6月23日

 目を覚ますと、雷の光が射し込んでくる。9時、ホテルを出て界隈を歩く。雨が降っている。路地を歩くこどもたちが、樋から勢いよく落ちてくる雨水に傘をあててはしゃぎ、走り去ってゆく。それは角のお菓子屋さんのこどもたちであったらしく、ひとりは回転作業をする家族のもとに駆け寄り、もうひとりは向かいの店の店員さんにちょっかいを出しに行っている。とてもあざやかな風景だ。花屋さんが早くから店を開けていて、百合の花がたくさん並べてある。新天地市場本通りまで歩いていくと、商店の軒先にある陳列台に、おばあさんたちが腰掛けて足をぷらぷらさせている。「上原パーラー」でじゅーしーおにぎりを買って、名刺を渡して、界隈を歩く。雨はいつのまにか上がっていて、晴れ間も覗いている。10時過ぎ、「ジュンク堂書店」を覗き、沖縄に関する本を5冊と、山本美希『かしこくて勇気ある子ども』を購入する。

 10時半にホテルに引き返し、11時にチェックアウト。荷物を少しだけ預かってもらって、最後にもう一周、界隈を眺めておく。国際通りにはロケ隊の姿があった。慰霊の日のまちの様子を撮影しているのだろう。「セブンイレブン」(新天地浮島店)で新聞2紙を買う。琉球新報は、新聞を包み込むように、紙面が1枚追加された特別編成だ。その紙には全面に写真が印刷されている。海と、そこにのぼる朝日だ。その紙面は、特別な印象をもたらす。一方の沖縄タイムスは、一面で「戦後75年」と報じながらも、トップ記事は嘉手納基地で昨日発生した火災を報じている。あえて今も強いられている現状をトップに据える沖縄タイムスにも、そして特別編成にした琉球新報にも、それぞれ批評性を感じる。

 ホテルで荷物を受け取って、タクシー(津嘉山タクシー/車番0120)を拾う。本がぎっしり詰まったスーツケースは重く、運転手さんがトランクに乗せるのを手伝ってくれる。空港に向かってもらうあいだ、信号で停まるたび、運転手さんが手を拭っていて、なんだか申し訳なくなる。昨日の夜に買った傘は、タクシー運転手さんに引き取ってもらうつもりでいたけれど、受け取ってもらえないかもしれない。逡巡しながらも、空港にたどり着いたところで「もしよかったら」と伝えると、「雨が降ったとき、お客さんに渡します」と喜んで受け取ってくれてほっとする。

 11時45分、チェックイン。スーツケースは24キロを超えていて、超過料金として1000円支払う。レストラン街のあるフロアに移動して、テレビのある店を探す。12時からはNHKで慰霊祭の中継が放送される。飲食店には行列のできている店もあった。端から端まで歩いてみても、どこにもテレビのある店はなかった。チェックインカウンターがあるロビーにテレビが設置されていたことを思い出し、「ローソン」(那覇空港店)で缶ビールを2本買って、テレビを探す。ちょうどテレビの目の前が空いていた。チャンネルもNHKに合っているようだ。ほどなくして12時になる。中継は始まらず、マーケット情報が流れ出す。NHKNHKでもBSにチャンネルが合っているようだ。うかつだった。他にテレビを観ている人はいないので、テレビの横にあるスイッチでチャンネルを通うとしたところ、操作できない設定になっている。慌てて荷物を抱えて、中継が流れているテレビを探す。どこに行っても、慰霊祭の中継は観られなかった。

 これはもう、出発ロビーに出るしかない。お土産を選ぶことなく、保安検査場を通過し、テレビがある場所を探す。チャンネルはやっぱりNHKに合っていなかったけれど、カウンターの職員の方に話し、チャンネルを変えてもらう。なんとか玉城デニー知事の平和宣言の途中から聞くことができた。汗を拭きながら缶ビールを開ける。ちょうど新型コロナウイルスに言及しているところで、「この感染症は、病気への恐れが不安を呼び、その不安が差別や偏見を生み出し、社会を分断させるという怖さを秘めています」と語る姿に感銘を受ける。「ここ平和祈念公園には、国籍や人種の別なく戦争で亡くなられた全ての方々の名前を刻む『平和の礎』があります」とした上で、ヒロシマナガサキにも言及し、分断ではなく連帯を呼びかける。沖縄の慰霊の日における平和宣言でありながらも、沖縄だけのことに言及するのではなく、あとで全文を読むと中村哲医師のことにも触れられていた。ここにはたしかに言葉がある。

