6月2日(sat) 昨晩は坪内さんと能町みね子さんによるトークライブ「私を相撲に連れてって」を聴きに新宿ロフトプラスワンに出かけていた。原稿を書き上げたばかりだという開放感のせいか、会場につくとすぐに生ビールを注文し、いっきに飲み干した。その後も鏡月の水割り、ハイボールハイボールとじゃんじゃか注文してしまい、会計は5千円を超えていた。チケット代は別で、だ。ヨロヨロと帰宅し、朝になってツイッターを開いてみると、憤ったツイートをした形跡が残っている。あわわわ。書いたことを消すのはよくないと思いながらも、違う人に誤解される可能性もあるので消去したが、何にせよ気まずい……。どうしよう、どんな顔して会場に行けばいいと思う?と知人に相談してみても、「知らないよ、だって昨日は『絶対行かない、100万払ってもいいから行かない』とか言ってたじゃん」と返される。そんなことを言った記憶がないが、そこまで酔っ払っていたのだろうか? 「100万円払ってもいいから」って、貯金なんてほとんどないというのに。午後3時半、清澄白河SNACヘ。会場が「道行く人が二度見する感じになってる」とは聞いていたが、その予想を上回っている。入り口にある廂も扉も取り払われ、ぼろぼろになった自動車がSNACに突っ込んでいる。何も知らずに通りかかった人は事故が起きたんだと勘違いしてしまうだろう(しかし、夜のあいだはどうやってシャッターを閉めているのだろうか?)。受付で当日パンフレットをいただき、入り口近くの席に座る。セミの鳴き声が聴こえる。蚊取り線香の香りが漂う。半ズボンみたいな格好で着て間違いはなかった。16時、マームと誰かさん「飴屋法水さんとジプシー」開演。僕はこのあと、昼公演と夜公演のあいだに写真撮影を頼まれていることもあって、ずっとアングルのことを考えていた。一体、この公演はどこから撮影されるべきなのか、と。そんなことばかり考えていたので、いつもと違ってあまり作品自体について語ることばが浮かんでこない。ただ、会場で『hb paper』(002)を販売してもらっている奇妙なシンクロニシティに色々考える。販売してもらっているのはもちろん巻頭にマームとジプシーの藤田さんのインタビューを掲載しているからだが、この号の巻末に僕が書いているのは4月の自動車事故から思い浮かんだあれこれについて、だ。今回のマームと誰かさんで描かれる作品も、モチーフは自動車事故である。これは別に、「関心を共有しているぜ!」とか言い立てたくて書いているわけではなくて、むしろ同じニュースなり何なりに触れていても、それをこうして作品として立ち上げるのが作家なのだなと(こうして文字にするとごく当たり前の事実に)打ちのめされていた。17時に終演。少し休憩をはさんで、18時から稽古が始まる。その会場で写真を撮影していく。僕は悩んだ挙げ句、脚立を出してもらって上から見下ろすアングルで撮影したりしていた。稽古が終わり、つまり撮影も終わり、「お疲れさまでした」と半蔵門線に乗り込んだのだが、どうも撮り足りない気がする。日が暮れたあとの様子も撮っておきたいし、お客さんが入っている状態での会場を撮っておきたいし、会場の外の様子も収めておきたい――と、頼まれてもいないのに記録への欲が沸き起こり、清澄白河に引き返した。許可をもらって、シャッター音が邪魔をしないよう会場の外からソッと撮影をした。終演後はすぐに高田馬場まで戻り、自宅近くにある酒場で知人と酒を呑んだ。「どっかで打ち上げやってるんじゃない? そっち行かなくてよかったの?」と言われたが、あれだけの作品を見せられると、アホみたいな言葉しか言えそうもない。この作品には「未来」という言葉が登場する。僕はまだ「未来」という言葉にうまくイメージを結ぶことはできない。それは僕だけのことではないだろう。ただ何にせよ、この作品と、この作家たちと同時代に生きているというのは幸福なことだと思った。 
 
