酔っ払って早く眠ってしまったせいか、朝5時に目がさめる。キッチンには袋のチキンラーメンカップチキンラーメンが置かれている。昨日の夜に、知人に「チキンラーメン買っといて」と連絡したような記憶がボンヤリ残っている。袋麺の方を食し、二度寝。再び目をさましたのは10時過ぎだ。知人が食べていたカップチキンラーメンを一口だけ分けてもらう。

 知人はマームの「夜三作」(昼公演)を観るべく、12時頃に出かけて行った。僕はひとりで「ヤミツキ」に出かけ、牡蠣のカレーを食す。ハートランドを1本飲んだ。隣で大学生がサークル内恋愛の生々しい話をしており、今年で34になるというのに緊張してしまった。しかし、そうした話は酒のツマミになるかもしれないが、昼のカレーライスには少し生々し過ぎる。

 夕方、「夜三作」(夜公演)を観るべく、埼京線与野本町へ。整理番号は4番なので、開場と同時に中へ入り、最前列の端の席を確保する。開演まで30分あるが、一度外に出て、コンビニでアサヒスーパードライ(500ml)を買ってくる。開演まで10分と迫ったところで蓋を開け、一気に飲み干してから席に戻る。

 夜三作は今日が千秋楽で、この回が最後の上演だ。『Kと真夜中のほとりで』で描かれるのは、Kちゃんがいなくなってしまった小さな町の物語だ。誰もがいなくなってしまったKちゃんに引きずられて生きている。Kちゃんがいなくなって10年目のその日、登場人物たちは夜の町を歩いている。Kの兄・かえで(尾野島慎太朗)は、何かあるんじゃないかと思って、Kを探して歩いている。

  彼らが全員揃うのは、町にある大きな湖のほとりだ。その湖は、いなくなったKちゃんの靴が発見された場所でもある。その場所に、一人だけ不在の登場人物がいる。成田亜佑美が演じるりりこだ。登場人物のうち、彼女だけは夜の町を歩いていない。冒頭のシーンで彼女は、「子どもを寝かしつけて、食卓テーブルに寄りかかって、時間を持て余している」という台詞を口にする。もちろん、だからといって彼女が10年前に引きずられていないというわけではない。

 「私だって、今夜が、どんな今夜であるかだなんてもちろんわかっている。でも私は、今って時間を生きていて、すぐ隣の寝室からはたくやの寝息が聞こえる。私にとっての今って時間は、つまりはこういう時間のことだ。今は過去ではない、今を重ねて未来へ行く、私だってそれはわかっている、今夜がどんな今夜であるかだなんてもちろんわかっているけどでも、今は過去に引っ張られてちゃいけない、過去に引っ張られていちゃ未来へ行けない」

 初演に比べると、りりこというキャラクターの立ち位置はより鮮明になったように感じる。彼女だけが夜を歩いておらず、最後には子どもを連れて町を出るという決断を下す。初演のときも、りりこが町を出るところで終幕を迎えていたが、再構成されて上演された今作では、上の台詞にもあるように、「過去」、「現在」、「未来」という三つの時間が明確に語られている。

 成田亜佑美がマームとジプシーの国内公演に出演するのはいつぶりのことだろう。最後に観たのは2014年6月の『ΛΛΛ 帰りの合図、待ってた食卓、そこきっと』という作品だから、1年半は出演していなかったことになる。そのあいだ、マームは(マーム主催でない公演も含めると)5つの作品を上演し、国内ツアーも2度行っている。ただ、そのあいだに彼女が作品に出演していなかったわけではなく、『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて。』という作品の海外ツアーに参加していた。

 『てんとてん』という作品でもまた、登場するキャラクターたちは10年前のことを振り返っている。そこで成田亜佑美が演じる「あゆみ」はこう口にする。「これが10年前だ。わたしたちは、あの春、離れ離れになった。そしてあれから、それぞれ別々の方法で。この町で起こったこと、あの殺された女の子のこと、あやちゃんのことも。記憶の端っこに追いやって、やがて忘れていくのだった」。

  ここで語られている「この町で起こったこと」ということをどう受け止めてどう語るのかということが、ツアーを続ける上で一つの鍵となった。『てんとてん』という作品で、彼らは3年ほどツアーを行ってきた。最初の年はイタリアとチリ。2年目はボスニアとイタリア3都市。3年目はドイツに旅をした。『イタリア再訪日記』にも書いたように、その問題が表面化したのは2年目のときだった。

 ボスニアという街は、(彼らが公演を行った)100年前にサラエボ事件が起きた街で、第一次世界大戦の引き金となった街だ。そして、1992年から1996年までのあいだは紛争が起こり、小さなサラエボの街は包囲された。砲弾や銃弾が飛び交い、大通りは「スナイパー通り」と名付けられた。その大通りを歩いているサラエボ市民を、遠くからスナイパーが狙っていたからだ。それから20年近く経った今も、ビルには戦争の傷跡が多く残っている。

