マーム同行記34日目(パリ2日目)

 9時にロビーで待ち合わせて、さっそく街を歩く。朝のモンマルトルは静かだ。ジョギングする男の足音と息づかいだけが、時々近づいてはまた遠ざかっていく。今日もまた、まずはサクレ・クール寺院を経由して、パリの街並みを一望してから出発することになった。

「ここらへんにゴッホの家があるはずなんだけど、見つけられ
なくて」と青柳さん。
「わかった、じゃあ全部の家を見とくね」と聡子さん。
「うん。そうすれば、ゴッホの家も見たことになるはず」
「いいなあ」――聡子さんがしみじみ言う。「私、昨日から『いいな』しか言えてない」
「5回目だけど、私もそうだよ」

 パリの街並みを満喫しながら会話をする二人の後ろを歩きながら、僕はずっとATMを探していた。日本を出発する前に、僕は海外でも使用できるキャッシュカードを作っていた。昨日、日本を発つときに換金していたユーロを使い切ってしまったので、そのキャッシュカードで引き出そうとしたのだが、「Request declined」と表示されるばかりで引き出すことができなかった。いくつかのATMで試してみたが駄目だった。

 ホテルに帰って調べてみると、「最初に使用する前に、ネット経由で「海外ATMからの引き出し限度額」を設定しないと使えないということが判明し、すぐに設定し直していたのだが、果たして本当にこれで引き出せるのか、というか引き出せなかったらあと数日間どうやって生活すればいいのかと、ずっとソワソワしていた。

 少し歩いたところで銀行らしき建物を見つけた。中に入り、手続きをしてみると、無事引き出すことができた。ホッとして笑顔で振り返ると、外で待っていた二人が入ってくる。

「まだ手続きしたばっかだから、反映されてないんじゃない?」
「そうそう。それに、このATMがよくなかったのかもしれないよ」

 僕の笑顔は笑顔として認識されなかったようだ。僕がユーロを手にしているのに気づくと、二人とも「え、おろせたの?」と驚いていた。

 まずはモンマルトルにあるカフェに入った。この店は、映画『アメリ』の中で、主人公が働いていた店らしかった。

「橋本さん、『アメリ』は観たことあるんですか?」
「『アメリ』は、あります」

 そう答えてみたものの、映画の内容はまったく覚えていなかった。モーニングセットがあるというので、僕はそれを注文する。コーヒー、オレンジジュース、パン、それに卵を3つも使ったオムレツがついてくる。コーヒーをブラックで注文すると、エスプレッソが運ばれてきた。すぐに飲み干してしまったので、カプチーノを追加した。

 もうずいぶん昔の映画だからか、店内には観光客らしき人の姿はそう多くなかった。特にカウンターに腰掛けているのはご近所さんといった様子だ。パリジャン、パリジェンヌと聞くと気取った人を想像していたが、よれよれの恰好をしたおじさんが新聞を読んでいて、あとから入ってきた客と挨拶を交わしている。中にはジョギングの途中に立ち寄ったとしか思えない恰好をした女性もいた。


 パリだって意外と庶民的な街じゃないか――そう思っていたのは、朝食を採りながら、青柳さんから『ハンター×ハンター』の面白さについて解説を受けている15分のあいだだけだった。キメラアント編というのがとりわけ面白いらしかった。僕と聡子さんがそれぞれに「帰国したら『ハンター×ハンター』を買って読んでみよう」と決意したところでお会計をお願いすると、モーニングは12ユーロ、カプチーノは10ユーロだった。

 1400円のカプチーノ

 一度「案外庶民的じゃないか」と思ったぶん、余計に驚いてしまった。ジョギングがてら立ち寄った店で1400円のカプチーノを飲むなんて、一体どれだけお金持ちなのだろう。さっき「よれよれの恰好」なんて書いてしまったあのおじさんだって、身なりに気を使わないだけですごくお金持ちなのかもしれない。それとも、物価が高いぶん、給料の水準も高いのだろうか――せっかく観光に来ているのに、お金のことばかり考えてしまう。

 カフェを出ると地下鉄に乗った。地下鉄は混雑していた。ぎゅうぎゅうの車内でうつむいて過ごしていると、近くにいた女性に話しかけられた。フランス語なので何を言われているのかはわからないが、女性はカメラを指差している。レンズキャップをつけていなかったせいで怒られているのかと思ったが、そうではなく、「ビー・ケアフル」と言っているのだと近くにいた別の女性が英語で教えてくれた。その女性は、自分が地下鉄を降りる直前に、パリの地下鉄はスリや窃盗が多いから気をつけたほうがいい、一緒にいる二人の女の子にも教えてあげるようにと女性はアドバイスをくれた。