6月4日(sun) 午後、神保町へ。日曜日に空いている食事処を見つけられず、結局マクドナルドで済ませてしまった。食後、「ジャニス」へ。今日は前回借りそびれた高田渡岡林信康の数枚、それに吉田拓郎細野晴臣のソロやティンパンアレー、エイプリルフールなんかを借りた。ここから半蔵門線に乗れば、一本で清澄白河にたどり着く。SNACに行ってしまえば、扉がぶち抜いてあるので、チケットがなくても外から様子を伺える。ただ、そうやって人が集まってしまうと近所から苦情が出たり警察が来たりしてしまうかもしれないので止めにして、アパートまで帰ってくる。夕方、下北沢にあるスーパー「オオゼキ」で知人と待ち合わせ。ライブハウスを目指して歩いていると、ZAZEN BOYS の吉兼さんが歩いている。「今日の会場、どっちやったっけ?」と訊ねられる。そう、今日は「下北沢ERA」でskillkillsとZAZEN BOYSの対バンだ。skillkills、年始に「nest」で観た時「いつかZAZENと対バンすればいいのに」と思ったが、わりとすぐに実現された。どちらのバンドにも奇妙なリズムがあり、頭をドラム缶で殴られるような重低音を響かせている。19時、先にskillkillsのライブが始まる。やはりZAZEN BOYSのファンが多いのか、フロアの反応は少し重い。もうちょっと彼らの音を聴いてあげてもいいんじゃないかという気がする。ただ――前身となるバンドがあるにしても1stアルバムを出したばかりの彼らに言うのも酷かもしれないが、もっと無意味なリリックに突き進むなり、声の出し方を変えるなり、もう少しヴォーカルに引っ掛かりがないと物足りなさは残る。50分ほどでskillkillsは終了。一度ステージと客席のあいだに幕が降り、セットチェンジ。20分後、特にSEが流れることもなく幕が上がると、「MATSURI STUDIOからやってまいりました、ZAZEN BOYS」とシンプルな前口上をはさんで1曲目の「RIFF MAN」が始まる。僕がZAZEN BOYSを観るのは昨年末のツアー以来だ。彼らはカナダから帰国後初のステージだが、特にそのことについては触れられないままライブは進んでいく。僕がハッとしたのは、4曲目に演奏された「ハートブレイク」という新曲だ。歌詞は僕が聴き取った範囲なので正確ではないが、最近のZAZEN BOYSにしては疾走感のあるメロディに載せて歌われる「何か無性にささくれだってイライラしてる」「何でオレはこんなことをしている? いつまで経っても やめられないで」というフレーズにハッとさせられる(ここの「ハッとさせられる」という言葉を書くのに15分くらい掛かった、本当はもっとふさわしい言葉があるはずだと思う)。続いて演奏されるのは「気がつけばミッドナイト」(?)という曲で、こちらもまだ音源化されていない曲だ。この曲は昨年末のツアーで初めて披露された曲だが、僕はてっきり、あのツアー以降は披露されないものだと思っていた(たまにツアーで1度披露されたきり音源化されない楽曲がある、「1989」「イレイザーヘッド」という曲も数年前のツアーでやったきりだ)が、この曲は演奏され続けるのか――なぜ僕が「もうやらないだろうな」と思ったのかというと、「気がつけばミッドナイト」「涙を拭きなよ」「飲みましょうよ朝まで」というフレーズが多用される曲で、あえてネガティブな言い方をすれば「せっかくツアーをやるんだから」と間に合わせで作った曲なのかと思っていたからである。歌詞は少し変化していた(と思う)。少なくとも「気がつけば 知らねえよ」「飲みなよ 吐くまで」「飛びましょうよ 飛びましょうよ 浮きましょうよ 天まで」といった歌詞は昨年末にはなかったはずだ。あまりにも奇妙な歌詞だ、ほとんど酩酊して、今が何時なのかもわからなくなってきているような気分の――と、思わず背伸びをして向井秀徳の表情を確かめようとしていると、「気がつけば 朝焼け」「拭きなさい 涙を」「乗りなさいよ 始発に」と続き、「気がつけば 朝焼け 気がつけば 夕暮れ 気がつけば ミッドナイト」と曲が締めくくられる。