朝9時、国境が崩壊してゾンビがなだれ込んでくる夢で目がさめた。国境はなぜか地続きだった。ジョギングに出たあと、ゆでたまご(2個)とヨーグルト、それにきんぴらごぼうを食す。昼はひたすら日記を書いていた。14時、昨日と同じくラ王(醤油)を食べる。昨日読み終えた深沢七郎対談集『生まれることは屁と同じ』を取り出し、付箋をつけた箇所をパソコンにタイプしていく。それをやり終えたところで、昨日の日記を書く。

 16時過ぎにアパートを出る。久しぶりに西早稲田駅に向かってみると、マツダ高田馬場店)がオシャレにリニューアルしている。黒を基調としたシックなデザインだが、一体何を考えているのだろう。隣には格安のアジア料理店や、ビールが150円で大学生御用達の居酒屋「わっしょい」の並びに、どうしてこんな店舗をオープンさせてしまったのか。

 東急東横線直通の副都心線に乗って横浜を目指す。あえて各駅停車を選んで椅子に座り、車内ではずっと『S!』誌のテープ起こしをやっていた。横浜駅に着いたところでバタバタと電車を降りて、あ、と気づく。ケータイを残してきてしまった。いずれにしても横浜駅で受け取ることはできないだろう。そうすると、終点の元町・中華街駅か、あるいは気づいた人が隣のみなとみらい駅に届けてくれるかもしれないので、すぐにやってきた次の電車でみなとみらい駅まで行ってみることにする。駅員さんは運行ダイヤを調べてくれて、同じ電車が引き返して来たところで確認する。アイフォーンは自分が座っていた席に残っていた。

 駅の構内にドトールがあった。今日横浜にやってきたのは、19時半から演劇を観るためだ。ただ、19時半を目指して家を出ると電車が混雑する時間にあたってしまうので、早めに横浜まで出て、喫茶店で仕事をするつもりでいたのだ。そのドトールは比較的空いていたので、ホットコーヒーを買って窓際の席に座り、パソコンを広げる。さっそくテープ起こしに取りかかる。しばらく集中して作業を続けたところで、ふいに顔を上げる。目の前のガラスは通行人からの視線を遮るように半透明になっているのだが、向こうを歩いていた女性がふいにこちらに視線を向け、立ち止まる。はっきり姿が見えるわけではないけれど、これはきっと、あの人だ。向こうも偶然こちらに気づいたらしく、ドトールの中に入ってくる。その女性はやはりN.Aさんだった。

 「今日はちょうど、Aさんのことを考えたところだったから、びっくりしました」と伝える。さっきも書いたように、今日のお昼は昨日の日記を書いていた。そのために読み終えたばかりの深沢七郎対談集『生まれてくるのは屁と同じ』を抜き書きしたけれど、この本を読んだきっかけの一つはAさんだ。Aさんから「『バターケーキ』見つけました」とメールをもらったときにも深沢七郎の話を返そうかと思っていたけれど、話が長くなるし、深沢七郎とAさんがまったく同じタイプだと思っているわけでもないので、結局その話をするのはやめていたのだ。でも、こんなタイミングで会えたのだからと、Aさんにその話をした。そうして一番印象深い箇所を読んで伝える。

深沢 うまいものを食うと、あとでおれはかならずメシ食うの。おこうこのお茶漬けで。うまいものはあとがしつこくて、苦しいような、おさまりがつかないんです。で、メシ食うと、からだが落ち着くんですねえ。

 AさんからLINEをもらったときに、伝えようかと迷ったことがもう一つある。それは、僕のおばあちゃんのことだ。

 あれは10月中旬、奈良まで維新派の『アマハラ』という作品を観に出かけたときのことだ。飲み歩いて愉快な気持ちになったところで、久しぶりに母親に電話をした。今住んでいるアパートは狭いので、冬服は実家に保管してあるので、「そろそろ冬物を送ってほしい」と伝えるためだった。母親はいつもよりよくしゃべった。一体どうしたのだろうとさりげなく訊ねてみると、祖母が癌だとわかったのだと母は言った。両親が共働きだったこともあり、保育園に迎えにきてくれたのは母方の祖母だった。祖母は同じ町内に住んでいたけれど、別の家に住んでいた。小学校のときは一旦祖母の家に帰り、仕事帰りの母が迎えにくるまでは祖母に面倒を見てもらっていた。そんな祖母が癌を患っているのだという。

