3月13日

 日付が変わる頃にいちど目を覚ます。えらい時間に眠り、えらい時間に起きてしまった。ケータイをぽちぽち触り、平民金子さんの日記を読むと、引き続き桐野夏生『ハピネス』の面白さについて書かれており、ただし解説文が酷く、自分が作者ならこんな解説は書かれたくないし、こんな批評は嫌いだとまであるので、かえって解説に興味を惹かれ、検索してみると電子書籍版が出ていたので即座に購入する。電子書籍版は文庫化から数年後に出たらしく、文庫を底本としているはずなのに、そこに解説は含まれていなかった。とりあえず文庫本もぽちっと注文ボタンを押して、YouTubeでナイツの漫才を聴きながら再び眠りにつく。

 6時過ぎに起きて、昨日買っておいた「ベーカリーミウラ」の食パンを焼き、目玉焼きをのっけて頬張る。コーヒーを淹れて、洗濯物を干し、『ハピネス』を読む。心の中がきゅうっとなる。登場人物たちはタワマンのママ友たちという設定で、そこだけ切り取ると僕の生活とはなんら重なるところはないのだけれど、自分が生活の中でなかったことのようにしている感情が目の前に置かれるようでもあり、少し息苦しくなるが、読むのをやめられず。洗濯物の乾き具合を確かめにベランダに出たり、そこで花粉を払ったりしているあいだも、昨日までは存在しなかった視点をそこここに空想してしまう。

 ときどき電子書籍を置いて、パソコンに向かい、今月と来月の予定を練る。コロンビア行きがなくなった期間も含めて、どういう移動をするか、考える。4月の頭には香川と倉敷で開催されるコンサートのチケットを押さえてあったり、4月終わりにはイベントを開催するつもりでいたり、沖縄に今後も取材に行くつもりであったり。ただ、その節目に対して僕自身が何か書けるわけでもないし、今年の5月には沖縄に行かずに済ませようかとも思っていたけれど、行かない理由もないなと思い直す。復帰の日前後は航空券もホテル代もまだ特に割高には設定されていないので、5月のぶんまで航空券とホテルを予約して、がしがしクレジットカードで支払っておく。それだけで10万円ぐらい使っている気がするけれど、カードの引き落とし日までには確定申告の還付金が入るからどうにかなるだろう。

 昼、知人の作る鯖缶とトマト缶のパスタと缶ビールを平らげ、『ハピネス』を読み終える。「危口統之デジタル法要」を聴きつつ少し作業をして、15時に知人と一緒に家を出る。日比谷駅で地下鉄を降りて、有楽町に出る。なかなかの人出だ。知人と一緒にルミネに入ると、もう人がみっしりしていて、気もそぞろになる。何か買いたいものがあってやってきたというより、春の陽気に誘われて誰かと連れ立ってやってきたという感じの人たちが多く(もちろん自分たちもその中のひと組である)、何を見るでもなくゆーらゆーらと歩いているので、なんだろう、そわそわする。何も買わずに出て、銀座へ。GINZA SIXの巨大さは、いつ眺めても間の抜けた感じを受ける。ビルの前にはいかにも高級車がずらりと路駐している。

 銀座ライオンの前を通りかかり、ここの内装はとても好きなので久しぶりに入ってみたものの、案内されたテーブルのすぐ隣の客が大声で談笑しているのですぐに出る。資生堂パーラーでちょっとした手土産を買って、そうだ、たしか移転先はこの辺だったはずと、ニューギンザビルの7階に上がり、バー「R」の様子を伺う。店内からは声は聴こえてこなくて、空いているようだ。それならばと中に入ってみると貸切で、テーブルに座り、ハイボールとオイルサーディンを注文する。最近はここから独立したHさんのお店にばかり出かけていて、久しぶりに「R」のハイボールを飲んでみると、ずいぶんスモーキーに感じて驚く。それにしても、ここのマスターのMさんにも『AMKR手帖』であれこれ話を聞かせてもらったことがあるのに、最近はすっかり足が遠のいてしまって、不義理をしているなと思う。

