5月14日

 7時半に起きる。コーヒーを淹れて、食パンをトーストし、ゆで玉子を茹でる。3個は多かったので、2個にしておく。今日はうちで会議をやるというので、朝から掃除をする。知人はといえば、昨晩は深夜3時に帰ってきてまだ眠っており、知人が会議で使うのに僕が掃除をしている。最近はこちらが家事を負担するばかりで、これは主夫として養われるべきではと不満が募る。11時半に知人を起こし、知人に床を水拭きさせ、僕がさらにマイペットを噴射して拭く。12時50分頃からポツポツ集まり始め、知人とffの皆は会議を始める。コーヒーを追加で淹れて、1リットルの魔法瓶に入れておく。

 午後はテープ起こしを進める。会議は17時頃に終わったらしく、皆で『マツコの知らない世界』を観始めている。僕も一緒に観る。皆を見送ったあと、身支度をしてアパートを出て、吉祥寺「スターパインズカフェ」へ。今日は青葉市子さんと向井秀徳さんのツーマンだ。整理番号は61番だが、2階の正面側の椅子席(それも端っこ)に席を見つけることができてホッとする。このふたりのツーマンだなんて、僕のために企画されたのではと思ってしまうほどで、ビールをチビチビ飲みつつ開演を待ち、直前で赤ワインを追加する。ライブの感想を書き始めると長くなってしまうので、ツイッターに書いた言葉を貼り付けておく。僕はナンバーガールの再結成のドキュメントを書くことはないのだろうけれど、誰かにしっかり書き残して欲しい。

 昨晩は吉祥寺スターパインズカフェにて青葉市子さんと向井秀徳さんのツーマンを観た。市子さんの演奏を聴いていると、ああ、もう初夏なのだなと思う。そして、向井さんによる弾き語り。いつにもまして“筆圧”の強さを感じる。それは一曲目の「Young Girl 17 Sexually Knowing」から感じられたことだ。この曲を弾き語りで歌う姿を、何度となく眺めてきた。毎回の演奏が同じだと言っているわけではもちろんないけれど、そこにはある定型と言おうか、「この節が強くなる」とか、演奏している向井さん自身が個人的に盛り上がる、そういうツボのようなものがあったように思う。でも、その位置がこれまでとは違っているように感じられた。ライブが進むにつれて、その変化は気のせいではないと確信する。ナンバーガール時代の曲は、10年くらい前から弾き語りで演奏する曲の数が増えたように記憶しているけれど、そこにはどこか記憶を振り返る感傷といった趣があったように思う。でも、昨日のライブは、ところどころに破調と言っていいほどの熱が随所で感じられた。僕が前に向井さんの弾き語りを観たのは出版記念トークイベントのときだから、3ヶ月も前になってしまうけれど、そのときとは明らかにモードが違っている。やはりそれは、ナンバーガール再結成が発表され、リハーサル(か、それに向けた動き)が始まっていることも影響しているのだろう。RISING SUNは観に行くつもりでいるけれど、いよいよ楽しみになってくる。そして、何より今月末からのZAZEN BOYSのツアーも楽しみになる。というのも、昨晩最後に演奏されたのは「はあとぶれいく」だが、そのイントロは、いつもと少し違うコードが弾かれていて、「いつまでたってもやめられないのね」という歌詞には少し揺らぎが感じられた。ナンバーガールZAZEN BOYSの時間がどう作用し合うのか、楽しみが膨らむばかり。

5月13日

 8時過ぎに起きる。コーヒーを淹れ、昨日ジョギング帰りに買っておいた「ベーカリーミウラ」の食パンを焼き、ゆで玉子を3個茹でて朝ごはん。食パン、前にも増して密度が増している気がする。ここ数日の日記をまとめて書く。昼、豆腐納豆オクラそば。午後はメールの返信をしたり、必要な連絡を済ませたりしているうちに時間が過ぎる。先日資料を貸してくださった貴社の方からメールがあり、「県外の方が、関心を持たれるとは意外な気もしておりますが、引き続き、沖縄に関心をお寄せいただけたらうれしいです」と締めくくられている。何がそんなふうに言わせてしまっているのだろうかと考え込んでしまう。そして、沖縄に目を向けるのと同じように、ありとあらゆる場所に目を向けなければと改めて思う。ありとあらゆる場所にだなんて、無理だとわかっているけれど。