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 続いて平和の詩の朗読が始まる。2013年から慰霊祭に足を運ぶようになって、平和の詩の朗読を毎年楽しみにしている(ここ数年は早朝から足を運んでいるので、リハーサルから聴いている)。今年は式典の規模が縮小されるということもあり、現地に足を運ぶことは早々にあきらめたけれど、どうにかリアルタイムで聴きたくて、空港内を駆けまわったのだった。これまでぼくの中で強く印象に残っているのは、2013年に小学1年生が朗読した「へいわってすてきだね」で、そこにある「よなぐにうまが、ヒヒーンとなく」という一行の声の響きを今でもはっきりおぼえている。それはとてものんびりした声で、与那国ののどかな風景がありありと目に浮かんでくるようだった。

 今年の朗読は、「懐中電灯を消してください」という言葉で始まる。詩の中でも鉤括弧つきで表記されているが、これはガマを見学したときに、ガイドの方が発した言葉だろう。詩の朗読でも、そのように発語されている。

 

「懐中電灯を消してください」
一つ、また一つ光が消えていく
真っ暗になったその場所は
まだ昼間だというのに
あまりにも暗い
少し湿った空気を感じながら
私はあの時を想像する

 

 最後に入ったのは5年前か、アブチラガマを見学したときのことを思い出す。あのときもガイドの方に促されて、懐中電灯を消した。あの湿度と匂いを思い出しながら、朗読を聴く。詩の中で、「私はあの時を想像する」。

 

あなたがまだ一人で歩けなかったあの時

あなたの兄は人を殺すことを習った

あなたの姉は学校へ行けなくなった

 

あなたが走れるようになったあの時

あなたが駆け回るはずだった野原は

真っ赤っか 友だちなんて誰もいない

 

あなたが青春を奪われたあの時

あなたはもうボロボロ

家族もいない 食べ物もない

ただ真っ暗なこの壕の中で

あなたの見た光は、幻となって消えた。

 

 この「平和の詩」は、詩的な表現に走ることなく、淡々と綴られている。戦場の悲惨さを書き立てようとすれば、もっと仰々しい表現だって使えるはずだけど、「真っ赤っか」「あなたはもうボロボロ」と、素朴な言葉で綴られている。朗読自体も、あくまで淡々と読み上げられていく。その姿がとても印象的だった。ぼくは広島出身だったこともあり、小学生の頃から平和教育を受けて育った。祖母は被爆し、親戚が何人か亡くなってもいる。でも、そのことと、戦場の悲惨さを、まるで自分自身が目にしたことのように語ることには違和感がある。この詩は、現代を生きる「私」が、かつてそこにいた「あなた」を想像する、という境界線を越えることなく綴られ、朗読されていた。そして、「あの時」、生き延びるという決断をした人に語りかける。それは、今のわたしたちに託されているものを照らし返す。とても素晴らしい朗読だった。

 感銘を受けていると、総理大臣からのビデオメッセージが始まる。

 

 令和2年・沖縄全戦没者追悼式が執り行われるに当たり、沖縄戦において、戦場に倒れた御霊、戦禍に遭われ亡くなられた御霊に向かい、謹んで哀悼の誠を捧げます。

 

 この人の挨拶をずっと聞いているけれど、本当にほとんど言葉が変わらないのでもはや感心する。「今日私たちが享受している平和と繁栄は、沖縄の方々の筆舌に尽くしがたい苦しみ、苦難の歴史の上にあることを、私たちは決して忘れません。沖縄戦から75年を迎えた今、そのことを改めて嚙み締めながら、静かに頭を垂れたいと思います」。この言葉を、総理大臣が発してくれてよかったとすら思う。6月23日の慰霊の日がやってくるたび、わたしたちはかつてここで起こったことを思い出す。そして「頭を垂れた」気持ちになり、日常に戻ってゆく。そんなふうに首を垂れて、関心を向けたつもりになって、現在起きている問題から目を逸らしているのではないか――総理大臣の空疎な言葉によって、そう自問自答させられる。

 スクリーンに映し出される総理大臣の姿を、玉城デニー知事は苦い顔をしながら、じっと見つめていた。「沖縄の方々には、永きにわたり、米軍基地の集中による大きな負担を担っていただいております」。その言葉に、聞いていてギョッとする。ギョッとしたというのは、「担っていただいております」という言葉だ。「担う」というのは主体的な行為であるけれど、沖縄県民は主体的に基地を引き受けようとしたことはなく、奪われ続けているだけだ。基地が集中している状況は「到底是認できるものではありません」と口では言うけれど、この「担っていただいております」という物言いは、総理大臣の本心が透けて見える。

