8時に起きて、お茶を淹れる。一通りチャンネルをまわして情報番組を確認するが、どれもつまらなくてテレビを消す。トーストとヨーグルトで朝食を済ませ、『日本人の目玉』から「いつでもいく娼婦、または川端康成の散文について」を読み始める。40ページほどの批評文だが、途中で本を置いて考えたり、同じ行を何度も読み返したりするせいか、読み終える頃には午後になっていた。

 昼、納豆オクラ豆腐入りうどんを食す。夕方、東海道線で横浜へ。しばらくドトールで読書したのち、19時半、STスポットでロロ『校舎、ナイトクルージング』観る。素晴らしかった。これは、「いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校シリーズ」と題した、高校演劇のフォーマット――仕込みを10分で済ませ、上演時間は60分を上限とし、水や火、飲食物など舞台を汚す可能性があるものの使用は不可――で上演されるシリーズの二作目にあたる作品だ。高校生は無料で観劇が可能で、戯曲は公開されており、「部員数に応じた二次創作を歓迎します」と明記されている。

 この“いつ高”シリーズの第一弾『いつだって窓際であたしたち』が上演されたのは2ヶ月前だ。それを観たときは、大人の観客には高校演劇というものが上演されるフレームを見せながら――つまり高校演劇のフォーマットを演じて見せながら物語も提示する。高校生には、演劇というものが持ちうる奥行きを提示する。そういうシリーズなのだろうと思っていた。だが、今回の作品を観て、僕は“いつ高”シリーズでロロがやろうとしていることを見誤っていたということに気づかされる。

 第二弾となる『校舎、ナイトクルージング』の冒頭は、夜の校舎に誰かが忍び込んだところから始まる。暗闇の中を歩くのはどうやら女の子だ。彼女がICレコーダーを再生すると、男の子の声が聴こえてくる。その声にハッとする。それは、『いつだって窓際であたしたち』に登場するキャラクターが発した台詞だ。その台詞を発した彼は、今回の作品には登場せず、ただICレコーダーに記録された声が聴こえるのみだ。

 物語が進むにつれて、今回の『校舎、ナイトクルージング』が、『いつだって窓際であたしたち』と同じ教室であり、およそ12時間後の世界だということがわかってくる。前作が昼休みの風景で、今作が深夜の風景だ。前作ではあまり触れられないまま謎になっていた箇所に、光が当てられる。昼の世界では見えないものが、夜の世界では見えてくる。この教室に、学生たちが肝試しにやってくる(前作で、校庭から教室を撮った写真に幽霊が写っていたという話が登場するのだ)。はたして、夜の校舎には幽霊が存在した。その幽霊はあっけらかんとした様子で学生たちと会話し、学生たちも次第に普通に会話し始める。

 “いつ高”シリーズのテーマは「まなざし」であると銘打たれている。『校舎、ナイトクルージング』を観ていると、いなくなったもの、あるいはいないものへの「まなざし」に思いを巡らせることになる。おばけというのは、いなくなったものだ。だが、私たちはそれをまなざすことができる。この舞台のように、それを直接目にして会話することができなくても、まなざすことができる。もっと言えば、「いるもの」としてまなざすこともできるし、「いないもの」としてまなざさないこともできる。

 飴屋法水『ブルーシート』に登場する、「人は、見たものを、覚えていることが、できると思う。忘れることが、できると思う」という言葉を思い出す。2ヶ月前に上演された『いつだって窓際であたしたち』で描かれたエピソードは、僕の頭の中で、少しおぼろげになっていることに気づく。そこにいたはずの人も、そこで起きた出来事も、少しずつおぼろげになってゆく。これがシリーズであるがゆえに、観客である僕は、自分がまなざしたはずのものについて思いを巡らす。

 でも――そうしたことに感銘を受けたわけではないのだ。「いなくなったもの」や「もうここにはいないもの」ということを考えるときに、時間という軸をかませるというのは、普通のことと言えば普通のことだ。人はいなくなっていくし、人にまつわる記憶もおぼろげになる。でも、時間の流れを縦軸だとすれば、横の軸が今回の舞台には登場する。普通、同じ時間を過ごしている人は「一緒にいる」と見做されているが、その中には「ここにはいないもの」が含まれている可能性があるし、「ここにはいないもの」として扱っている可能性もある。