「橋本さん、何言われてたの?」
「スリが多いから気をつけろってことみたいです」
「ああ、スリは多いよ。地下鉄に乗ってると、ポケットにはわりと手を突っ込まれる」
「何か盗られたことあります?」
「ううん。入れとくと盗られるから、ポケットには何も入れないようにしてる」

 モンマルトルのあたりは、あまり治安の良くないエリアもあるようだ。スリに遭った人や、トラブルに巻き込まれた人もいるらしい。青柳さん自身も、最初にパリを訪れたときはサクレ・クール寺院のところで、例の黒人たちにミサンガを巻かれてしまったそうだ。ミサンガ代を要求され、おそるおそる5ユーロ差し出すと「こんなんじゃ足りねえよ」と囲まれてしまい、走って逃げたという。

「そのへんはどうなってるんですかね? だって、目の前に教会があるのに、そんな詐欺みたいなことをして、罪の意識にとらわれたりしないのかな」

「どうなんだろうね、そこらへんは。キリスト教じゃないのかもね。ちなみにキリスト教徒は、物乞いの人や演奏してる人に声を掛けられたら払うことになってるらしいよ。『そういうふうにしなさい』って言われてるんだって」

 信仰心によるものなのか、慣習によるものなのかはわからないけれど、やはり欧米の人のほうがお金の出し方はスマートだと思う。スマートというよりも、衒いがないように感じる。日本人である僕は、チップにしても、募金にしても、お金を差し出すときにぎこちなさを感じてしまう。日本にだって、チップはないにしても、「いくらか包む」みたいな発想はあったのだろうけど、その感覚が僕の中に生きているかといえば、ない。

 青柳さんにアテンドされるままに地下鉄を降りるとヴァンヴと呼ばれるエリアだ。ここには週末になると蚤の市が出ている。

「時間決めよっか。じゃあ、12時までにしよう。で、はぐれたら入口に集合で」

 二人は次の公演――1月中旬に原宿・VACANTで、2月上旬に横浜美術館で上演される新作『カタチノチガウ』に出演するのだが、そこで使えそうな小道具があれば買っておいて欲しいと頼まれていたのだ。マームとジプシーの作品には、舞台美術という役割の人が存在しないのだ。

 蚤の市には、食器や置き物がたくさん出品されている。思わず足を止めてしまうのは、誰かが撮った昔の写真や、誰かが書いた手紙を並べている店。書かれている内容は何もわからなくても、手に取ってじっくり眺めてしまう。他に印象的だったのは、お店の紙袋や、大量生産品の古いポスターを並べた店。他の店が雑多に並べているのに比べて、テーマがはっきりしているし、ディスプレイも工夫されている。ふと奥に目をやると、『装苑』で紹介された記事がパウチ加工を施して貼り出されていた。

 蚤の市の中には、売り子が誰もいなくなった店もあった。少し離れた場所で、おじさん4人組が机を囲んでいるのが見えた。売り場をほったらかしにしているのはこの人たちだろう。煙草をふかしながら、何やらトランプゲームをやっている。何だか日本の古書展の風景を思い出した。

 12時に入口近くまで戻ってみると、二人はちょうどナイフとフォークを購入しているところだ。戦利品を手にしたところで、バスに乗って再びサンジェルマン通りへと向かった。今日の目的は、ショッピングだ。まずは「アニエス・ベー」に入ってみる。中に入ってみると、オレンジ色のコートが目に飛び込んでくる。日本で店に入ったら絶対に手を伸ばさない色だなあ。そう思うと、急に「ここで買うしかないんじゃないか」という気持ちになってくる。値段を見ると495ユーロとある。日本円で7万ほどか。コートなんてそうそう買い替えるものでもないから、買ってしまおうか。パリでコートを買うことなんか、きっとこの先の人生でないだろう。

 ただ、現実的に手持ちのお金が足りなかった。コートを買うとすれば明日か明後日に再訪することにして、とりあえずニット帽を購入した。この先、僕はスイスに移動するのだが、パリの寒さで既にくじけそうになっているので、何か防寒対策が必要だと思ったのだ。