 メッセージの後半では、「美しい自然に恵まれ、アジアの玄関口に位置する沖縄の優位性と潜在力は計り知れません」と、あいかわらず経済振興をちらつかせる。「本年3月には、念願の那覇空港第2滑走路の供用も開始しました。現下の新型コロナウイルス感染症による危機を乗り越え、沖縄が『万国津梁』として世界の架け橋となるよう、沖縄の振興をしっかりと前に進めてまいります」と語る。「万国津梁」という言葉自体は昔からある言葉ではあるけれど、玉城デニー知事が政策の目玉として掲げる、知事の諮問機関の名前が「万国津梁会議」である。

 中継が終わり、感想をつぶやいているうちに12時50分だ。ぼくが登場するスカイマーク514便は13時から搭乗が始まるとアナウンスが流れる。沖縄そばを食べてから飛行機に乗るつもりだったけれど、そんな時間はなさそうなので、25番搭乗口の一番近くにある売店でサンドウィッチとさんぴん茶を買って、飛行機に乗り込んだ。27H、隣の席は空いていてほっとする。飛行機の中で、『かしこくて勇気あるこども』を読んだ。羽田空港に到着して、荷物のターンテーブルのところに出てみると、ここには那覇空港と違って「距離を」という案内は見受けられなかった。17時ちょうどにYMUR新聞に到着し、委員会に参加。もうすでにほとんどの委員が揃っている。今日はあの本が並んでいるのではないかと思っていたが、本の山の中には見当たらない。本のリストを手に取り、確認してみると、やはりあの本のタイトルが含まれている。どうしよう。あの本だけはぼくが書評しなければと思っていたのに(だから、本当は慰霊の日の夜は那覇で過ごすつもりでいたけれど、便を変更して委員会に出席した)。「セリ」のときに、手をあげて、「その本はぼくも書評したい」と手をあげるしかないか――ぐるぐる考えていたら、委員のSさんが「橋本さん、これ」と手渡してくれる。Sさんはぼくの追悼文もすべて目を通してくれていて、取っておいてくれたのだろう。自分の席に戻らず、すぐ近くにある椅子に座り、読み始める。

 20時に委員会が終わる。ここ最近はハイヤーで送ってもらうのを避けてきたけれど、このスーツを抱えて地下鉄の階段を上り、団子坂を上がるのは想像するだけでシンドイので、ハイヤーで送ってもらう。アパートの郵便受けを覗くと、『みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。』が届いている。中を開くと、編集者のNさんから手書きでメモが添えられている。その字はどこか坪内さんに似ている。荷物を解き、整理しているうちに知人から連絡があり、慌てて外に出る。今日は「たこ忠」で飲もうかと話していたのだ。席はほぼ埋まっていたけれど、隣の客とそれなりに距離が保てる小上がりが空いていたので、そこに座らせてもらう。隣に座る若い二人組のうち、ひとりはマスクをつけている。店員さんが「前回もお聞きしたかもしれないんですけど」と、名前と連絡先を書いて欲しいとメモを差し出す。もしも今日この空間に感染者がいた場合にと、連絡できるように対策を取っているのだろう。こうした感覚は店ごとに全然違っているのだろう。

 知人を前に、沖縄滞在中に感じたことを話す。こうして日記を書く中で、「男女が」だとか、「観光客が」だとか、「地元の子が」だとか、あれこれ書き綴ってきたけれど、そうしたまなざしがとても差別的だということ。しかし、目にした人たちに「あなたは地元ですか、観光ですか」と、ひとりひとりに問いかけることもできないこと。その人たちは、書かれるために存在しているわけではないのだから、勝手に書き記していることが暴力的であること。でも、こうして書き残しておかなければ、この時期の風景が後世に伝わらないこと。書くことがいよいよ難しい時代になってきた――そんなことを知人相手に語りながら、どうして自分はそんなふうに書き残そうとするのだろうかと疑問が浮かんだ。この一週間、沖縄に滞在しながら、猛烈に日記を書いた。メモをつけている時間も含めれば、滞在しながら、そのうち3時間くらいは書き残す作業に費やしていた(リアルタイムで書いておかなければ、記憶から消えたことはたくさんあるだろう)。誰に頼まれたわけでもないのに、こうして日記をつけている。