マーム同行記28日目

 8時45分、ホテルのロビーに集合する。テクニカルチームは1時間前にホテルを出て劇場入りしているので、まだ残っていたのは実子さん以外の役者5人と僕だけだ。皆はiPhoneを覗き込みながら、劇場までの道のりを相談している。

「ホテルを出て、ほとんどまっすぐってことだよね?」
「そうだね。橋本さんと僕が昨日歩いた道だね、これは」

 そんな話をしていたけれど、皆はホテルを出てすぐ、僕と波佐谷さんが昨日歩いた道とは反対に歩き出した。僕は劇場がどこにあるのかわからないから、しばらく皆に随いて歩いたけれど、やはり道を間違っている気がする。地図を見せてもらって、「こっちじゃないですか?」と道を変更して歩いていると、大聖堂の前に出た。広場には物売りがたくさん待ち構えているけれど、観光客の姿は一人も見かけなかった。

 30分ほどかかって劇場にたどり着く。道路の向こう側を走っていたクルマの運転手が「タクシー!」と声を掛けてくる。「ノー、ノー」と断っても、わざわざクルマを停車させて、道路を横断してこちらまでやってくる。「メッシーナをクルージングしてやる」と運転手は言う。まだその姿を見かけてないけれど、観光客の多い街なのだろうか。僕らは劇場の表に吊るされている、聡子さんの写真を使用した大きな幕を指差し、「これが僕らです」と答えた。

 劇場の中では、さっそく仕込みが始まっていた。僕たちはまず、今日の午後から行われるワークショップの会場を下見する。会場の候補は2つあって、両方とも劇場内にあるスペースなのだが(この劇場はとても大きく、いろんなスペースが用意されている)、1つはピアノの置かれた小さな部屋だ。あゆみさんとはやしさんはピアノを弾いてみている、はやしさんは小さい頃にピアノを習っていたらしく、僕でも耳にしたことのある曲を弾いていた。たしかあれは、ジブリ映画の主題歌だ(僕はジブリ映画を観たことがないので、どの映画かはわからない)。それにあわせて、あゆみさんは窓辺に立ち、「♪あの地平線 輝くのは」と口ずさんでいる。

 この部屋には広いバルコニーもついていて、そこからは港を見渡すことができた(そのバルコニーで、あゆみさんは何やらテスト撮影をしていた)。このバルコニーは魅力的だったけれど、もう一つの候補はちゃんとした稽古場だったので、そちらでワークショップを開催することに決めた。

 下見を終えたところで会場に戻り、テープで床にラインを引いていく。今回のツアーで4会場目だけあって、皆手際が良くなっている。はやしさんが「皆、上手じゃーん」と言うと、「上手になったんです、努力してるんです」と藤田さんが言った。テープを貼る姿を見ていた現地のテクニカルスタッフは、熊木さんが正確にテープを貼る姿を目にすると、驚いた様子で立ち尽くしている。「オリガーミ」「オリガミスタ」と声があがる。

 会場には、なぜかストーンズの「(I Can't Get No)Satisfaction」が流れていた。いつも角田さんがサウンドチェックに用いる曲とは別の曲だ。こっちのスタッフがサウンドチェックのために流しているのだろうか(それとも、こっちのスタッフが単に趣味で流しているのだろうか)。

 11時半、石を探しに出かける。ここメッシーナでは、劇場を出てすぐの場所で手頃な石を発見した。

「これはキープってことにして、ちょっと歩いてみようか」
「さっき見たバルコニーにも、手頃な石があったよね?」
「いや、サイズは良かったけど、あんな取っ手の付いた石は森にないでしょ」

 歩いていると、「コルネッテリア」と看板を出した店に通りかかった。「コルネッテリア」とは、コルネット専門店という意味だ。コルネットというのは、イタリア人がよく食べる、クロワッサンに似たパン(スイーツ)。店内をのぞいてみると、コルネットの他にカンノーロというスイーツも並んでいた。不思議な形をしたそのお菓子は、シチリア名物のお菓子らしかった。