 5分ほどで買い物を終えて、女性ものを販売している店舗のほうに移動してみる。二人を見つけて近づくと、「お土産によさそうなやつも、目星はつけてますよ」と教えてくれた。知人宛のお土産は、ボスニアでもイタリアでも購入してなくて、昨日の製紙工場の香りのする何かしかまだ買っていなかった。せっかくだから、ここで何か購入することにする。

 目星をつけてくれていたのは、カーディガンだった。デザインはいいのがすぐに見つかったけれど、サイズがパッと思い浮かばない。僕がカーディガンを手にして想像をめぐらせていると、「聡子、ちょっと着てみれば」と青柳さんが言った。聡子さんと知人は別に背格好が近いというわけでもないけれど、着てみてもらうと想像がついたので、適当なサイズを選んで購入した。

「はあ、良かった。これで安心した」と青柳さんは言う。「人が買い物をしたのを見ると、自分も買った気になれるね」

 こんな書き方をするのは失礼だと受け取られるかもしれないけれど、青柳さんは狂ったところのある人だ。そう思うのは僕も狂っているからだが、青柳さんは買い物狂いだ。ただ、今は手持ちがないので、人が買い物するのを見て満足させているのだろう。

 そんなことを考えてしまうのは、パリに来てから――正確にはここサンジェルマン通りを訪れてから、ある曲が頭の中で繰り返されているからかもしれない。それは、ムッシュかまやつの「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」という曲だ。その歌詞には、「君はたとえそれがすごく小さな事でも 何かにこったり狂ったりした事があるかい」というフレーズも登場する。

「アニエス・ベー」を出ると、今度は「レペット」という店に向かった。「レペット」の向かいにはカフェがあった。僕は二人と一緒に「レペット」には入らず、近くのタバコ屋でゴロワーズとライターを購入して、カフェのテラス席に座ってビールを注文した。天気のいい休日にこうして街を歩いていると、ビールを飲みたくなってしまう――これが僕の狂っているところだ。

「あれ? 橋本さん、タバコ吸ってましたっけ?」店から出てきた青柳さんが言う。聡子さんはまだ店内で靴を物色しているらしかった。
「いや、日本にいるときは全然吸わないんですけど、ちょっと吸ってみたくなっちゃって」
「いいな、私もそういうのできたらいいんだけど」

 ビールを飲み干したところで、僕も「レペット」に入ってみる。日本人の店員さんがいて驚いた。聡子さんは黒い靴をいくつか履いている、なかなか迷っているようだ。

「黒もいいけど、白も良いかもよ」と青柳さんが言う。すると、すぐに店員さんが白い靴を持ってきてくれた。
 一目見るなり、「あ、白が良いかも!」と聡子さんは言った。
「良いよね、白」
「白ってどうなんだろうと思ってたけど、良い」
「私も、『まえのひ』のツアーに出る直前に買ったんだよ。レペットの白い靴。私とお揃いでよければおすすめだよ」

 結局、聡子さんはほぼ即決で白い靴を買った。僕はファッションのことはさっぱりわからず、奥に積み上げられた商品を指差して「あのパンみたいなのは何ですか」と口にすると、「パンじゃないよ、バレエの靴だよ」と少し怒られてしまった。

「レペット」を出て、今度は「マルジェラ」に向かった(知ったように書いているけれど、レペットもマルジェラも、名前すら知らなかった)。「橋本さん、ここでコート買えばいいんじゃない?」と言われて、そうですねえなんて言いながら何気なく値札を確認すると1360と書かれている。何だろう、触れてしまったことすら申し訳ない気持ちになる。この値段を見てしまうと、495ユーロのコートを奮発して買おうと思っているのがとても小さなことに思えてきて、すっかりシュンとしてしまった。

 静かに「マルジェラ」をあとにして散策していると、剥製の店があった。二階建ての店の中には、動物の剥製がぎっしりと並べられていた。ひよこは330ユーロ。もぐらは250ユーロ。馬は13000ユーロ。鹿は8000ユーロ。亀は2200ユーロ。熊は21000ユーロ。店内にいる客の大半は、僕と同じく冷やかしのようだが、当然、3万円払ってもぐらの剥製を買う人もいれば、300万払って熊の剥製を買う人もいるのだろう。人は一体、何を思って剥製を買うのだろう。剥製を買って部屋で眺めて過ごすというのは、どういう欲求なのだろう。生きている動物――では得られない何かがあるのだろうか。時が流れても変わらずそこにある剥製という存在に惹かれるという感覚は、謎だ。どの動物を眺めてみても、誰とも目が合うことはなかった。

