『モモノパノラマ』のこと

 
 「いよいよ、本格的な冬になろうとしている今ですが。今日は、晴れていましたよね」――そんな言葉で、マームとジプシー『モモノパノラマ』の最終公演は始まった。その台詞にある通り、今はもうすっかり冬になっている。その台詞に、彼らの『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて』の冒頭の台詞を思い出す。僕が「今っていうのは春で、そして、朝なんだけど」という台詞を何度も聴いたときから、もう既に半年が経とうとしている。そして今年ももうすぐ終わってしまう。

 この日、北九州はたしかに晴れていた。日照時間の少ない北九州で晴れている日はそう多くないはずだし、たとえ晴れていても海沿いに並ぶ工場の煙突から立ち上った煙が雲のように浮かんでいる。北九州の前にこの作品が上演された新潟も日照時間が短く、冬はいつも雲に覆われている街だ。この作品をつくった演劇作家・藤田貴大の生まれ育った北海道の伊達という海沿いの街もまた雲の厚い街であることを考えると、この作品が新潟と北九州に巡回してきたのは必然であるようにも思えるし、劇中に登場する「空に潰されてしまいそう」という台詞を考えると、これらの街で上演することに照準をあわせて作品がつくられたのではないかとさえ思えてくる。

 『モモノパノラマ』は、モモと名づけられた猫の物語だ。そのモモがある姉妹のもとにやってきて死んでいくまでが舞台では描かれる。ただし、擬人化された猫を誰かが演じるということは行われない。猫の手触りは、たとえば女優たちが抱き合って転がったりする動きで提示されたりもするが、何より今回の舞台で大きかったのはセットとして用いられた木枠なんじゃないかと思う。

 去年の11月、北九州芸術劇場プロデュース公演として制作された『LAND→SCAPE/海を眺望→街を展望』(作・演出 藤田貴大)のステージには、「街」を舞台上に表現するために様々なセットが組まれていた。そこには水流まであったし、天井には巨大な船が吊るされてもいた。その公演のことを「(自分の地元にどこか似ている)北九州でやるということで気負っていた部分もあるかもしれない」と、この日アフタートークで語っていた。僕は昔から藤田貴大という作家の作品を観ているわけではなく、2011年の春以降しか観ていないから昔の作品のことはわからないが、あそこまで盛大にセットを組んだ作品を他に観たことがなかったけれど、もしかしたら『LAND→SCAPE』におけるあの盛大なセットが、(小道具ではなく)舞台装置が生み出す効果についての意識を加速させたところもあるのかもしれない。

 木製の枠というアイテム自体は、マームとジプシーの舞台では以前から使われてきたものではある。しかし、それが何かをフレーミングするアイテムという枠を超えて使われ始めたのは、一つには昨年9月に上演された『ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト。』であり、もう一つは今年8月の『cocoon』だ。『ワタシんち』では大きな木枠が家に見立てられていたし、『cocoon』では役者たちが木枠を何度も飛び越える動きを見せて、今日マチ子による原作の漫画を二次元から三次元に起こす上で重要な役割を果たしてもいた。また、今日マチ子は、京都精華大学で行われた講演会にて、藤田貴大と共作した漫画『mina-mo-no-gram』について、「私は『コマ割りはリズムだ』と思っているけれど、その問題を藤田さんも非常によく理解してくれていて、行間にうまく言葉を当てはめてくれた」と語っていた。「私が今まで排除していた言葉というものをうまく使えるようになった画期的な出来事だった」とも。舞台版『cocoon』においては、まさに「コマ」と「その行間にある言葉」とを描く上で木枠が大きな役割を果たしていたように思う。

 そうした『cocoon』での手応えを踏まえて作られた今作において、木枠はより一層大きな役割を担っていた。一つには、舞台の最初には平面的に舞台に寝かされていた木材が、男優たちの手によって組み立てられることによって立体として立ち上がることで、何もなかった空間に街が立ち上がるような感覚が味わえるということ。これは『LAND→SCAPE』のときのように、まるで空白を埋めるかのようにセットを作り込まなくても、それだけで街を表現できるはずだという確信があったのだろう。それからもう一つ、その組み立てられて立方体となった木枠は役者たちの手によって時に分解され、移動され、回転されることによって、奇妙なグルーヴを舞台上に生んでいるということがある。マジックテープのようなもので結合された木枠の立方体は、回転させられるときにぐにゃりと歪む。その歪みも、歪みつつ回転する木枠のあいだをすり抜けていく女優たちも、どこか猫を彷彿とさせる。