「あれだね、これはお土産として日本に持って帰れない感じですね」とあゆみさん。「でも、ちょっと気になるね」
「皆、食べたい?」と藤田さん。「じゃあ、それを7個買って、皆で半分ずつ食べよう。あと、こっちにある白いお菓子は、日本語で言うと『死者の骨』って意味らしいよ」――藤田さんは昨日の会食でプロデューサーに話を聞かされたらしく、ポンテデーラでは「甘い物は死ぬほど嫌いだ」なんて言っていたのに、シチリアのスイーツにやけに詳しくなっていておかしい。

 イタリアでは、11月1日はすべての聖人を祝福する「諸聖人の祝日」で、その翌日、11月2日というのは、カトリック教会が「死者の日」と定める日だ。スカルディーニという名前のそのお菓子は、この2日間だけ食べられるお菓子なのだという。そのスイーツも気になったけど、とりあえずはカンノーロだけ購入することにした。

 朝にも通りかかった大聖堂の前に出てみると、先ほどは違って大勢の人が広場に立ち尽くしていた。その場にいる全員の視線が、大聖堂の塔に注がれている。おそらくからくり時計になっているのだろう。時計を見ると11時55分、きっと正午に動き出すのだろうから、皆で待ってみることにした。

 正午を3分ほど過ぎたところで、ライオンの鳴き声が3度、鶏の鳴き声が3度響き渡ると、音楽が流れ始めた。そうしてゆっくりとからくり時計が動き始める。僕はからくり時計よりも、周りの観光客の様子を眺めていた。からくり時計としてさほど派手な動きが見られるわけでもないのに、何人か深く感動した様子で見入っていた。15分ほどで音楽が鳴り止んで動きが止まると、広場は拍手で包まれた。ひと際大きな音で手を叩いているのは物売りだ。「さあ商いの時間だ」とばかりに手を叩き、「ワンユーロ! ワンユーロ!」と連呼していた。

 結局、石は他に見つからなかったので、劇場の裏で見つけた石を使うことにした。しかし、いざ拾ってみると臭い石が多く、石は1つだけにして、あとは松ぼっくりみたいなやつを4個持ち帰った。それを舞台上に配置したところで、お昼休みになる。メッシーナでのランチは配給制だ。サンドイッチかサラダ、好きなほうを前日に申告すると、翌日のお昼に会場に届けられる。それを手にして、まだ作業を続けている熊木さん、角田さん、南さん、門田さん以外の9人で、海辺に出てランチをした。

 15時、メッシーナでのワークショップが始まった。まずはプロデューサーのコラド氏が、イタリア語で全員に何かスピーチをしている。イタリア語だから内容はわからないけれど、参加者の人たちはその言葉を聞いて少し緊張した様子になっている。ワークショップで使う椅子をガタガタと運び出していた僕たちも「シーッ」と注意を受けてしまって、少し緊張する。

 5分ほどのスピーチが終わると、「2日間あるので、じっくりやっていきましょう」と藤田さんが話を引き継いだ――のだけれども、この日のワークショップには1つ問題があった。「日本語がわかるイタリア人の通訳が来る」と聞いていたのに、やってきた通訳の女性は日本語がしゃべれなかったのだ。

 日本語から英語、英語から日本語に通訳しながら、ワークショップは進む。「私あなたゲーム」、「名前鬼」といつものゲームをして、「椅子取りゲーム」に差し掛かろうかといったところで、仕込みの現場にいたはやしさんが門田さんを呼びにきた。仕込みをしている現地のテクニカルスタッフと言葉が通じず、何かトラブルが発生しているらしかった。


 この劇場――「Teatro di Messina」は、1852年に建てられた、メッシーナでは現存する最古の劇場だ。そして、この劇場で日本人が公演を行うのは当然初めてのことだけれど、外国人が公演を行うということも、160年の歴史で初めてのことだ。つまり、劇場のテクニカルスタッフはイタリア人以外と仕事をした経験が皆無で、英語が通じるスタッフもごくわずかで、苦戦しているらしかった。それに加えて高齢のスタッフが多く、すべてがスロウに進行していた。

 さて、ワークショップだ。門田さんが不在になると、何をどう説明したものか――。どうしたものかと困っていると、ルイーサがイタリア語で皆に説明を始めてくれた。そう、この日のワークショップには、ルイーサが参加者として加わってくれていた。彼女はメイナとアンコーナでのワークショップを見学してくれていて、「椅子取りゲーム」のルールを覚えていたのだ。

