7時半に起きる。トーストとヨーグルトを食し、4日に取材したぶんのテープ起こしにようやく取り掛かる。昼、マルちゃん正麺(醤油)。15時過ぎ、東西線の直通で荻窪に出る。青梅街道をずんずん歩いていくと、四面道という交差点を越えたあたりに真新しい看板が見えてくる。今日開店したばかりの本屋「Title」だ。店内は大盛況で、こちらまでめでたい気持ちになる。ツイッターで話題になって気になっていたものの、他の書店ではあまり目に留まらなかった都築響一『圏外編集者』、『尾崎放哉全句集』、それにちょっと目立つ位置に置かれていた井伏鱒二荻窪風土記』を購入する。

 帳場の向こうが喫茶店になっていた。ちょうど席が空いていたので座り、Titleブレンド(450円)をいただきながら『荻窪風土記』をめくる。「私が荻窪に引越して来たのは昭和二年の夏である。その頃、夜更けて青梅街道を歩いていると、荷物を満載した車を馬が勢よく曳いて通るのに出会った」という文に、あらためて不思議な気持ちになる。後ろを振り返ると、店内にはお客さんが途切れずやってくる。顔見知りの編集者の姿も見えた。印象的なのは、子連れのお客さんの多いこと。これはむしろ町の特徴なのだろう。喫茶店のお客さんも顔見知りらしく、店員さんとなごやかに話していたり、初対面のお客さん同士が話していたりしてアットホームな雰囲気だ。そうした雰囲気に触れるたび、どうして自分の生活にはアットホームさがないのかと考えてしまう。

 せっかくだからまっすぐ荻窪駅には戻らず、西荻窪駅のほうへと歩く。ずうっと住宅街が広がっていて、西荻窪駅が近づいてくると文化的な店がたくさんある。

 先に言ったように、昭和二年の五月、私はここの地所を探しに来たとき、天沼キリスト教会に沿うて弁天通りをぬけて来た。すると麦畑のなかに、鍬をつかっている男がいた。その辺には風よけの森に囲まれた農家一軒と、その隣に新しい平屋建の家が一棟あるだけで、広々とした麦畑のなかに、人の姿といってはその野良着の男しか見えなかった。

 今年は昭和91年だが、100年にも満たない時間にこれほど風景が変わるものかと不思議な気持ちがする。西荻窪駅に到着して、久しぶりで「戎」で酒でもと思ったが、昨日、一昨日と2日続けて酒を飲んでしまっている。誰かと飲むならともかく、一人酒はやめておこうかと駅近くのドトールに入り、読書。19時過ぎ、高田馬場のアパートに戻り、一人でキムチ鍋を食す。

 食後、正月からチビチビ読み進めていた幸田文『流れる』を読み終える。非常に面白く読んだ。主人公の梨花柳橋芸者置屋に住込み女中として働きだす。“しろうと”が“くろうと”の世界を覗いているわけだが――そしてそれは幸田文の経験に基づいているそうだが――その目の鋭さ。いや、鋭いというのともきっと違うのだろう、その目。

あとは地声に落して何か隠語のようなもので云う。梨花は圧迫を感じて聞いている。芸妓のこうした役に立ちかた、行きとどきかたに圧迫を感じる。しろうとのはしこい奥さまの行きとどきかたよりもう一段すっきりしたものが迫ってくるようにおもうのだった。それに夫婦という押しつけがましさがない。ほんとうなら夫婦には押しつけがましさがないはずで、こうした芸妓との関係こそにちゃっとしたうるささがあろうとおもえるのに、このひとの電話を聴いていると、雇傭関係に似たさっぱりとしたサーヴィス精神みたいなものが快いのである。(p.48)

 印象的なのは、お金の出てくる箇所(この小説の筋も、お金というものが大きく絡んでいる)。

この土地へ来て梨花がいちばんいいと思うのは、よそ土地よりすべて買いもの売りものの数にみえがないことだった。どこの土地だって売りものの値は一で立ててある。それだのに一ツだけ買うことは、処により何かひけめを感じさせる。それも廉いたべものだとよけい売るほうはろ骨にぞんざいにする、だから気がねがある。それをこの土地はもり蕎麦一ツ持って来い、はいはいと腰が低い。鱈一トきれ、バナナ一本、なんでも一ツが気がねなく通る。どうしてこう一ツが快く通るかといえば、この町をかたちづくる大部分の住人は芸者さんだからである。芸者さんはたとえ一ツ家に大勢一緒に住んでいても、一家族とは趣が違って一人一人の集合である。だから一人で稼いで一人でたべるのである。家族の複数が単位でなく一人の経済がいくつも集まって町の基礎をなしているとすれば、いきおい売りもの買いものは一人分が幅を利かしていて、少しもひけめを感じさせないのである。(p.108)

 主人公の梨花は、“しろうと”の世界よりも“くろうと”の世界に惹かれてゆく(もちろん、惹かれるというだけでは終わらないのだが)。体調を崩し、従姉の家にころがりこんだときの描写にもそれはあらわれる。

 気にすれば粥一ツにだって強さ弱さは岐れる。この粥のなんというあたじけなさ、まずさ、二千円はずんである粥がこれである。七日間三食で二十一食になる、そんならいくらかにつくか。うどん玉一個に葱添えて十円、コロッケ一個五円、コッペ一ツは十円、団子一ト串十円、米は一合十七円だ。うちのものは餅に飽きておひやをふかしてたべるだろう、ふかしごはんの残ったびしょびしょへ水をぶちこんで一トふきさせれば、こういうまずさになるのを梨花は知っている。はっきり実際で承知しているのだ。米粒の荒れがそれを明らかにしている。生ぬるくうすら冷たく性のぬけた粥を、出す人は羞しげもなく、出された粥のほうが病人に恐縮しているのである。
 文句を云う気はない、ただそういうことだと思うだけだ。(pp.171-172)