 その木枠での演出についても、北九州でのアフタートークで少し触れられていた。藤田貴大は「僕はリフレインっていう演出方法を背負わされているようなところもあるんだけど、いろんな繰り返しの方法を探っている」と語っていた。リフレインという方法抜きでも、あるグルーヴに達することができるのではないかと模索しているということだろう。

 たしかに、今回の『モモノパノラマ』において、リフレインはかなり控えめに用いられている(そのせいか、これまでの作品に比べるとずいぶん静謐に感じられる)。リフレインの代わりに舞台上にグルーヴを運んでいるものの一つが木枠だとすれば、もう一つは役者を持ち上げて動かす“リフト”の動きだ。

 この演出を最初に観たのは、たしか今年の1月に再演された『あ、ストレンジャー』という作品ではなかったかと思う。『あ、ストレンジャー』では高山玲子が、春に上演された『てんとてん』では召田実子が、『cocoon』では小泉まきが、男優二人に両脇を抱えられ持ち上げられる演出が登場した。それらの作品での“リフト”は、『てんとてん』であれば鹿の群れに遭遇し連れ去られるシーンで登場し、『cocoon』では爆風に吹き飛ばされるシーンで(リフレインを伴って)登場していた。つまり、これまでの作品における“リフト”はある意味を伴ったものだった。それに比べると、今作は何人もの女優が、(少なくとも「鹿の群れに連れ去られる」というような形での)意味性とは切り離されたところで、チェスの駒のようにリフトされ移動させられていく。そのこともまた、舞台上の空間をぐにゃりと変質させ妙なグルーヴを生み出していたように思う(あまり関係ないことかもしれないが、『てんとてん』には「チェスの駒」という台詞が登場していたのを思い出す。それから、イタリア公演に出かけた際、街のあちこちにあるチェスの駒を売る店で彼らが歩みを止めていたことも思い出した)。

 『モモノパノラマ』が静謐な舞台に見えるのは、これまでリフレインが担っていた役割のいくらかを木枠とリフトの演出に託したからだろう。静謐であるぶん、これまでの作品に比べると役者たちが体力を消耗せずに済むようにも見える。ただ――これは神奈川公演の際に写真撮影を頼まれ、そのリフトの動きや木枠の動きをなぞりながらシャッターを切っていてしみじみ感じたことだけれども、外から見ると静謐に見えるその動きは、実際にはかなり体力の要る動きだ。実際、北九州のアフタートークで藤田は「男子たちがボクシング・ジムに通ってるから、ああやって木枠を動かしたりできるようになったところもある」と半分冗談のように語っていたが、残りの半分は本当のことだろう。

 内容のことに立ち入る前に役者のことを書いておくと、今回の舞台は男の役者の数が多く、石井亮介、尾野島慎太朗、中島広隆、波佐谷聡の4人が出演している。マーム作品としても男の比率が多いほうではないか。これもアフタートークでの発言として、「男が嫌いだから(劇中で)腹筋とかさせてる」と、これも半分冗談のように言っていたけれど、今回の舞台では男優に対する優しさすら感じた(2月に横浜で上演される新作「Rと無重力のうねりで」は男優がメインの作品だということもある)。石井亮介の「何があっても腹は減るだろ」という台詞や、友人の家に遊びにきたときに中島広隆演じる男が見せる妙な気遣いと過剰なサービス精神、波佐谷聡が演じる男の妙な調子の良さ――それらを描く筆致はどこか優しく感じるし、そうした登場人物たちの「何なの、それ?」という台詞や行動が舞台に良いリズムを与えているように感じた。女優たちはあいかわらず素晴らしかった、ただ、その「あいかわらず素晴らしい」ということは観ている側からすると良いことだけれども、彼女たちにとって良いことなのかどうかはわからない。ハッとしたのは川崎ゆり子。彼女が演じる役は、たとえばしみじみ海を眺めているところで唐突に「え、二人はラムネ飲まないの?」と言い出したり、「あー。ガム食べる?」と言い出したりする。どこか素っ頓狂な役だが、彼女の出す声と音とは、この作品の根っこを支えているように感じた。彼女は「はー良い天気。このまま死にてー」と唐突に言い出したりするし、最初のほうで引いた「空につぶされてしまいそう」という台詞もたしか彼女の台詞だった気がする。

 何より僕が印象に残るのは、トンネルを歩くシーンでの台詞だ。何か見えるかと訊ねられた彼女は、「ううん、真っ暗。光も見えない」と答える。「かなちゃんさ、このトンネルを抜けたらどこにたどり着くか知ってる? どこにもたどり着かなかったらどうする? 私、それもいいと思うんだけど。マヒしてくるから、この街にいたら。何が大切か見失っちゃうから。おとぎ話なのかもしれない。どこからが現実なのか、わからなかった。それでも、私たちはこの街に――」