 前にも書いたけれど、椅子取りゲームのルールはシンプルだ。会場には人数分の椅子が置かれている。鬼をひとり決めて、鬼は空いている椅子を目指して歩く(早足で歩くとすぐに終わってしまうので、鬼だけは膝をくっつけてヨタヨタと歩く)。他の皆は席を移動して、鬼を座らせないように移動する――これが椅子取りゲームのルールだ。

「一回立ち上がったら、同じ椅子に戻っちゃダメってことは伝えなくて平気かな?」とあゆみさんが言う。
「それはもう、全部説明してくれてるってことを信じてやるしかない」と藤田さんは言った。

 あゆみさんの不安は的中し、椅子取りゲームを初めてみると、立ち上がっては元の椅子に戻る人が続出した。が――1回目のゲームが終わったところで、ルイーサが「同じ椅子に戻っちゃダメ」とイタリア語で皆に説明してくれた。

 ルイーサのおかげでルール自体は完璧に伝わったはずなのに、ゲームの趣旨はなかなか伝わらなかった。このゲームのポイントは、「鬼を椅子に座らせないようにする」ということだ。そのためには、鬼が空いた椅子に近づいたタイミングで、その椅子から一番離れた場所に座っていた人が移動する必要がある。また、参加者は、他の人がどのタイミングで椅子を立ったかを把握しながら動く必要がある。

 しかし、今日の参加者の様子を見ていると、全員が空いた席に向かって直進するばかりで、空いていた席に他の参加者が座ってしまうと、「あーあ、座れなかった」と立ち尽くしてしまう人も多くいた。藤田さんは珍しく、あゆみさんを2回続けて鬼に指名した。鬼に指名されたとき、あゆみさんは皆よりスロウに、ちびちびと動く。ここまでの会場でも、あゆみさんが鬼をやるとゲームが長く続き、参加者の皆がコツを掴めていたのだけれど、今回はあゆみさんが鬼をやってみてもゲームは長続きしなかった。

 椅子取りゲームが終わると、5分ほど休憩になった。「難しいな」とつぶやく藤田さんは歯がゆそうな顔をしていた。休憩に入る頃には門田さんは戻ってきてくれていた。

「次にやるのは、皆に地図を描いてほしくて」と藤田さんは説明した。「ここが劇場で、こっちが海だとしたときに、皆の家がどこにあるのかを、床にテープで貼ってください」。そうして皆の家の位置が決まると、今度は「朝起きて、劇場にくるまでの道」もテープで貼っていく。

 地図が完成すると、藤田さんの「ウノ(1)!」「デュエ(2)!」「トレ(3)!」の号令に従って動く「番号ゲーム」が始まる。今回の参加者には役者がほとんどおらず、皆相当ヘトヘトになっているけれど、案外それを楽しんでいるように見えた。残念だったのは、どうしても現地のテクニカルスタッフと意思の疎通ができず、英語とイタリア語の通訳ができるルイーサが最後までワークショップに参加できなかったこと。

「今日はこれで終わるんだけど、4日後にもやるんで覚えておいて」と挨拶をして、18時、メッシーナでは1日目となるワークショップは終了した。役者の皆も、それにスタッフの皆もクルマでホテルに帰ったけれど、藤田さん、はやしさん、それに僕の3人は歩いてレストランに出かけることにした。ちなみに、この3人はユーロを多めに換金して、まだまだ余らせてしまっている3人でもある。

 この日は日曜日だったせいか、営業している店は少なかった。灯りのともったレストランの扉を開けてみても、「今日は19時で閉店だ」と言われてしまう(19時で閉店というのはどういうことだろう――それならランチだけで営業を終わればよいのでは)。

 10分ほどさまよって、何とか営業しているレストランを見つけた。波佐谷さんに教えてもらった情報によると、メッシーナの名物はメカジキだという。しかし、イタリア語で「メカジキ」は何と言うのかわからなかった(英語で何と言うのかもわからない)。どう注文したものかと思っていると、レストランの入口にショーケースのようになった冷蔵庫があり、そこに食材が並べられていた。