 メールの返信をしているところに、原稿依頼が届く。すぐにでも書けそうだけれども、思い浮かんだ原稿はどこで、何日に書いたのかが重要なものだったので、締め切りである6月14日にお送りしますと返信する。18時過ぎにアパートを出て、「越後屋本店」でアサヒスーパードライ。1杯だけで引き返し、ドラッグストアで清掃用品を購入する。帰りに図書館に寄り、毎日新聞の夕刊をコピーして帰途につく(デジタル毎日に加入していたはずなのに、どういうわけか閲覧できなくなった)。19時、大和芋マヨネーズとこんにゃくの醤油炒めで晩酌。大和芋、加熱時間が長かったのか、ホクホクが勝ち過ぎてしまっている。

 録画したデータをブルーレイに焼いているところなので、テレビではなくパソコンで『キャプテン・アメリカ』観る。『アイアンマン』を観たときにうっすら感じていたけれど、やはり第二次世界大戦にまで話が遡る。第二次世界大戦中に実際に戦意高揚のプロパガンダの役割を果たしたのであろうキャプテン・アメリカが、実際にその役回りを演じている。だからだろうか、戦闘シーンがややコミカルなほどあっさり片づいていく。印象に残るのは、キャプテン・アメリカになる青年が、その任務を背負うことになった理由が「弱さ」にあるところ。博士は「弱者は力の価値を知っている。そして憐れみも」と語る。そして、枢軸国側(から逸脱して、さらなるファッショを目指す男)が「ヒドラ」を名乗り、「頭を1つ切り落とされても、次は2つの頭が生える」と言っていたことも印象に残る。

 その流れで『アベンジャーズ』も観る。これまで観てきた登場人物たちが一堂に会して駆け回るのは痛快ではあるけれど、一体ここまで描かれてきた問題意識は何だったのだろうと立ち止まらざるを得ない。こうなってくると、『マイティ・ソー』で神話の世界が持ち込まれたことが何より(僕にとっては)蛇足だったと思えてくる。ここまでのシリーズで描かれてきたのは、自分が誰かに向けた刃が、再び自分に突きつけられるということだ。そこで正義とは、善とはという問題意識が描かれていたはずだ。現代はもう、第二次世界大戦や東西冷戦の時代のように、「向こう側とこちら側は大きく隔てられていて、向こう側の陣営が悪巧みをしているのだ」という形で自分たちの正義を掲げられる時代ではない。

 911以降、つまりビンラディンのような経歴を持つ人間によって――アメリカ資金とテクノロジーによって――アメリカ自身が傷つくという悲劇があったからこそ、『アイアンマン』と『アイアンマン2』は描かれたのではないか。それが、圧倒的な力を持つ「神」の世界の住人達が地球に襲来したことで、力を持つ者達は緊急事態の中で手を結び、力を振るい、敵をなぎ倒す。もちろん倒さなければ地球が滅びて終わってしまうとはいえ、圧倒的な脅威に対抗するために団結するというのでは、過去から何一つ進展していないとうことになってしまう。私たちが団結するためには「仮想敵」が必要であり、それは圧倒的で、わかりあうことができない相手である必要がある(だからこそ次々になぎ倒すことができる)。このシリーズを描く理由は、一体どこにあるのだろう。

 映画を観ている途中に、メールが届く。そういったメールを送るべきかどうか、朝から迷っていたけれど、背中を押すような言葉を返す。

5月12日

 8時過ぎに起きる。昨晩は飲み過ぎた上に、小さめとはいえクーラーボックスを抱えているのにドラッグストアでトイレットペーパーやら何やら買って帰り、荷物を運び入れるので精一杯になってしまって、鍵穴に鍵を挿しっぱなしにしてしまっていた。午前中はグズグズ過ごし、昼、ピザを注文。先日観た『インクレディブル・ハルク』で、遅い時間に訪れた客に「マリナーラくらいしか作れないよ」と言っているシーンがあり、マリナーラってどんなピザだろうと気になっていたのだ。いつもは宅配ピザといえばドミノピザだが、マリナーラはないだろうと、ナポリの窯でLサイズを注文する。