 祖母はもう89歳だ。この歳で手術を受けるのは体力的にも厳しく、自宅で死なせてやりたいから入院もさせないつもりだと母は言う。本人にも癌だということは伝えず、このまま様子を見るつもりだ、と。僕はどうすればいいのかよくわからなかった。そんなときに浮かんできたのはAさんだった。そこにも「バターケーキ」の話が関係していて、あの記事の最後も祖母の話でしめくくっている。Aさんのことを思い出したのにはもう一つ理由がある。『IL MIO TEMPO』という作品で、彼女はあるホテルを訪れる役を演じている。作品のラストに、彼女はこう語り出す。

 「このホテルの最上階。そこには私のおばあちゃんが、もう何年もずっと、宿泊しているという。アンドレアにお願いして、最上階の、おばあちゃんの部屋へ。おばあちゃんは窓辺にいて、ただ、椅子に座っていた。窓の先に広がる風景を、ただ、じいっと、眺めていた。おばあちゃんはもう私のことを覚えていない。家族のことも、覚えていない。私もおばあちゃんのこと、あまりに小さい頃のことだから、そんなに覚えていない。それでも会いに来たのだ。このホテルに、おばあちゃんに、会いに」

 僕はおばあちゃんに会いにいくつもりだ。いずれにしても年末には帰省するつもりだったし、病状が芳しくないという知らせがあれば早めに帰省するつもりだ。でも、会ったところで何ができるだろう。そんなことを、この1ヶ月ずっと考えていた。そのことを、あのキャラクターを演じたAさんと思っていた。いや、あのキャラクターを演じていなくても、このことについて話すとすればAさんだという気がずっとしていた。でも、いきなりそんな話をされても困るだろうと思って、LINEでは話さずにいた。でも、こんなふうに偶然会えたこともあって、ついそのことを話してしまう。

 「でも、会いにきてくれたら嬉しいんじゃないかな」とAさんは言う。少し間を置いて、「嬉しいって思いたいだけかな」と彼女は続ける。そこのところが、どうにもわからないのだ。祖母はもう何年か前からぼけてしまっていて、帰省して顔を見せに行っても、一瞬「誰だろう?」という顔をする。僕が倫史だと伝えると、「ああ、ともちゃんか。まあ、大きゅうなったねえ」と言う。そうしていつも2つのエピソードを繰り返し語る。その1つは、保育園からの帰り道の話だ。祖母が手を引いて歩いていると、同じ場所に差し掛かったところでいつも祖母に隠れるようにして歩いていたのだという。不思議に思って祖母が理由を訊ねると、その近くに犬を飼っている家があり、吠えられるのが怖くて隠れていたのだそうだ。そんな記憶は、僕の中には何も残っていない。

 祖母の枕元には、小さい頃の僕と兄の写真が飾られている。彼女が繰り返し語るエピソードは、写真の中の僕の話だ。それを何度も繰り返して語るということは、おばあちゃんは記憶の中にいるだけで、今僕が一緒にいるということは関係ないのではないか。しかも、僕の顔を見てそのエピソードを思い出しているわけではなくて、僕の名前を聞くことで2つのエピソードが思い返されているわけだから、会いに行ったところで何ができるというのだろう。もちろん、だから会いに行かないなんてことはないんですけど、何ができるのかわからないんですよね。そんな話をしていると、悲しいわけでもないのに涙が出そうになって、それを堪えながらAさんに話をした。

 「でも、ある記憶を思い出すことって、しあわせなことだと思う」。僕の話を黙って聞いてくれていたAさんが口を開く。「それがしあわせな記憶としておばあちゃんの中に残ってるから、おばあちゃんはその話をするんだと思う。だから、意味あると思うよ」。その言葉は、とてもAさんらしい言葉だと思ったし、今日こうして偶然会うことができて、こうして話をすることができて本当に良かった。19時になる頃にドトールを出て、改札の前でAさんと別れた。エスカレーターから振り返ると、まだAさんはそこで見送ってくれていた。