「あ、これメカジキじゃない?」と、はやしさんが或る魚を指差す。はやしさんは店員に「ディス!」と指差しで注文しようとしてくれている。

 僕はメカジキがどんな身をしているのかわからず、不安になって「ティピカル・フィッシュ?」と店員に訊ねる。「ティピカル」という単語は今回のツアーでおぼえた。「典型的な」「代表的な」という意味の言葉だ。店員は満面の笑みで「イエス、ティピカル!」と答えてくれる(はやしさん、疑ってごめんなさい)。

「今回のツアーはまだ終わってないですけど、これだけ見ていても、現時点では誰のことも『わかった』と思えてないんですよね。そのことがよかった気がします」

 食事を終えて、デキャンタに残ったワインをグラスに注ぎながら、僕はそんなことを口にした。

「でも、ほんとわかんないですよね」と藤田さんは言った。「橋本さん、恋人にせよ友達にせよ、把握できない人って嫌いですか?――っていうのも、僕のフェチってこれで言える気がするんだけど、僕は“把握できる人大嫌いな症候群”なんですよ。それは仕事でかかわる人もそうだし、プライベートでもそうなんですよ。いや、今やもうプライベートがないんだけど」

「難しいのは、わからない人って、最初に会ったときは『あ、この人のこと掴めたかも』って気になる人の方が多い気がするんですよね。ごく浅いレベルでは『この人のこと、掴めたかも』って思えるんだけど、長く付き合ってみると『何だこの人?』ってなるというか……」

「そうそうそう。でも、こういうことを言っちゃうと、いわゆる“不思議ちゃん”が好きだとか、変わった子が好きだとかって思われちゃうんだけど、そうじゃないんだよ。“不思議ちゃん”っていうのは結局、演じてる子じゃん。それは『私のことはわかんなくていいよ』って態度を演じてるんだと思うんだ。そういう態度が好きなわけじゃなくて、わかってたはずなのに、いつまで経ってもわからない子がいるってことなんだよ。逆に言うと、そのわからないってことを楽しめない人もいるよね。そういう人は、付き合ってる相手のこととかも把握したがると思うけど――これは『anan』のエッセイにも書いたけど、俺、過去の男のことかは一切知ろうと思わないんだ。それはもう、病的なまでに知ろうと思わなくて。それは女優さんに対してもそうで、彼氏がいたとしても、その話は絶対聞きたくないんだ。それを聞いちゃうと……駄目になってくるんだよね。そこは俺、キモいんだ。ずっと妄想し続けたい欲はある」

 一緒にテーブルを囲んでいたはやしさんは「気持ち悪いよ、それは」と笑っている。

「だから俺、すごい嫉妬能力だとも思う。『嫉妬深い』と言われてるような人って、過去に付き合ってた人のことを知りたがるけど、それを超えるともう、何も聞かなくなるよ。いや、キモいのはわかってるんだけど、聞くんじゃなくて、ずっと妄想してられる。でも、ときどき妄想がストップしちゃうこともあるし、妄想するまでもなくすべてがわかっちゃう女子もいて。その妄想がストップしちゃうときって、すごい喪失感なんだよ。……ちょっとこれ、しゃべり損になるの嫌なんですけど(笑)、橋本さんも思いませんか? こっちから能動的に知ろうとし過ぎちゃって、すべて把握しちゃうと――もう終わっちゃいません?」

「僕は演出家じゃないから他の人には嫉妬できないけど、ごく個人的な規模で考えてみると、その人が過去に何があったかは詮索しようと思わないですけどね。その相手との関係はもう、現在でしかないから」

「それ、すごいうまいこと言いましたね。現在でしかないっていうのは、ほんとそうですね」と藤田さんは言ったけれど、ちょっとそれは、気取った言い方をし過ぎたかもしれない。

 会計を終えて店を出た。ホテルを目指して歩き始めたものの、街は閑散としていてうら寂しい空気が流れている。少し暗くなった街角には、バイクを停めてたむろしている若者がいる。「あからさまに街が荒れてますよね?」と藤田さんは言った。「昨日の夜も、すごい歩いてて怖かった。高校生のギャングみたいな人が多い気がする」

 誰かに絡まれたらどうしよう――そんなことを心配しながら身を固くして歩いていたけれど、何事もなくホテルにたどり着くことができた。