その写真が撮影されたのは沖縄で組織的な戦闘が終了してすぐの時期から、その4ヶ月後だ。本部町でも激しい戦闘が繰り広げられたにもかかわらず、そこに写っている女性たちは皆笑顔だ。その笑顔のまぶしさに驚く。また、おそらく地元の集落に残っていたのであろう人たちの写真もあり、彼らもまたわりあい笑顔で写真に写っている(しかし、この時期は住民は収容所に連れて行かれていたはずだけれども、残り続けていた人もいるのだろうか)。もちろん、写真に切り取られた一瞬だけで何かを判断することはできないし、こどもたちはわりと不安そうに写っているのだけれど、ランドリーガールズの笑顔があまりにも印象に残った。

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