朝8時に起きて、パンとトーストを食す。昼、納豆オクラ豆腐入りうどんを食し、新宿に出る。高田馬場駅前で俳優のOさんとすれ違い、会釈する。稽古場や劇場、あるいはツアー先ではよく顔を合わせるけど、こうして日常生活の中でバッタリ出くわすと不思議な感じがする。ごく近所に住んでいるが、普段何もないときに会うことはないのだ。

 紀伊國屋書店で文庫を数冊購入し、「らんぶる」。さすがに休日は混雑しているが、運良くすぐに入店できた。ブレンドを飲んでいるところにY田さんから電話。「何してんの?」「らんぶるでコーヒー飲んでます」「じゃあ行くわ」。30分ほどでY田さんは姿をあらわし、チキンライスを注文する。大学4年のときから付き合いのある友人だが、会うのは半年ぶりだ。大学時代から付き合いのある友人は何人かいるのだが、皆結婚して、そんなに頻繁には合わなくなってしまった。

 Y田さんは観たい映画があるのだという。コーヒーを飲み終えたところで「らんぶる」を出て、東中野に移動する。チケットを買っておいて、すぐ近くの串カツ屋に入り、ビールとホッピーをそれぞれ注文する。「Y田さん、食べ物はどうします?」「俺、あんまり腹減ってないから大丈夫」「じゃあ、冷やしトマトとポテトサラダにしましょうか」。ホッピーを2セット飲み干したあたりで開場時間が近づいてきたので、会計を済ませて店を出る。串カツは頼まなかった。

 18時半、満員のポレポレ東中野で『ヤクザと憲法』観る。誘われて観にきたわけだけど、とても面白かった。一体どういう入り口から入れば、この距離感でカメラを据えることができるのだろう。そのことがずっと気になっていた。そこには生活が映っている。人が映っている。だからこそ、タイトルを『ヤクザと憲法』にすることはともかく、ドキュメントの中で日本国憲法を映し出す必要はないのでないかという気がする。それを映さなくっても、ドキュメントされた映像を観ているだけで、その問題意識は観客の中に立ち現れてくる。

 映画を観終えたあとは高田馬場に移動する。駅前の店に入るつもりが満席だ。「Y田さん、どこにしましょうか?」「俺、何でもいいよ」「じゃあ、鳥やすにします?」「ああ、いいよ。さかえ通りにあるんだっけ?」「いや、こっち側にもあります。コットンクラブの向かいあたりです」「でも、鳥やすって結構騒がしくなかったっけ。っていうか、そんな腹減ってねえからコットンクラブでもいいけどね」ということで、コットンクラブに入店する。

 ビールを飲みながら、映画の感想をあれこれ話す。ドキュメントとしてすごく面白かったし、そこに映し出される人や生活にいろいろなことを考えさせられるけど――でも、あそこで憲法を映さなくても伝わるんじゃないかという感想をY田さんに伝える。もちろん、東海テレビという職場にいる人がヤクザのドキュメントという企画を通すためには、そういう問いの立て方が必要なのはわかる。あるいは、そういう問いがあるからこそ劇場版の配給も決まり、お客さんが足を運んでくれるのだということもわかる。そこには論理が必要だ。その論理にいちいち引っかかってしまうから、自分はあまり仕事ができないのかもしれない。

 同じことは、最近『ルポ 消えた子どもたち 虐待・監禁の深層に迫る』を読んだときにも感じたことだ。そのルポは、2014年に起きたある事件をきっかけに取材が始まっている。2014年5月末、神奈川県厚木市のアパートで、5歳くらいの男の子と見られる白骨化した遺体が発見された。その遺体は、死後7年以上放置されていた。中学に入学する年になっても所在が確認できず、児童相談所が警察に連絡したことで遺体が発見されたのだという。その事件に衝撃を受けた取材班が調査を始めると、同じような子ども、つまり戸籍上は存在しているはずなのに、近所の人による目撃情報もなく、また学校にも登校していない“消えた子どもたち”が少なくとも千人は存在するのだ、と。

 このルポに記されている様々の事例はどれも衝撃的だった。だが、その節々に壁を感じるときがあった。たとえば、子どもたちが消えた時期とその原因を探る中で、こうした記述がある。

 また、高校に通う年齢の子どもについては、退学や不登校が本人の意思か否か把握されておらず、義務教育に比べ学校の関与も薄れることで実態が見えにくいと感じた。この点はナミさんの問題とも重なる。それだけに、法律上教育を受けさせることが義務づけられている小中学校において、そのチャンスを生かして、子どもをしっかりと把握することが重要だと強く感じた。

 取材された話はどれも衝撃を受けるのだが、この「重要だと感じた」といういかにもレポート調の言葉に引っかかる。そう記す人のほうが世の中のことを考えているし、世の中をより良くするのだろう。でも、ドキュメントとして観たときに(読んだときに)、何か引っかかるものがある。別にそれを悪いと言いたいわけではないのだけれど、でも、どうして自分はそこに引っかかるのか――そんなことをウダウダとY田さんに話す。

「やっぱ今のメディアはアジェンダ設定能力が落ちちゃってるから、そういうことを言わないと厳しいんじゃない?」とY田さんは言う。「あと、観る方にも正常化バイアスが働くから、それぐらい過剰に言わないとってなるんじゃないの」。すでに酔っ払い始めていた僕は、そんな言葉で返ってくることが寂しくなり、え、アジェンダ設定能力ってどういうことっすか、っていうかY田さんはそもそも何で記者になりたいと思ってたんですかと、フォア・ローゼスのソーダ割りを煽りながらY田さんに絡んでいた。