 『てんとてん』という作品は、少し言葉が悪いかもしれないが、サラエボという街で起こったことに似合い過ぎていた。だからこそ、「この町で起こったこと」という言葉を語るのには勇気が要るし、慎重にもなるし、いろんな思いがそこに込められることになる。その反動(という言葉は本当は正確ではないのだが長くなるので「反動」と書く)で、次に訪れたイタリア・ポンテデーラという町で、成田亜佑美はその台詞をどう語ればいいのか戸惑っていた。ポンテデーラはいかにもロードサイドの町であり、「この町で起こったこと」という言葉をどう語ればいいのか、悩んでいた。公演が始まる前、スーパーへと買い物に出かけている道すがら、彼女は藤田さんに「この町って、どこを思っていえばいい?」と訊ねた。キッチンに戻ってから、長い話し合いが持たれた。そこで藤田さんはこんな話をした。

 「だから、ボスニアでやったときに『この街で起きたこと』ってことを言えた感触があったとしたら、ポンテデーラに来たからと言って、それをチャラにする必要はないんだよ。今は偶然ポンテデーラってところにいるけど、ここの土地のことは他の土地と同様に知らないし、ここの土地の人たちのことだって他の土地の人たちと同様に知らないじゃん。それはあえて平等にしていかないと駄目なんじゃないの。だから『てんとてん』の中では、あえて3.11の話も9.11の話も言ってるわけだよね。そうすると、「どことしてやればいいの」ってことじゃなくて、ポンテデーラにいるってことはあるはずだし、どこの土地でも『てんとてん』の中のフィクションの世界をやるっていうのもあるわけだよ」

「うん、そうだね。それはずっとそう思ってたけどね」

「だけど、サラエボに関しては皆の中のパワーバランスが崩れたかもしれないっていう危機感はあるよ。その危機感はずっとあるから、その話は皆としたいんだけど。だけど――こう、蓄積していくじゃん」

「うん、そうだね。蓄積をやりたいんだけど、難しかったら聞いてみた」

「だけど、それでも蓄積をやるしかないよね。蓄積をやるんだけど、それは『どこをやればいいの』とかじゃないよね。蓄積をやるんだけど、そこはポンテデーラだし、『てんとてん』の世界だってことはないと駄目なんだと思う」

 ツアーをしていると、いろんな人に出会っていく。その町に触れていく。ただ、私たちはいつも「旅する人」であり、出会った人たちとは必ず別れてきた。その積み重ねを、今回久しぶりに国内公演に出演した成田亜佑美の声に感じた。出会った人たちのことを振り返り続けるし、訪れた町のことを思い続ける。過去に引きずられ続ける。引いた力の反動で、弓矢は飛ぶ。それと同じようにして、彼女は町を出て未来へ向かう。今回、『K』という作品を再構成して一歩進めた作品として上演できたのは、彼女の存在感が大きく影響しているのだと思う。

 ところで、『てんとてん』という作品の中で「この町で起こったこと」という台詞が登場するのは、成田亜佑美吉田聡子によるダイアローグの直後である。吉田聡子の存在もまた、『Kと真夜中のほとりで』という作品を強固なものしている。5年前の初演の時、彼女の声は(あくまで今振り返ってみるとという話だけれど)もっと弱々しかったように思う。それに比べて、どんどん逞しくなっている。

 印象的だったシーンがある。それは、登場人物たちが湖を眺めているシーンだ。舞台上には吉田聡子も立っているが、彼女は輪に加わらず、ひとり遠まきにいる(そのことを自ら語ってもいる)。その姿を見ていると、僕が最初にマームとジプシーを観始めた頃のことを思い出す。最初にツアーに同行した時、一番近寄りがたかったのは彼女だった。彼女の身の回りには、世界で起こっているすべてのことに納得がいかないと異議申し立てをしているかのようなオーラが漂っていた。

 ツアーに同行するたびに、彼女の印象は変わっていった。どう言えばいいのかわからないけれど、世界に対する好奇心が開かれてゆくようだった。その変化は、舞台に立っている姿に多少なりとも影響を与えているように思う。湖に町の皆が集まっていて、一人だけ離れた場所からそれを眺めている――そのシーンを5年前に観たとすれば、もっと拗ねたキャラクターに見えていたかもしれない。輪に加わることができないように見えていたかもしれない。だが、今の彼女は、何か一つの意志を持ってその輪の中にはいないように映る。

 「私たちは探して歩こう、真っ暗闇を行こう、今夜、たった一つの弱々しいヒカリを探して」――そう語る吉田聡子の姿には、傷つきながらも一人で歩き続ける意志を感じる。舞台が終盤に差し掛かるあたりで、彼女は後ろ向きで進みながらこう語る。「私たちは、終わらない真夜中を、終わらせなければいけません。朝に向かって。終わりに、向かって。続けます」。

 そう語りながら、彼女は手を前に突き出している。その左手は、ときどき何かに引っ張られるようにぶれる。それは演出ではないだろう。成田亜佑美が過去に引っ張らられれば引っ張られるほど、その反動で未来に向かっていくのに対して、吉田聡子は現在という場所を歩き続ける。何かに引きずられながらも、一つの意志を持って地べたを歩き続けている。その姿もまた印象に残る。