 コンビニでビールを買ってきて、ピザを受け取り、『アイアンマン2』を観始める。冒頭のスタークエクスポのシーンで、トニーが語るスピーチが印象に残る。「問題なのは我々の未来だ」とトニーは語る。「未来」となっているが、そこでは「レガシー」と言っていたはずだと思う。「次の世代に何を残すかを考えねば。そこでこのたび、1974年以来初めて、世界各国の企業の優秀な人材が協力し、今後のヴィジョンを探る機会を用意した。今の我々のためではなく、明るい未来のために」。マリナーラは、とてもシンプルな味だった。トッピングでアンチョビを加えればよかった。食欲が刺激されてしまって、ピザを平らげたあとに昨晩酔っ払って買ってあったサッポロポテトをぼりぼり食べる。ビールを2本飲んだところでウトウト昼寝。15時過ぎに目を覚まし、途中から観直す。技術はコピーされハックされることを防ぎようもなく、一度走り始めたものはどこまでも走るしかない。

 さすがに食べ過ぎてしまった。少し反省して、16時半からジョギングに出る。不忍池をぐるり。水上音楽堂の裏を走りながら、昨日のことを反芻する。アパートに戻ると、湯につかり、『感情天皇論』をちびりと読んだ。いつ読み終わるのだろう。19時には晩酌を始める。大和芋マヨネーズともやしの醤油炒めをツマミにチューハイを飲みつつ、『マイティ・ソー』を観る。急にファンタジーの世界に飛んでしまった。だからあえてコミカルな動きが随所に配置されているのだろうけれど、ファンタジーを楽しめない僕は何とも言えない気持ちで観る。道徳が織り込まれていて、おとぎ話のような展開である。知人の帰りを待つまで、ドキュメンタリーを観る。

 23時に帰ってきた知人と乾杯し、棒棒鶏とアジの干物をツマミつつ、ようやく『水曜日のダウンタウン』観る。とても楽しみにしていた企画で、リアルタイムで観たかったけれど、その日は知人の帰りが遅く、観ることができなかった。その後も知人は仕事で遅くなる日が続いていたけれど、ようやく観ることができた。「新元号当てられるまで脱出できない生活」。芸人のななまがりが隔離され、タイトルの通り、新元号を当てるまで脱出できない生活を送る。ヒントが与えられるとは言え、絶対に不可能だろうと思っていたけれど、巧妙な仕掛けと小技が張り巡らされていて、1時間近い放送を食い入るように観る。そしてポロリと「れいわ」という言葉が発された瞬間に、思わず「おお!」と声をあげ、知人と顔を見合わせた。

5月11日

 午後、パンダ音楽祭を観るべく、上野の水上音楽堂へ。急に観に行きたくなり、ツイッターで「行けなくなった」とつぶやいていた人と連絡を取って、チケットを手に入れた。クーラーボックスにビールのロング缶を3本、白ワインのボトル、かちわり氷を詰めて、会場入り。比較的前のほう、はじっこの席に一人で座る。急遽チケットを探したのは最近ずっと聴いているカネコアヤノが出演すると知ったことにあるけれど、別にひとりだけを聴くつもりだったわけではなく、最初から最後まで楽しむつもりでいたし、実際に最初から最後まで楽しく過ごし、愉快に酔っ払って帰途につき、バー「H」でハイボールを1杯だけ飲んで眠りについた。何より強く印象に残ったのはカネコアヤノだった。圧倒的な印象だった。セッティングのときに、おもむろにステージにあらわしたのは、ピンク色のワンピースを着た裸足の女性だ。その姿に少し既視感をおぼえる。ワンピースを着て裸足で歌う女性シンガーソングライターというものには、何かもうまとわりついたイメージがある。音源以外を聴くのは初めてなので、勝手に不安をおぼえていると、おもむろにギターをかき鳴らし始めて、「セゾン」という曲を少しぶっきらぼうに歌い始める。照明はついておらず、観客も場内をうろついていて、まだ幕間の時間を過ごしている。一曲まるごと歌い終えると、「大丈夫です」と言って袖にはけていく。まずその姿に圧倒され、その後のライブも圧倒された。音源で聴いている時も、何かに対する納得のいかなさのようなもの、憤りに近い感情をうっすら感じていたのだけれど、ライブではそれが炸裂していた。これはおそらく、ライブ映像でも伝わらないことだろう。ここまで何かに圧倒されるのは本当に久しぶりだ。絶対にこの人のことを取材しなければ。そんなふうに思ったのも久しぶりのことだ。

