午後、新宿へ。15時に『あっこのはなし』の通し稽古が始まる。僕は撮影係。急な坂スタジオで観た時よりもずいぶん手が加えられているが、撮影中は考える余裕がなかった。劇場にはロビーがない――正確に言うと、ロビーがあるが椅子などがない――ので、屋上庭園のようになった場所でぼんやり過ごす。ほどなくして18時になり、締め出されてしまった。

 19時、『あっこのはなし』初日を観る。最前列で観た。30代を迎えた女子3人を中心とした会話劇に仕上がっている。随所にあるあるネタが散りばめられており、藤田さんの前々からの持論である「北海道民は粉雪に『ねえ』とか話しかけないから」というツッコミ(と、その対比としての「winter,again」話)もついに持ち出されている。何より印象的なのは、その「30代を迎えた女子3人」だ。

 3人を演じるのは斎藤章子、伊野香織、小椋史子である。伊野香織は3年ぶり、小椋史子は実に7年ぶりの舞台だが、特に小椋さんはブランクを感じさせない。年下女子に(エアーで)捲したてる彼女の姿を観ているうちに、「そうだ、この舞台を知人にも見せよう」と思ったほどだ。それは、ブランクを感じさせないようなテキストと演出を与えているからでもあるのだろう。藤田貴大という劇作家は、その人をその人たらしめているような何かを見出すのが抜群にうまいのだなあと改めて唸らされる。

 『あっこのはなし』は、三作同時上演の二作目として上演されている作品だ。それが『カタチノチガウ』と『てんとてん』に挟まれているということについても想いを馳せる。

 かつて藤田貴大は「僕は過去のことしか描かない」と言っていたことがあるけれど、その彼が初めて「未来」という言葉を用いたのは『カタチノチガウ』という作品だ。三姉妹がまだ幼かった頃から始まる『カタチノチガウ』は、彼女たちが成長するにつれて少しグロテスクとも言える展開を見せ、最後には「想像もしていなかった」未来にたどり着く。

 エピローグに至ると、街は洪水で流され、さらには戦争も始まり、世界はすっかり荒廃してしまう。そのディティールは描かれない。三姉妹が暮らしていたお屋敷は街の高台にあり、被害を免れていたからだ。変わり果てた風景を前に、次女は「なにこれ。未来すぎる」とつぶやく。そのお屋敷に戻ってきた長女は、自らの子を、未来を、血の繋がらない妹に託して命を絶ってしまう。この「血の繋がらない誰かに未来を託す」という行為は、演劇そのものであるとも言えるし、人間の営みだとも言える。舞台のラスト、脚立の最上段に立って叫ぶように語る観客は、とてつもなく大きな何かを託されているような気持ちになる。

 『カタチノチガウ』が未来について――過去から未来へと続いていく歴史の縦軸について――触れているスケールの大きな作品だとすれば、『てんとてん』は歴史の横軸に触れた作品だと言える。もちろん『てんとてん』にも縦軸は登場するのだが(むしろ時間が経過するということが強調されているのだが)、初めて海外で公演するにあたり、同時代にまったく違う日々を過ごす私たちということにクローズアップした作品だと言える。

 話がぼんやりしてきたので具体的に書く。『てんとてん』の中では、9.11に触れた話が登場する。それはこんな台詞だ。


「あの日は、、、たしか、、、日本の時間でいうと、、、けっこう、、、夜で、、、、、、ぼくは、、、たしか、、、風呂あがりで、、、アイスとか、、、食べながら、、、、、、ソファで、、、くつろいでいて、、、それで、、、テレビつけて、、、つけたとこが、、、ちょうどニュース番組で、、、、、、それを見ていたら、、、突然、、、なにかの中継の、、、映像に切り替わって、、、、、、その映像には、、、日本じゃないどこかの国の、、、ビルが映っていて、、、、、、そのビルには、、、さっき、、、、、、飛行機が、、、一機、、、突っ込んだらしい、、、との報道がされていて、、、、、で、、、ぼくが、、、なにこれってことで、、、見ていたら、、、さらに二機目が、、、、、、そのビルに突っ込んで、、、」

 海外で上演されたときには、3月11日という日付についても触れられる。9月11日のことも、3月11日のことも、あえてざっくりとした触れ方で語られる。私たちが生きている同じ時代に、同じ世界に、悲劇が起きている。起き続けている。しかし、同時代を生きているにもかかわらず、「私」は被害を受けておらず無関係であり、安全に日々を過ごしている――それを浮き彫りにするために、あえてざっくりとした語り方で遠い世界の出来事に触れている。

 でも『あっこのはなし』という作品は、『カタチノチガウ』のように遠い未来の話を持ち出すこともなく、『てんとてん』のように同時代の遠い世界を引き合いに出すこともなく、ひたすら極小の世界で構成されている。2016年の春の、マームとジプシーの皆が今所属している世界の規模から離れることなく構成されている。出てくる場所はルームシェアする家やサウナ、婚活パーティーといったくらいのものだ。