 最後に訪れた食器屋で買い物を終える頃には、16時になろうとしていた。食器屋の表には、クリスマスの飾り物がディスプレイされていた。道行く人が連れ合いを呼び止めて「ああ、もうクリスマスだね」なんて話している。ヨーロッパではもう、11月上旬にはクリスマスムードが漂い始めるのか。

 一度ホテルに戻って、バタバタと聡子さんを見送る。聡子さんは、この日の夜の飛行機でパリを発つことになっていたのだ。見送ってホッとしていると、急にお腹が減ってきた。よく考えたら、今日はアメリの店以降、何も食べていなかった。

 何を食べようかと話しているうちに、インド料理を食べようということになった。しばらく道をさまよい、「何となく、あっちにインド料理屋がありそうな気がする」と青柳さんが言う方向に歩いていくと、黒人の人たちが取り仕切る路上マーケットを抜けた先に、本当にインド料理屋があらわれたので驚いた。

 バターチキンのカレーを2つ、それに僕は瓶ビールを注文した。ビールをグラスに注いでいると、「日記を読んでるとさ、『皆に話を聞いた』みたいなことを結構書いてるじゃん」と青柳さんが言った。「それを読んで、「私はこう思うかも」ってことを、ずっと一人でしゃべってたんです」

「しゃべってた?」

「あの、口に出さないと考えがまとまらないから。しゃべってて『これだ!』って思ったことがあるんだけど、忘れちゃった」

 僕はビールを口につけるより先にICレコーダーを取り出して、録音ボタンを押した。

――考えてたというのは――それは何について考えてたんですか?

青柳 何だったっけ。質問がわりと、皆の内面というか、作品に出てる彼ら/彼女らの内面についての質問が多いように感じたんですよ。それが新鮮というか、「私、そんなこと聞かれたことない」と思ったんですよね。それに、私はああいうことを聞かれても、話せることが何もないと思って。

――皆に聞いてたのは「このシーンについて何を思っているのか」って話が多かったと思うんですけど、それは青柳さんの中にはまったくない?

青柳 どう思ってるのかは――やってるからあるけど、話してる内容が、作品の中にある感情についてとかだったじゃん。そういうことは本当に考えないなと思って。皆は考えてそうだなと思ってたけど、「本当に考えてるんだ」と思いましたね。

――今、ちょっとハラハラしてるんですけど。「役者の気持ちとか質問してんじゃねえよ」って批判されてるんじゃないかと思って。

青柳 いや、全然批判してない。別にはっちゃんのことは批判してないし、もちろん皆のことも批判してるわけじゃ全然なくて――何だろう、隔たりを感じたんですよ。私にはそういう思考回路がないから。どの作品をやってるときでも、私はああいう感じでしゃべれないと思うんですよね。……思い出した、私、「役者じゃないのかも」って思ったんだ。日記を読んで、皆がああいう質問を受けて答えてるのを読んだときに、「これが役者ってものか」と思ったんですよね。だとしたら私は役者じゃないのかも、って。『小指の思い出』のときとかさ、何も考えてなかったんですよ。

――……本当に? 言葉としては考えてないかもしれないけど、考えてないってことはないでしょう?

青柳 皆と同じような意味では、考えてることはないですよ。そういう考え方で舞台に立ったことがないんだと思う。いや、振り返ってみればなくはないんだろうけど、たぶんもう、そういうことではやれないんだろうなと思います。藤田君から「ここの感情は」みたいなことを言われたことは一回もないし。

――青柳さんが一人で演じていた「まえのひ」ツアーのときも同行させてもらいましたけど、そのツアー中にそういう話は一度もしてなかったし、僕も青柳さんにそういう質問をしなかったですよね。それはたぶん、青柳さんにそういう質問をしても、答えが返ってこないだろうなと思ったんです。

青柳 不思議ですよね。何でこんなにもないのかっていう。でも別に、感情がないわけじゃないよ? それはこないだチェルフィッチュで『地面と床』をやったときにも思ったんです。「今日は私、すごい熱い演技してんな」と思って、途中でちょっと恥ずかしくなったんだけど。はっちゃんに韓国で観てもらったときより熱かったと思う。フランクフルト・バージョンは。

――それは、何で熱くなったんですか?