 こう語るとき、彼女は付き合っていた男の死を悼んでいる。後ろに流れている音楽はニール・ヤングの「ハート・オブ・ゴールド」だ。この「ハート・オブ・ゴールド」は、原田郁子の歌として『cocoon』で流れていた曲でもある。僕が藤田貴大の実家を訪れたときも、たしかお父さんの運転するクルマの中ではニール・ヤングが流れていたし、実際に藤田家で飼われていた猫のモモが16歳で亡くなったとき、その亡骸を火葬場に運ぶまでのあいだ、車内ではこの「ハート・オブ・ゴールド」が繰り返し流されていたのだという。

 死や喪失といったテーマは、マームとジプシーの作品では繰り返し描かれてきた。ひめゆり看護隊をモチーフとした前作『cocoon』でも、多くの少女の死が描かれていた。

 その『cocoon』を前にして、今年の6月23日、出演する役者さんの一部やスタッフチームで沖縄に出かけた際、僕も旅に同行させてもらった。戦跡をまわったあと、泡盛を飲みながら話していたとき、悲惨な出来事に対してどういう態度であるかという話になった。具体的に言えば震災だ。地震津波のニュース映像を見たときに涙が出たと藤田貴大は語っていたが、と同時に、「泣いている自分にも違和感があった」とも語っていた。「自分の親が殺されたとか、自分の家が流されたとかってわけじゃないし、何に関しても当事者じゃないから本当に悲しめない、その『本当に悲しめない』ってことを(『cocoon』で)やれるかどうかって気がする」と。

 藤田家で飼われていた猫のモモが16歳で死んだのは、そんな話をしていた翌月のことだ。藤田貴大はその日の稽古を休みにして、最期の姿を見るために北海道に帰ったという。そこで、かつて自分が時間をともにした「彼女」(とアフタートークで藤田は語っていた)が動かなくなった姿を目の当たりにしたことは、同じく16歳で死んで行ったひめゆりの女の子たちを描くことにも大きな影響を与えたはずだ。

 舞台で語られている通り、モモは近くの家で生まれたのをもらってきた猫だった。これも舞台で描かれている通り、その家の猫はボンボン子供を産んでいたのだが、母猫が育てきらないこともあり、その家の人たちは生まれた子猫を川に流していたそうだ。『モモノパノラマ』では、姉妹が猫を受け取るシーンと並行するように、選ばれなかった5匹が川に流されるシーンが進んでいく(5匹の猫が入った段ボールが川に流されているとき、モモの入った段ボールを抱えた姉妹はそれを遠くで静かに眺めている)。そこでは生と死が隣り合わせに存在している。段ボールを抱えた妹がつぶやく。

「この猫、私たちと出会わなければよかったってならない?」
「そんなこと言ったらさ」
「……うん」
 
 ままならない現実とどう向かい合っていくかということもまた、マームとジプシーがずっと描いていることの一つだ。ままならない現実を「どう改善するか」ではない(「それは演劇作家の仕事じゃない」と藤田貴大は言うだろう)。藤田は以前、こうも語っていた。「マームで心がけてるのは、ただ日常を過ごしていたら勝手に過ぎ去ってしまうことってあるし、作品を作らなかったら忘れることってあるけど、それを上演してお客さんに来てもらうことによって、自分もお客さんも、2時間ぐらいちょっと待って考えようよって時間を作ることだから。それを、『cocoon』でもやりたいんだと思います」

 この『モモノパノラマ』も、まさに「勝手に過ぎ去ってしまうこと」を「ちょっと待って考えようよ」という時間をつくった作品だったのだろう。以前、モモの死について、藤田貴大はこうも語っていた。親はずっと泣いてたんだけど、自分はそんなふうには悲しめなかった、自分は作品をつくることでしかその死と向き合えない――と。

 そうして作られた今作には、死生観とでも呼ぶべきものが強く滲んでいたように思う。誤解をおそれずに言えば宗教的な意識と言えるかもしれない。その萌芽は、今年春の『てんとてん』に既に見られていた。そのラストに、「私は、私たちは、『今』という『点』に立たされているのかもしれない」という台詞が登場する。日本でその台詞を聞いたときにはあまり気にならなかったが、その作品を街の至るところに教会が並ぶフィレンツェサンティアゴで聴くと、その「立たされている」という言葉が帯びている宗教性がキリスト教圏に暮らす人びとにどういう印象を与えるのだろうかと気になっていた。モモの死を描く今作が、まず空を見上げるところから始まり、最後は煙になって空へ上がっていくところで終わることもまた、そうした意味で印象的だ。