 19時半、STスポットでロロのいつ高シリーズvol.3『すれちがう、渡り廊下の距離って』を観る。「いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校」を舞台とした連作劇で、今回はタイトルにもあるように渡り廊下が舞台だ。この渡り廊下を、様々な登場人物が行き交う。その一人は“太郎”――vol.1で名前だけが登場した人物――だ。彼はこっちの校舎とあっちの校舎にいるカップルの伝言を伝えるメッセンジャーとして、何度も渡り廊下を走って往復する。“太郎”が途中でぶつかってしまう“楽”という男子は、この渡り廊下で待ち合わせをしている。彼が待ち合わせをしているのは“将門”という男子で、何度も電話で「まだこないのか」と連絡を取っている。

 今回の『すれちがう、渡り廊下の距離って』を観ていると、通信ということについて思いを巡らせることになる。誰かが何かを思ったり考えたりする。その感情が、言葉が、何かを媒体として発信される。手紙であれば配達人によって、糸電話であれば糸によって、昔の電話であれば交換手によって繋がれて、誰かに届いていく。そこには無数の線が交差していて、時にぶつかることもある。そうして考えを膨らませる上で印象的なのは、太郎にメッセンジャー役をお願いしている点滅という男子だ。彼はどうしても「直接会って話す」ということができず、太郎にメッセンジャーを依頼しているわけだが、次第に彼の要求はエスカレートし、自分のメッセージを込めたラップを太郎に覚えさせようとまでする(このシーンを観ていると、電話の声というものは自分の声が直接発信されているわけではなく、機械によって音が情報として処理され、元の声に近い音声が相手に届いているのだという話を思い出す)。

 これまでの作品に比べても、この『すれちがう、渡り廊下の距離って』は希望にあふれている物語だと思った。自分の高校生の頃のことを振り返っても、あるいは今現在の自分自身を考えてみても、思っていることが届くなんていうことはなかなか起こらないことだ。どうしても伝えられない言葉があり、それはどこかへ消えて行ってしまう。でも、この作品を観ていると、「言葉は届くのだ」と希望がわいてくる。“点滅”も最後には彼女に直接思いを伝えることができたし、“白子”が“楽”のケータイで勝手に録画した映像も、時間差を経て“楽”の目に触れることができたのだから。

 いつ高シリーズを観ていていつも気になるのは2年8組の生徒だ。ここまでの3作に登場する8組の生徒は2人だけで、一人がvol.1とvol.3に登場する“白子”で、もう一人は“vol.2”に登場する“(逆)おとめ”である。8組の生徒に、僕はどうしてもシンパシーを感じてしまうところがある。それはvol.2『校舎、ナイトクルージング』を観た日の日記にも書いたように、僕が「自分の仕事はドキュメントだ」と思っていることとも関係がある。“(逆)おとめ”は学校には登校していないのだけれども、学校中にレコーダーを仕掛け、夜になると校舎に忍び込んでその音を聴いている。その音を聴いて昼の校舎を想像し、楽しんでいる。

 あるいは、vol.1における“白子”は、「その席だとグラウンドがよく見えるから」という理由で別のクラスの席に陣取り、校庭を眺めている。彼女は机の上にミニチュアの校庭を作り、校庭を走り続けている“太郎”を眺めている。彼女が座っているのは、“シューマイ”という男子の席だった。会話をしていくうちに、“太郎”が走った距離の分だけGoogleストリートビューで旅をしているのだと、彼女は“シューマイ”に告げる。この“白子”も、“(逆)おとめ”も、誰かと直接関わって何かが生まれるということを期待しているようには見えず、自分の中で完結した世界を生きている。そんな彼女たちのことがどうしても気になってしまう。

 今回、“白子”は“太郎”に封筒を渡す。その中に入っていたのはいくつもの写真だ。「たくさん走ったから、それあげる。私、旅するの好きで、旅先でたくさん写真撮ったから、あげてやる、太郎に」と彼女は語る。目的を果たした“白子”は満足そうな顔になり、それまで“太郎”をのぞくために使ってきた双眼鏡を――vol.1と同じものではなく、新調されていた双眼鏡を――渡り廊下のゴミ箱に捨てて去ってゆく。舞台が終わってからも、しばらくゴミ箱から目を離すことができなかった。彼女はどうしてこれを捨ててしまったのだろう。“太郎”に視線を注ぎ続けてきた彼女のことを、観客である「私」はずっと観ていた。僕はゴミ箱から双眼鏡を拾って、「これは持っておいたほうがいいよ」と伝えたい衝動に駆られたけれど、舞台が終わってしまった今となっては、拾ったところで渡すべき相手は消えてしまっている。