5月10日

 8時過ぎに起きて、ゆで玉子を茹でる。昨日は半熟過ぎたので、今日は8分半茹でてみる。ちょうどいい具合だ。来週は北海道でロケがあるけれど、取材先が決まったと連絡がある。せっかくなので、僕に伝えられることはないかと、あれこれ調べ始める。調べだすと止まらず、『月刊ドライブイン』の頃に集めた資料などを振り返りつつ、ドライブイン越しに描くことができそうな北海道の戦後史をまとめてゆく。昼、昨日と同じようにマルちゃん正麺を食べて、作業を続ける。好評であれば第二弾、第三弾もありうるということだったので、グーグルマップで北海道のドライブインをすべてリスト化して、気になる店はピンの色を変えて、説明を加えておく。それが完成してメールで送信する頃には、すっかり日が暮れている。

 千代田線で新御茶ノ水に出て、成城石井で生ハムやサラダ、野菜チップスに赤ワインを購入して、総武線千駄ヶ谷へ。コンビニで缶ビールを買って、20時ちょうどに目的地にたどり着くと、まだ誰もきておらず、準備が進められているところだ。今日は先月のワークショップとプレゼンテーションの打ち上げだ。意気揚々とやってきたものの、ひとり、またひとりとやってくるうちに、心細くなる。他の方達は同じ業界に携わっている方達だけれども、僕だけその業界とは無関係だ。ただでさえ大人数の飲み会だと「話せる言葉がない」と思ってしまうのに、どうして意気揚々とやってきたのだろう。

 そんな気分が漏れてしまったのか、Yさんがある人を紹介してくれる。『ドライブイン探訪』に興味を持ってくれて、あれこれ聞いてくれる。ひとしきり話したところで、「ちなみに、××さんに取材されたことってあります?」と言われる。取材されたというのを、僕が取材する側かと思ってしまって、いや、取材したことはないですねと伝えると、「××さんがすごく興味ありそうな話だから、もし伝えたら、メルマガとかで橋本さんのことを取材してもらえるかも」と言われる。そんなふうに気を遣って言ってくださることに対して、なぜだか申し訳ない気持ちになる。

 ドライブイン巡りを始めたばかりの頃に、「ああ、それって××さんみたいな仕事だね」と言われたことを思い出す。『月刊ドライブイン』を出し始めたあとにも、ある雑誌の編集長と偶然酒場で会って、「それはどういう雑誌なの、××の後追いみたいな仕事だったら許さないよ」と言われたことを思い出す。ドライブイン巡りを始めた頃にはうまく言葉を返せなかったけれど、今では「そういうことではない」と思っている。それは、優劣の問題ではもちろんなくて、属性の違う仕事だと思っているということだ。だから僕は、その方に評価されることを特別嬉しいことだと思っているわけではなく(「特別視していない」というだけで、誰かに評価されることはとても嬉しいことではある)、どうしてもまごまごした返事になってしまう。2時間半が経ったあたりで、ひっそり帰途につく。