 死生観というのは、その文字にある通り、死をどう捉えるかということだけではなく、生をどう捉えるかということでもある。たとえば、発情期を迎えたモモに対する姉妹のやりとり。

「うるさいうるさい、どこから声出してんの」と耳を塞ぐ妹。
「え、聡子さ、え、何その態度、え、モモの気持ちにはなれない?」とムッとする姉。「だってモモは苦しんでるじゃん」
「ああ、そうなの? 雄を誘ってるんじゃないの?」
「何でそんなことが言えるかね? 何かが疼いて疼いて仕方がないんだよ!」

 そうした疼きや胎動は、他の場面にも登場する。誰の台詞だったか忘れたけれど、「最近すごいんだよね、夕飯食べてるときにもう次のご飯のこと考えてるからね」という台詞も登場するし、猫を川に流したあとの夕食に唐揚げを食べようとする石井亮介演じる兄に対して、川崎ゆり子演じる妹が「ちょっとお兄ちゃん、猫を捨てたあとに唐揚げとかさ」と注意し、兄が「何があっても腹は減るだろ」と反論するシーンも登場する。それから、子供たちが遊んでいるシーンでもその生命は無邪気に胎動している。躍動している。「ドクドク」「ドクドク」と、荻原綾が大きな声で心音を叫んでいると、大縄跳びが始まる。女子たちは飛んだ回数を大声で数えている、ここで今作で一番大きなボリュームで音楽が流れる。縄を飛ぶ女子たちの震動が客席にも伝わり、大音量の音楽もあいまってビートが客席にいる私たちにも伝わってくる。あのとき、何か生命そのものに触れているような感覚がした。そのビートに触発されたのか、隣りの隣りの席に座っていた比較的高齢の女性が、拍手というわけでも、また曲や縄跳びのリズムに合わせるわけでもなく、アナーキーなリズムで手を叩き始めたのが印象的だった。

 ところで、「ドクドク」「ドクドク」と叫んでいた荻原綾が演じる女の子は、団地の一室から飛び降り自殺をしてしまう。同級生の女子たちがそのことを知るのは、まさにこの大縄跳びが始まるあたりだ。

 あやちゃんの死を知ったとき、モモを飼っている妹は語る。「時間にあふれていたあの頃、いつまでもこんな時間が続くのかと思っていた。まるで時間がなくなったような気がした。夕間暮れのくじら公園だった」と。「いつまでもこんな時間が続くのかと思っていた」というのも、「まるで時間がなくなったような気がした」というのも、モモの訃報に触れたときの藤田貴大の率直な感想ではないか(モモというその名前が、劇中で語られている通りミヒャエル・エンデの『モモ』という作品から取られているのは、何かを予期していたのではないかとさえ思えてくる。エンデの『モモ』に登場するモモという女の子は、時間泥棒に盗まれた時間を取り戻し、街を守ってくれる。そのモモが死んだことで、彼は「まるで時間がなくなったような気がした」のだから)。

 舞台の最後に描かれるのは、モモの死だ。連絡を受けた姉は、久しぶりに自分が去った街に戻り、その亡骸を前にする。自殺したあやちゃんが語っていたいつかの台詞がリフレインする。「モモちゃんは別にそのあとに自分がどこに行くかとかは知らないんだよ。生きたあとどうなるのか、想像もしていないんだよ。ただ生きているだけ、動かなくなるその瞬間まで、ただただ生きるだけ、それだけなんだよ」。この生と死の捉え方は、センチメンタルを排していてドライだとも言えるし、生命を力強く捉えているとも言える。そのドライさと力強さは、たとえば先ほど引いた石井亮介の、猫を捨てたあとの「何があっても腹は減るだろ」という言葉の響きなんかにも現われていたものだ。

 そうそう、自殺したあやちゃんは、モモの飼い主であるさとこ(吉田聡子)にこんなことを言っていた。「さとこちゃんは本当の孤独を知らないね」と。たしかに、そう言われたときのさとこは孤独なんて知らなかったかもしれないが、まさにその台詞を言い放ったあやちゃん自身によって孤独を知らされることになる。生きている限り、私たちは誰かの死に触れ続ける運命にある。誰かの死を抱えつつも、私たちはすぐにまた腹を空かせて生きていくしかない。それは、少し気取って言えば孤独の旅路だ――そういえばニール・ヤング「ハート・オブ・ゴールド」の邦題は「孤独の旅路」だ。北九州での最終公演のあとに行われたアフタートークで、藤田貴大は「生きることの大変さみたいなことはずっと考えてるけど、それはまだまだ考える余地があると思ってる」と語っていた。そのことについて考え続けるためにも、彼はまた作品をつくるのだろう。