ふと、あれはいつだったか、向井さんとどこかの酒場で飲んでいるときに聞いた話が思い出される。たしかあれは、向井さんが初めて弾き語りで「omoide in my head」を披露した時期だったはずだ。「あの曲だけはね、ほんとにバンドじゃないとやれんなと思ってた」と向井さんは話していた。「ただね、スタジオで一人で何の気なしに歌ったのよ、そうしたら、歌詞がいまだに自分の中で白く眩しかったのよ。いまだに白く眩しいんだ。白々しい電車の中で、思わず『あー!』となる。脳の半分ぐらいが別世界に飛んでいっている。目の前では誰かが日常生活を送っている――それは今もまったく同じである、と」。そんな会話が、「気がつけばミッドナイト」という歌詞に重なってくる。「omoide in my head」の歌詞はこう始まる。「ねむらずに朝が来て ふらつきながら帰る 誰もいない電車の中を 朝日が白昼夢色に染める」。この歌詞と、先ほどの「気がつけばミッドナイト」の歌詞は、やはりどこか繋がっている。「それは今もまったく同じである」、いや、今もまったく同じではあるが、若々しさにあふれる「omoide in my head」に比べて、「気がつけばミッドナイト」は酒の飲み過ぎで異次元に飛んでいる気配すら感じる。「omoide in my head」('97年)は若者が皆で飲んだあとの朝という印象だが、「気がつけば〜」はもっとこう――と考えているうちに、次の新曲が始まっている。これも昨年末のツアーで初めて披露された曲だ。タイトルは不明だが、「パンツ一丁で踊れ」というフレーズが繰り返される。「サイボーグのおばけ 今夜の晩酌のお相手」というフレーズも聴こえてくる。そうそう、この新曲たちは――たまに街角で、話しかけてはイケナイおじさんを見かける。空に向かって怒鳴っているようなタイプのおじさんだ。これは決してディスっているわけではないので誤解して欲しくはないのだが、ちょっとこれまでとは一段違った境地に達しているような気がする。これらの新曲に続いて「WHISKY & UNUBORE」という吞んだくれの曲が続くと、いよいよその気配は高まる。ここで日記の冒頭に話が戻るが、最近、高田渡を聴いている。高田渡はずっと謎の存在だった。僕が知った頃にはもうおじいちゃんだったが(しかし、知った頃にはまだ50歳くらいだったはずだが)、いつ高田渡はあの境地に達していたのだろうかと疑問に思っていたのだ。ようするに、最近の僕は、“アーティスト”がどのようにして年を重ねていくのかに興味が沸いてきている。若い頃、出始めの“アーティスト”は文字にされたり語られたり機会が多い。名人芸の域に達した人もそうだろう。だが、その中間にいる中堅どころの人たちは文字にされにくい気がする。それで高田渡を聴いてみたが――デビューから間もない音源を聴いてみると、その時点ですでにおじいちゃんのような風格を漂わせた声をしていた。話がそれたが、とにかくいつも酒と歌のなかで揺らめいている――そんな人が今生きていてくれたらどんなに良かっただろうかと、僕はこの1年と2ヶ月くらいのあいだ、ずっと考えていた。だが、亡くなった人を惜しまなくても、僕には向井秀徳がいる。昨日観た作品も本当に素晴らしかった。なんて幸福な週末だろう。最後に僕の好きな「crazy days crazy feeling」*1のイントロが流れると、涙が溢れてきた。会場の一番後ろの隅に陣取っておいてよかった。

*1:この曲は'05年の曲だ。聴いていると、別に狂騒の日々は昨日今日始まったものではないのだと、急に思い至った。いっときはあまりライブで披露されなくなっていたこの曲が今演奏されることには、とても強い響きがある……というのは僕の妄想だとは思う、思うんだけど、どうしてもそう聴こえてしまう。