5月9日

 8時過ぎに起きて、ゆで玉子で朝ごはん。午前中から、本が出来上がったあとのことを考え始める。名刺の束を繰り、『月刊ドライブイン』や『ドライブイン探訪』で出演させてもらった番組の担当者や著者インタビューをしてくれた方をリストアップする。昼、マルちゃん正麺(醤油)に豚ひき肉ともやしとニラの炒め物をのっけて食す。ケータイにメールが届き、一体誰だろうと手に取ると友人のA.Iさんからだ。新作が千秋楽を迎える頃まで――ということは6月に入る頃まで――は言葉を交わすことがないだろうと思っていたので、動揺しながら返信する。

 午後、『ドライブイン探訪』の書評や著者インタビューが掲載された媒体をまとめておく。先日、坪内さんから電話があり、「はっちゃん、すごいね。こんなに新聞や週刊誌で書評が出揃うって、なかなか珍しいよね。これは何か、ノンフィクション賞の候補になるんじゃない? いや、これだけ書評が出てるってことに対して、編集者は時代の空気を読むからね」と言ってくださって、せっかくならその流れを自分でかしかしておこうと思ったのだ。こうして並べてみると、週刊誌にはほぼ書評が掲載されていて、日曜には読売新聞にも書評が出る予告がウェブに出ているので、全国紙の五紙すべてに書評が掲載されたことになる。しかし、それで1万部に届かないというのは、なかなか世知辛いという感じがする。

 18時過ぎ、『インクレディブル・ハルク』を観ながら晩酌を始める。ツマミは大和芋マヨネーズと、こんにゃくのめんつゆ炒め。大和芋マヨネーズは、よく訪れる思い出横丁「T」にある山芋バターが好きで、それを真似て作ってみる。近所のスーパーで売っていた大和芋を買ってきて、ジップロックのコンテナに水を張ってレンジで5分ほど加熱し、ここから「T」では切り分けた山芋を焼き台に載せるのだが、当然焼き台はないので、バターで炒めることに――と冷蔵庫をみると、バターを切らしている。賞味期限に不安の残るマヨネーズを鉄板に出し、それを油がわりにして、「大和芋マヨネーズ」を作る。味は別物だけれども、これはこれでイケる。

 22時過ぎ、池袋駅西口にある「ひもの屋」で友人のF.TさんA.Iさんと待ち合わせ。昨晩インスタグラムで、「飲みに誘える人も思い浮かばず、自宅で晩酌」と『アイアンマン』を観ている写真をのっけたのを目にしたFさんが、稽古場でAさんに「え、誘ってくれたら飲みに行くのに」「アイアンマン観てるし」と、Aさんづてに誘ってくれて、飲むことになったのだ。一緒に飲みに行って言葉を交わせる相手というのは限られていて、今では真っ先に浮かぶのはこのふたりだけれども、二人とも新作に向けた稽古が佳境を迎えているので、とても今は飲めないだろうと思っていたのだけれども、僕はホッピーセット、Fさんは生ビール、Aさんは白ワインで乾杯。

 『市場界隈』が校了したことを祝ってくれて、先日出演したバラエティ番組の話題になる。「あれを観てるとさ、映像で動いてる姿が観れてじーんときちゃった」とAさんが言う。「あ、橋本さんが動いてる姿を観てってことじゃないよ?」と、言われなくてもわかっているのに、わざわざAさんが言い添える。「わかってますよ、モノクロの写真と、書き記された言葉でしか知らなかった店主の人達の動いている姿を目にして、ってことでしょう?」と返すと、「そう、そうやって動いてる姿を観てるとさ、橋本さんがじゃないよ、橋本さんがじゃなくて」とAさんが言う。そうやって言わなくていいことを繰り返すところがAさんらしくもある。

 昨日と今日観た『アイアンマン』と『インクレディブル・ハルク』の話を少しする。『アイアンマン』に出てくる「レガシー」という言葉が象徴的だったと話す。東西冷戦が下敷きにあり、その冷戦下で開発された技術があり、しかしの技術が自分たちの喉元に突きつけられている。そうした「レガシー」と直面しながら生きている――というのが、このシリーズの出発点にあるのだろう。そして、それは東西冷戦や特定の状況に限らず、誰もが過去の「レガシー」を引き継ぐ形で(あるいは、先日Fさんをゲストに迎えて開催した熊本のトークイベントでたどり着いた言葉を使えば、「過去の余韻」の中を)生きている。そんな話をしていると、いや、橋本さん鋭いっすねと言われ、嬉しくなる。

