1月3日

 夢の中で、自分はロシアでスパイ活動をしている。カフェのテラスでコーヒーを飲んでいると、ふとした瞬間に、どうやら自分が囲まれていることに気づく。もはやこれまでかと、観念するように手を上げて立ち上がると、一斉に銃撃されてしまう。あ、死んだ、と思ったところで目が覚めた。初夢として救いがないにもほどがある。時計を確認すると6時過ぎ。兄夫婦は午前中の飛行機で帰るらしく、もう荷造りをして朝食をとっている音が一階から聞こえてくる。そろそろ出発するのだろうなという気配を感じて、7時過ぎに一階に降りると、父のカメラと、兄のカメラとで、家族写真を今で撮影する流れになる。兄からは一度も話しかけられないままだった。一度部屋に戻り、8時過ぎに朝食をとる。父と母もまだ朝食をとっていなかったらしく、一緒に食べることになる。

 冷蔵庫にひきわり納豆が残っていた。両親ともあまり納豆を食べないほうだから、不思議に思っていると、甥っ子が納豆好きだから買っておいたぶんの残りだという。パックを開き、フィルムを剥がしたところで、あーちゃんはねえ、12月5日じゃったか、あの頃から調子がおかしゅうなったんよ、と母が話し始める。朝ごはんを食べながら聞く話だとは思っていなかったので、納豆をかき混ぜる前にタレを入れてしまう。昔はタレを入れてから混ぜていたのに、なにかの記事で「混ぜてからタレを入れたほうが美味しくなる」と読んでからというもの、混ぜてから入れるようになっていたのになと思う。

 あの日ねえ、あーちゃんが急に、あーとかうーとか言うようになってねえ。どうしたんかと思いよったら、訪問看護の人らがきちゃって、「ああ、橋本さん、これはせん妄です」と教えられて。母は話を続ける。医者にかかって点滴を打ってもらったところ、少し祖母の症状は落ち着いたものの、高齢者に何度も点滴を打つわけにもいかないらしかった。話を聞きながら、僕は俯きがちに納豆ごはんを平げ、にしめをツマんでいた。「あの日は今年最大級の寒波がくる日でねえ、雪も積もるゆう話になっとったんよ」。体調が急変した日のことを、母はそう語り始めた。普段はそんな物言いをする人でもないのに、ほとんど物語のように語られることが印象に残った。

 食事を食べ終えても、まだ話は続いていた。どういう姿勢で聞いていればいいのか、うまい落とし所がわからず、皿の上で箸をごろごろさせていた。母が葬儀場での様子を説明しているうちに、死化粧の話になり、みるみるうちにきれいになったと母が言うと、「ものすごい綺麗になった」と父が合いの手を挟む。喪主は父だったので、最後に父が挨拶をすることになり、「チーム橋本で頑張りますてゆうたけん」と、どこか誇らしげに言う。「××のおばちゃんも、あんまり普段涙を流すほうじゃないのに、それを聞いて泣いてくれてねえ」と母。「父さんも泣いた」と、父が言う。その言葉を、どこかぼんやりした気持ちで聞いていた。

「ともに知らせんかったことは、悪いと思うとる」。ひとしきり葬儀の日の話が終わったあとで、父が言う。「あーちゃんのDNAを一番継いどるのは――もちろん兄ちゃんもじゃけど――一番はともだと思うとる」。本を読んだり、文章を書いたり、そういったことに一番馴染んでいるのは祖母だった。DNAなんてあるのだろうかと思いながら、箸を転がす。こういうとき、話している相手が取材で知り合った誰かなら、相手の顔――は直視できないにしても、相手のほうを向いて、「私はあなたの話を真剣に聞いています」という態度を示そうとするだろう。ここではそんな振る舞いをしないということは、自分の中で、家族あるいは血が繋がっている存在に対して、何か思うところがあるのだろうかと、ぼんやり考える。