 ハイボールを2杯飲んで店を出る。有楽町駅前で知人と別れ、よみうりホールへと急ぐ。今日はこれから向井秀徳アコースティック&エレクトリックのワンマンライブだ。下地をつけてライブや観劇に出かけるときに不安なのは「途中でトイレに行きたくなったらどうしよう」ということで、今日はH列の中央あたりだったので、そわそわしていたけれど、途中で休憩が入り、ホッとする(最近は弾き語りだとそういう編成が増えている)。印象深いライブだった。あれはルーパーというのだろうか、リフをエフェクターに録音してループさせ、ひとりで多重録音のように音を重ねていく方法で演奏される「サカナ」という曲がある。この曲を演奏する様をまのあたりにしていると、普段地下室でひとり、延々こんなふうに演奏を続けている男がぬらっと地下室を抜けて目の前にやってきたような印象をおぼえる。あるいは「delayed brain」も、これまでとまるで違うアレンジになっていて、ここでもルーパーが用いられている(その歌唱には、先日渋谷で開催された鎮座DOPENESSとのツーマンの余韻もどこか感じる)。地下からやってきた男だ、と思いながら聴き続ける。

 この日のライブで、一段違うモードへの入り口となったように感じたのは「ZEGEN VS UNDERCOVER」だった。「知らん 俺は知らん 傍観者/見えん 実に見えん 殺風景」という言葉は、2022年の春において、これまでとは異なるイメージを連れてくる。そのイメージは、舞台上に立つ人から観客に手渡されるというより、かつて書かれた歌詞が2022年に再生されるときに運んでくるものだ。それは観客にだけ届けられるのではなく、それを書いた本人にもあらたな感触を運んでくるのではないか。たとえば「crazy days crazy feeling」でも、「人がボンボン死ぬこの世/投げやりに死んじゃっちゃおしまいよ/俺の日常 自問自答/公の面前で大袈裟に吐露」という箇所、最後の「公の面前で大袈裟に吐露」というところで、左右に上下を切るように歌うところにも、あらわれていたように感じる。

 それを歌い終えると、「夕焼け小焼け」。わかるかなあ、わかんねえだろうなあ。かつて『全身芸人』を読んで、その勢いで松鶴家千とせ師匠を観に浅草に行ってからというもの、ライブではほとんど毎回のようにそのフレーズが語られてきた。いつもなら笑いが起こるその箇所でも、観客も皆訃報に触れていたのか、笑いも拍手も起こらず、観客はその言葉を噛み締めている。静寂を打ち切るように、向井秀徳は「夕焼けに取り憑かれた男の歌」と語り、「カラス」を歌い始める。その歌詞は、ある日の夕暮れ時にカラスを見て、家に帰るとカラスの死体と出くわし、区役所に電話を入れ、2時間後に出てみると「羽が一枚落ちていた」と締め括られる。その死の、ごろんとしたイメージは、連日メディアで流れる映像をつれてくる。そこから「omoide in my head」、「自問自答」と続く。

 「日曜日の真昼間」という言葉に、今日目にした風景が過ぎる。「なーんも知らずにただガキが笑っていた」という箇所を何度か繰り返して歌うと、「たとえば」と言葉をつぎ、「新宿三丁目の平和武装や」と続いていく。歌詞にある「投げやりや 虚無や」まで歌ったところで、「この世のすべてを何も知らず、ガキが笑っている」と、歌詞がもとに戻る。ギターを弾く手がとまる。「1945 年8月6日8時15分、あのひかりのまぶしさや、1945年8月9日11時2分、あの雲の色合いや」という言葉に、息を呑む。前にも一度だけ、その日付が「自問自答」にのせて歌われたような記憶がある。だが、今日はその日付だけでは止まらなかった。どっか遠くの国の空に鳴り響く戦闘機の音。焼けこげた赤ん坊を抱きしめたときの体温。ふるさとから遠く離れた土地に連れてこられた若い兵士が死ぬ間際に放った「お母さん」という言葉。そんな言葉が続けて語られる。その言葉に涙が流れる。涙を流しているだけではなく、その「繰り返される諸行無常」に対して、同時代を生きているひとりとして、自分は何ができるのだろうかと考える。上演前にもたしかニール・ヤングが流れていたけれど、終演後に流れてきたのは「Cortez The Killer」で、その歌詞を読みながら地下鉄に揺られる。