 初日が近づいている新作の話を聞いていると、稽古は順調に進んでいるようだったけれど、かなり疲れが蓄積しているように感じられる。体制的にも総動員に近く、かなり限界に近いことを舞台上に配置しようとしていることがわかる。その流れで、衣装のことも話す。昨年の春にツアーした作品でも、テーマのひとつは「ひかり」だった。そのときの衣装には、ひかりを当てることで発光して見える衣装と、ひかりを蓄えることで発光する衣装とがあった。さきほど話していた話が思い出され、「そういう意味で言うと、ひかりっていうのも「過去の余韻」の中にしかないことですね、とFさんに伝える。「ひかり」というのはここ数年の作品の中で軸となってきた言葉であり、そこに関する言葉を少し返すことができたような気がする。

 飲んでいるうちに、来年とその先に向けた話を教えてもらう。それを聞いた瞬間に、『市場界隈』のあとがきに記した言葉を伝えたい衝動に駆られたけれど、それは書かれた言葉として伝わるべきものだと思って、黙っておく。話して伝えられることには限界がある。発語される言葉を信じていないわけではないけれど(信じていなければ演劇を観ることはないだろう)、書かれた言葉だからこそ伝えられることもある。閉店時刻の0時が近づいたところで店を出る。これは「新作」と位置づける作品の初日が近づいているときはいつもそうなのかもしれないけれど、Fさんはとても不安そうに見えた。池袋駅まで歩きながら、少し話す。僕はこれからもドキュメントしか書き記すつもりはないし、ドキュメントだから書き記せる言葉はあると思っているけれど、でも、残念ながらそれでは触れることができない人たちや物事はあって、それは何によって可能かというと、フィクションだけが触れられるものだと思います、と伝える。これは書かれた言葉では伝えられなくて、今ここで言わなければ伝わらないと思って、Fさんにそう伝えておく。

5月8日

 8時に出勤する知人を、布団の中で見送る。10時半頃までゴロゴロして、カップヌードルナイスを食す。テレビではロシアの航空機事故の話。乗客が手荷物を持って脱出しようとしたせいで遅れが生じ、犠牲者が増えてしまったのではとコメンテーターが語っている。とても恐ろしい気持ちになる。僕は荷物を諦められるだろうか。買い直せるものであれば放っておけるけれど、たとえば自分がこれから半世紀かけて集めた資料のデータが詰まったパソコンを持ち歩いていたとして、それを諦めて脱出できるだろうか?――僕自身はそこまで思い入れのあるものはなく、ドライブインも沖縄も「自分が好きだから」という理由で取材しているわけではないけれど、好きなものにまっすぐ向かうのはとてもおそろしいことだ。その人が大切に集めてきたものが、何かのきっかけで損なわれてしまう瞬間のことを想像してしまって、おそろしくなる。神社の御神木が何者かによって枯らされてしまった事件が起きたときも、同じようなおそろしさをおぼえた。「ものはやがてなくなってしまうのだから、仕方がないよ」。そんなふうに言えるだろうか。それは、「何かを大切にしたところで、すべては徒労である」というのと同じことではないか。

 12時半にアパートを出る。連休明けだから、まとめて郵便物が届くかもなと思っていたけれど、昨日も今日も何も届かなかった。そういえば千代田線のほうが近いんだったと思い出して、千駄木から新御茶ノ水に出て、駿河台下へ歩く。新緑と学生が眩しく感じられる。13時に「伯剌西爾」に入り、喫煙席の一番手前の席に座り、レアチーズケーキと神田ブレンドを注文。ケーキを食べながら念校に目を通す。昨日受け取ったときは「ほとんど赤は入れないと思います」と言ったのに、やはりどうしても気になるところがあり、ちょこちょこ赤を入れてしまう。気づけば約束の15時をまわっていたので、8割ほど目を通したところで本の雑誌社へ。助っ人の方達が作業をしているところだ。ああ、これが噂に聞いた風景かと感慨深くなる。大学時代の友人であるA野さんは助っ人としてアルバイトをして、何度か話を聞いたことがある。途中までを手渡して、残りに目を通す。15時45分に作業が終わり、念校を戻す。帯まわりの文言もチェックして、すべての作業を終える。