 上演中は、マームの作品としては珍しく笑い声が多かった。でも、おかしみだけをもってこの作品を語ると、大事なことを見落としてしまう気がする(逆に言うと、『カタチノチガウ』だって『てんとてん』だっておかしみがあるのに、笑いが起きないのはどういうことだろう)。

 印象的なのは石井亮介という存在だ。彼が演じるのは公務員の男だ。役を演じる彼自身、地元で公務員をやっていたという経歴を持つ。舞台上で語られる話の8割は実話だろう(あとの2割がフィクションだということがミソでもあるのだが)。路上で遭遇した同級生と語っていた“いしいくん”は、突然こう語りだす。「うちらも、路上で大きな声でしゃべってるけどさ、これだっていつまでできるんだろうね。いい加減考えるよね」と。

 舞台の終盤、“いしいくん”は“いのちゃん”に告白をする。そこで“いしいくん”は、公務員を辞めて、この町を出て、とても暖かい島で暮らすことだってできるし、その気になれば何だってできるのだと言葉を続ける。だが、彼はあっさり振られてしまい、「辞めないで、公務員」と淡々とあしらわれてしまう。“いのちゃん”が去り、一人残された舞台で彼のモノローグが始まる。

「でも、どうやって生きていくの。こうやってこのまま、何の刺激もないまま、生きていっていいの? だって、どうすんの、俺。だってさ、つまんないんだもん。年々、歳を重ねていくけどさ、どっかで落ち着くと思ってたけど、落ち着くどころか、酒の量増えてくしさ、酒飲んでも満たされないしさ、ますますだよ」

 この作品は、30代を迎えた彼らの“自画像”だと言える。それは同時に、私(たち)の自画像とも重なる。『カタチノチガウ』で語られる「どこへもゆけない、わたしたち」という言葉が浮かんでくるし、『てんとてん』で語られる、私たちの生きている世界の狭さとも通底する。

 印象的だったことがある。

 『あっこのはなし』に出演する6人が一堂に会するのは、婚活パーティーのシーンだ。そこで“いのちゃん”が出会った男性が、キムタクと同い年でバーを経営する“なかしまさん”だ。二人は良い仲になりかけるが、“なかしまさん”は既婚者で子持ちであることが判明する。それを知った“ふみちゃん”が問い詰める。

 「あそこでブランコとかシーソーで遊んでる子供たちを観て、どう思うんですか」
 「……あ! ……え? どうって?」
 「重ねたりしないんですか?」
 「いや、考えたこともなかったね。でも、勝手に育つの、子供っていうのは」

 ここにある断絶というのは、これまでマームを観てきたなかではあまり感じたことのなかったものだ。もちろん、常に断絶は描かれている。しばしば描かれる「別れ」や「町を出る」というモチーフだって断絶だ。違う道を生きていくのだという決意があるから別れがあり、町を出るという選択肢がある。それはわかっている。だが、それはわかりあえていた人たちの断絶であるし、出発点である。

 “なかしまさん”は40数年人生を歩んできて、こういう人間に育った。彼に倫理を説いたところで何も通じないし、彼の考えが変わることはそうそうないだろう。まったく価値観を共有できない存在が突如として自分の世界に登場する――この断絶を前に、人はどう振る舞うのかということを、マームの舞台でもっと細かく描くとどんなことになるのだろう。そんなことを想像した。

 ただ、どうしても引っかかったのは会話のリズム。ここ最近の藤田演出作品は、以前にもまして声による旋律やダイアローグの間に対して意識を研ぎ澄ましている。その流れで考えたときに、物足りなさを感じなかったと書けば嘘になる。

 もう一つ、これは引っかかったというよりも印象的だったことなのだけれども、ラストに“あっこ”のモノローグが登場する。それを語り終えると、別の二人が「リビングのあっこの花、死んじゃったね」と語りながら歩いてゆく。そのあと、舞台面に立ち尽くす“あっこ”にピンスポットがあたる。さらに何か語られるのだろうかと思っていると、照明が暗くなっていき、終幕を迎える。そこに言葉が不在であることは一体何だろうと、観終えたあとも、しばらく考えていた。

 観劇後、初日乾杯。缶ビールをいただく。乾き物など軽食が並ぶテーブルにはホールケーキが置かれていた。聞けば、「死ぬ前に食べたいものは?」と聞かれた時にN.Aさんが迷わず挙げるケーキなのだという。中国地方でしか手に入らないケーキだが、結婚式で出かける用事があり、買ってきたそうだ。普段なら手をつけないところだけれど、そう聞くと食べてみたくなる。美味しいケーキだけれど、何てことないといえば何てことのない味だ。このケーキを挙げるところにN.Aさんという人が詰まっているような気がするし、この人にはかなわないという気もする。