 もう一つ書いておかなければならないのは、川崎ゆり子のことだ。彼女の存在感はいつも独特だ。今回、初日が明けたあとで追加されたシーンがあるが、それは川崎ゆり子のモノローグである。彼女の語りは独特のトーンとリズムを持っている。ちょっと変拍子みたいなリズムだ。その直線的ではない語りがあるからこそ、ここ最近、マームとジプシーにおけるモノローグとダイアローグのあり方が更新されつつある。以前はモノローグとダイアローグとが折り重なって一つのエモーショナルな瞬間を迎えていたのだが、それが少し変わってきたのだ。

 それがハッキリ現れたのが、去年秋のポンテデーラにおける滞在制作だ。イタリア人俳優と日本人俳優とで作られた『IL MIO TEMPO』という作品は、成田亜佑美と川崎ゆり子による語りで終幕を迎える。それは二人によるダイアローグというわけではない。でも、これまでのマームとジプシーで採用されてきた(時にエモーショナルな)モノローグではなかった。それはもっと淡いトーンのモノローグであるのだが、二人が交互に繰り返すモノローグはどこか重なり合い、一つのピークを迎えることになる。そのトーンは、新しいマームとジプシーを感じさせた。

 ただ、イタリアの滞在制作で達成されたものを思い出すと、今回の川崎ゆり子は少し物足りないという気がする。いや、もちろん悪かったなんてことはないのだけれども、「もっと行けるだろう」という感じがしてしまう。彼女は今回、夜の町で偶然かえで君と偶然出くわすシーンを演じているのだが、そこでゆき(川崎ゆり子)は「Kちゃんのお兄ちゃんですよね」と声をかける。

 「あれから私も考えたんですけど、Kちゃんは、入り口に立ったのかもしれないなって、そう思うんです」、「でも、だから、いなくなってないと思うんですよね。まだどこかにいると思うんですよね」。ゆきはかえでにそう語りかける。すごく現実的に考えたとしたら、普通の大人はそんなふうに声をかけられないだろう。かえで君がずっとKちゃんのことを考えてこの10年を過ごしてきたことを、町の人は皆知っている。それからちょうど10年経った夜にかえで君と出くわしたとき、私たちは声をかけられず、ただ見守ることしかできないだろう。

 でも、ゆきというキャラクターはそこで声をかける。「いなくなってないと思うんですよね」なんてことを口にしてしまう。それは、彼女は彼女で、彼女は彼女のリズムで、いなくなってしまったKちゃんのことを考え続けてきたからだ。ただ純粋にそのことだけを考え続けてきたからこそ、そこでぽろんとその言葉を口にしたはずだ。小さなこどもが悪気もなく思ったことを口にするような純粋さで、それを口にしたはずだ。でも、川崎ゆり子の語り口は、もっと普通の大人のトーンに聴こえた。

 別にこどもっぽくしゃべる必要があるだとか、バカっぽくしゃべればいいとか、そういうことを言っているわけでは当然ない。これは『書を捨てよ町へ出よう』のときもそうだったが、彼女は一つのことを考え続けてしまっている(ある意味では自分ひとりの世界に生きてしまっている)キャラクターを任されている。そこで求められているのは、従来のモノローグでもダイアローグでもない、もう一つ違う次元にある語りではないかと思う。でも、彼女のその語りは、モノローグあるいはダイアローグとして聴こえてくる。

 観ているときに思い出したのは、昨日の穂村さんの講演会のことだ。そこで穂村さんは平岡あみという若い女性の短歌および改悪例を紹介した。

大仏の前で並んで写真撮るわたしたちってかわいい大きさ 平岡あみ
大仏の前で並んで写真撮るわたしたちってとても小さい   改悪例

 ここで「とても小さい」と感じるのは普通の感覚で、いわば“社会”の言葉である。そうではなく、それを「かわいい大きさ」と感じるのが“世界”の言葉であり、その感受性があるからこそこの短歌が素晴らしいものになっているのだ、と。ただ、若いうちは魂が柔らかく、それを「かわいい大きさ」と感じることができるけれど、“社会”で生きていくうちに私たちの多くはその感受性を失ってゆく(反対に言えば、年を重ねてもその感受性を維持できている人が詩人や歌人になれるということになる)。

 川崎ゆり子という人は、この「かわいい大きさ」的感受性を持っているのだと思う。でも、舞台でそれが開花しきっているかと言えば、まだまだポテンシャルのある役者ではないか。そんなことを考えながら劇を観ていた。終演後は楽屋に案内してもらって、アサヒスーパードライをもらって飲んだ。役者の皆もくわわって、既にバラシが始まっていた。劇場を出ると小雨が降っていた。初日をのぞいて、ここにくるたび雨に降られている。駅前のファミリーマートスーパードライを2缶買って、車窓に見える光をボンヤリ眺めながら帰った。