 組版をしてくれる会社まで念校を届けに行くTさんと別れ、「東京堂書店」をのぞく。気になった本を4冊と、それに『文學界』を購入して、「ランチョン」へ。窓際の席に座り、ビールとメンチカツを注文。ビールを飲みながら、『文學界』を読み始める。「昭和最後の日、あなたは何をしていましたか?」という特集が組まれていたので、今月は『文學界』を買った(同じような理由で先月は『新潮』を買っている)。まずは坪内さんの「昭和が終わった頃」を読む。1月7日はまだ「正月休み中」で、「私は朝からずっとテレビを見ていた」と坪内さんは書く。特別番組が放映され続けるなかで、「この種の歴史番組の好きな私は、少しウキウキしながらテレビをザッピングしていた」と。僕は坪内さんから学んだと言えるほど博識でもなければ文学に明るいわけでもないけれど、態度についてはいろんなことを学んだと思っている。4月30日、ツイッターをひらけば「改元で騒ぐテレビに辟易とする」とつぶやく人がたくさんいたけれど、僕はテレビをザッピングしつつ、録画できる限り録画もしている。ところで、昭和最後の日にテレビをザッピングして、何が印象に残ったのだろうとページを繰ると、そこには保坂和志のエッセイが掲載されている。坪内さんの文章は、僕が学生だった頃に比べると、とてもストンと終わる。

 ぱらぱらめくっていると、編集者のTさんがやってくる。僕がこのあと「ランチョン」に行くつもりだと言うと、「今日くらいはご馳走させてください」と言ってくれたのだ。僕が『文學界』を読んでいるのを見て、えらいですね、とTさんが言う。いえいえ、毎号読んでいるわけではなくて、毎月気になったどれか一誌を買っているだけですと答える。いつ頃から神保町に足を運ぶようになったのかを尋ねられて、しばらく考えてみたけれど、それもやはり坪内さんに出会ってからだろう。「ランチョン」だって、いきなり自分で訪れるには大人の場所だという印象があって、神保町でのトークイベントのあとの打ち上げに混ぜていただくときや、対談の収録のときに僕もお邪魔するくらいのものだった。今でもまだ自分が訪れるには早いと思っているけれど、もう自分でくるほかないのだった。

 まだ仕事があるTさんは、ジンジャエールを飲み干すと、そこまでの会計を済ませてくれて、会社に戻っていく。それで帰るのははしたない気がして、ビールを1杯追加して、ぼんやり窓の外を眺めながら飲み干す。時計を見るとちょうど17時になったところだ。せっかく本の作業が終わったのだから、パーッと飲みに出たいところだけれども、行きたい店の半分くらいは昨日訪れてしまったし、好きな店の何軒かは水曜が定休日だ。誰かを誘おうにも、真っ先に思い浮かぶふたりは稽古期間中で、飲むどころではないだろう。おとなしくアパートに戻ることにして、新御茶ノ水駅の改札そばにある成城石井で惣菜を買って、谷中ぎんざの「越後屋本店」で一杯だけビールを飲んで、ちよだ鮨でパック寿司を買って帰途につく。『CITY』に向けて、マーベル作品をすべて観ておこうと『アイアンマン』を観始める。買っていたパック寿司、ヨレヨレにヨレてしまっていた。今日の『水曜日のダウンタウン』は、とても楽しみにしていた企画がある。知人が帰るまで待つかと、これまで興味を持てずにいた『ドキュメンタル』のシーズン5を観ていると、22時半頃になって知人から「飲んで帰る」と連絡が入る。