 昼前、実家のまわりを散策する。高台に行って、町を眺望する。うちの近くには「団地」がある。集合住宅のそれではなく、山を切り拓いて住宅地に造成した、戸建てが立ち並んだ「団地」だ。ずっと空き地が残っていたのに、気づけばもうほとんど余白はなくなっている。うちの田んぼを眺める。それはすべて祖母の名義になっていたもので、もう兄と僕の名義に変えようと思っているのだと母は言っていた。もうずっと何も育てられていなくて、ただ父が草刈りをし続けているだけの田んぼだ。この場所をどうするのかも、あと10年のうちに考えなければならないのだろう。お昼は牡蠣ごはんと、昨日の水炊きの残りを平らげる。

 午後、自宅にあったアウターを着て、車に乗って隣町に出かける。25年くらい前に買った、ユニクロのやつだ。中高生の頃に着ていた服の大半はユニクロだった(あの頃は今ほど全国チェーンという印象がなかった気もするけれど、どうだろう)。ユニクロの駐車場の入り口と出口には警備員がひとりずつ立っていて、かなり賑わっている様子。ゆめタウンに向かうと、こちらも駐車場はほとんど埋まっている。空きスペースを探して、駐車場をぐるぐる旋回している車が何台もいる。通路に車を停車して、空くのを待っている人もいる。どうにか車を駐車して、「啓文社」(西条店)へ。Twitter経由で知っていたけれど、『東京の古本屋』を並べてくださっている。地元の書店に並んでいるのだと思うと、不思議な感じがする。以前、呉店に『ドライブイン探訪』を並べてくださっているのに気づき、店長のMさんにご挨拶したことがあったのだけれども、そのMさんが西条店に異動されている。自分の本に限らず、「これは」という本がいくつも並んでいる。

 文庫を2冊購入したのち、食品売り場を覗く。明日はHさんと約束をしているので、せっかくだから何かお土産を買っておこうと、物色する。白牡丹の大吟醸が目に留まる。実家と隣町のあいだにある酒蔵の酒で、箱のパッケージはよいのだけれど、中の瓶がいかにも贈答品といった仰々しい佇まいになっているのと、一升瓶を渡されても邪魔くさいだろうなとやめにして、同じく隣町にある賀茂鶴の飲み比べセットにする。あまり贈答品めいてないものをと、広島ならではの駄菓子だとか、調味料だとかを探してみたけれど、これといったものは見つからず、ソースや調味料は以前にもましておたふくソースの天下になっていることを知るばかりだった。行きはバイパスを通ってびゅーんと走ったぶん、帰りは昔ながらの国道を走る。隣町と実家のある町のあいだに、5年近く前に新しい駅が開業したのだけれど、その駅周辺に次々とマンションが建設されている。

 15時に帰宅して、もう一度三校を見返す。チェックを終えたところで、PDFに赤字を入れ、担当のHさんに戻す。これでもう、ぼくの手からは離れた。18時に夕食。引き続き鍋の残りと、牡蠣ごはんと、煮しめをつまむ。ニュースでは沖縄の新規感染者数が130人となったと報じられている。僕が滞在していた2週間前は3人だった。いよいよまた感染拡大期に入りつつあるのだろう。「これでまた大変じゃ」と僕が言うと、「まあでも、日本人はやっぱり、マナーを守るけん」と父が言う。ルールとは別に、マナーがあって、日本人はそれを守っているから感染者数が低く抑えられているのだと、そういうことを言いたいらしかった。

 特に何も言い返す気にならないまま鍋を平げ、1時間ほどで自分の部屋に戻る。今回はパソコンを持って帰るのを忘れるという致命的なミスをしてしまったので、何も作業を進められず、なんとなく『仁義なき戦い』と『仁義な戦い 広島死闘篇』を見返す。第一作のラスト、葬式にやってきた広能が祭壇に銃を撃ち、「まだ弾は残っとるがよ」と語るシーンは相変わらず格好良いなと思う一方で、この美しさというのは、現実において破れる側の美しさだと思ってしまって、しばらく考え込んでしまう。