 わかりやすいのが、まさにこのシリーズで舞台となっている教室だ。前作でも、今作でも、名前だけ登場するクラスメイトが存在する。舞台に登場する人たちは、彼の名前を知っていても、彼がしゃべるところや、どんな人であるのかを知らない。その空間において、彼は「いないもの」も同然だ。今回の舞台が僕に刺さったのは、前作の昼の教室では「いないもの」だった人が、今作の夜の教室では登場するからだ。

 冒頭に登場する女の子は引きこもりがちで、学校を休んでいる。だが、夜な夜な学校に忍び込んでいる。その目的は、ICレコーダーをあちこちに設置することだ。彼女はICレコーダー越しにクラスの――いや学校中の声を聴いている。彼女自身の姿はクラスメイトから見えないが、彼女は全校生徒の声を、会話を、その人を知っている(その意味で、彼女が幽霊の女の子と仲良しであることは象徴的だ)。僕にこの作品が刺さったのは、この女の子が登場するからだ。というのも、彼女がやっていることは、ほとんど僕がやっていることと同じだからだ。

 ある作品やツアーに密着するとき、僕はしばしばICレコーダーをまわす。2014年のイタリア・ツアーのとき、ある都市では広いキッチンのある施設に宿泊することになった。そのキッチンで、皆がそれぞれ料理をして食事をし、ダイニングテーブルで酒を飲んでいた。僕はそのキッチンの様子をすべて見たくて、ビデオカメラを3箇所に設置し、それに自分の目を加えた4つの目で、ある晩のキッチンの様子をドキュメントした。あるいは、去年の春の国内ツアーのとき、僕はICレコーダーとピンマイクをある役者さんに手渡し、「朝起きてから本番が始まるまで、これをつけておいてもらえませんか」とお願いをしたこともある。

 それはかなり極端な例ではあるにしても、僕はいつも、後から振り返って皆の姿や会話や振る舞いに思いを馳せている。だからこそ、学校中にICレコーダーを忍ばせて、そこにいる人たちの――そこにいた人たちのことに思いをはせる女の子の姿に、感情移入してしまう(冷静に考えると、彼女に感情移入する観客はそう多くないかもしれないけれど)。

 彼女は、同級生たちとICレコーダー越しにだけ触れ合う。彼女にとって、同級生たちは「いないもの」であるのかもしれない。いや、「いないもの」というのは違うかもしれないが、現段階では、彼女にとってはICレコーダー越しに触れる声こそが実体なのではないか。しかし、今回の『校舎、ナイトクルージング』で彼女は、肝試しにやってきた同級生たちと遭遇する。本人と遭遇することは、彼女にどんな影響を与えるのだろう――?

 良心的な人であれば、彼女に「学校においでよ」と声を掛けるだろう。「そんなふうにICレコーダーで聴いてないで、一緒に話そうよ」と。しかし、彼女にとって、そんなふうに直接的にコミュニケーションすることが幸福なのだろうか? 少なくとも彼女は、(昼の世界の皆からは見えない)夜の世界にだけ存在していることに、引け目を感じている様子もなければ屈託もなく、夜の世界を楽しんでいた。その姿を眺めているうちに、自分の覚悟の足りなさに気づかされる。僕がやるべき仕事もまた、夜の世界に存在することだ。それなのに、僕はどこかで、昼の世界にいる皆に気づいてもらいたいと思っている。ICレコーダーを設置していることに気づいてもらいたいと思っている。でも、劇中の彼女は、ICレコーダーに気づいてもらいたいとは微塵も思っていないように見えた。自分の覚悟の足りなさを思う。目に徹すること。

 観劇を終えると、缶ビール片手に湘南新宿ラインに乗車する。1日置きに酒を飲むと、アルコールがからだにめぐってゆくのがちゃんと感じられる。それは、缶ビールだけでちょっと酔っ払っているということでもあるのだが。

 新宿で電車を降りて、思い出横丁へ。今年初となる思い出横丁だ。決まって訪れる「T」は大賑わいだが、ちょうど席が空いて入ることができた。隣の席には、今一番好きと言っても過言ではない女性のシンガーソングライターの方がいたが、話しかけるのも失礼だしはしたないと思って、文庫本を読みながらホッピーを1セット、ハイボールを1杯、ウィスキーのロックを1杯飲んだ。

 23時半、会計を済ませて立ち上がったところで「お気をつけて」と声をかけられる。僕が驚いて固まっていると、「え、知り合い?」と店主が言う。彼女とは面識があるのだが、そんなにしっかり話したことがあるわけでもなく、覚えられてはいないだろうと思っていたのだが、ちゃんと覚えてくれていたのだ。すっかり嬉しくなって、コンビニでかけそばと缶ビールを買って帰った。