青柳 なんかね、今回、岡田さんとちょっと話をしようってなったんですよ。『小指』とか、京都での金氏(徹平)さんとの作品づくりを経てどういうふうに変わったかっていう話を、ランチしながらしゃべっていて。何を食べたかと言うと、グレネゾースっていう、フランクフルト(?)の郷土料理の、緑のどろっとした冷たいスープだったんだけど。『小指』のとき、勝地君や松重さんとかのやり方に触れて――私が今までやってきたことと、彼らのやり方とか、感情みたいなものをミックスできたら一番面白いものになると思ったんだよね。今、すごい大まかに言っちゃったけど、そういう話をしたあとの回だったから、そういうモードが強くなったんだろうなと思う。

――『小指』を観ていると、そのやり方の違いというものはある気がしましたね。舞台に立っている青柳さんとか、あるいは飴屋さんを観ていると、「役者として感情をあらわす」とかっていうことではないものを目の当たりにしている感じがあるんです。

青柳 感情ってものを、考えてやってるんではないんでないかってこと?

――考えてないってことはないでしょうけど、さっき青柳さんが「役者じゃないのかも」って言ったように、役者として「この感情をあらわすためには……」って回路で考えてはいないように見えるんですね。でも、そういうことを考えないのだとすれば、どうしてそこにたどり着くのかが不思議なんです。

青柳 飴屋さんは私のやり方をいいと思ってくれてるし、「おとぼけは頑張ってると思う」とかって毎日言ってくれてたんだけど、でも何だろう、私は飴屋さんが言ってくれるほど考えてない気がすると思ったんだよね。一緒の舞台に立ってると、「私、飴屋さんが聴いてるほど音を聴けてないな」ってことをすごく感じたの。もちろん立ってる位置とかやってる状況は違うんだけど、聴けてる音は飴屋さんのほうが明らかに多くて、そのことがショックだったりもしたわけ。でも、飴屋さんは同じだと思ってくれてるし、「おとぼけと同じようにできたらいいな」と言ってくれるんだけど――そう言われると、自分には何もないように感じるんですよね。

――何もないはずはないですけどね。

青柳 何だろう? でも、飴屋さんには「おとぼけは何も考えてないよね。動物だから」ってこともよく言われますよ。まるでそうであって欲しいかのように、呪文のように言ってくる(笑)。だから――考えてないってことはないかもしれないけど、『まえのひ』とかも、しゃべりながらまったく別のことを考えてたりするし。

――え、そうなんですか?

青柳 結構ありますよ。今こうしてしゃべってても、別のこと考えてたりするじゃん。そういう状態と一緒。

――いや、日常会話ならわかりますよ。あれだけのことをやっててその状態になるってすごいですよね。青柳さんがやってることって――「この感情に至るために、この手順を踏んで」ってアプローチでないとすれば、それは一般的には「役になりきってる」みたいに思われがちだと思うんですけど……。

青柳 そうね、憑依系ってよく言われる。

――でも、わかんないけど、きっと「憑依」ってこととは違いますよね?

青柳 うん、憑依してない。だって別のこと考えてるんだから。でも、すごくそう言われるってことは、憑依してるように見えるんだろうね。

――さっきも言いましたけど、それはきっと、青柳さんがどういう回路でそこに至っているのかが全然見えないからじゃないかと思うんですよね。

青柳 だから、皆が「この台詞を言うときの気持ち」みたいなことをしゃべってるのがすごいなと思うし。すごいって言うか――私にもあるのかな。いや、ないよ。うん、ないね。『cocoon』とかでもそれはないです。公演の前とかも、ずっと直前までくっちゃべってるもんね。だから「何も考えてません」っていうことになっちゃうんだけど。

――ああ、短く言おうとすれば。

青柳 でも、「まえのひ」のときは、楽屋裏とかにもいたじゃん。そのときに、「あ、こういうこと考えてるんだろうな」とか、そういうのはなかったですか。

――うーん、ただただわからなかったですね。髪を梳かしながら小さな声で台詞をつぶやいている姿は見ましたけど、それは別に、「どんなふうに役を作っているか」ってことではないですもんね。

青柳 まったくない。

――でも、何かを憑依させてるわけでもないし、青柳いづみのまま舞台に立ってるとかってことでもないですよね。

青柳 誰なんでしょうね、あそこに立っているのは? 考えてること――私がこんなに必死で台詞を覚えている横で、何でナカジ(中島広隆)はずっと変なゴムで筋トレしてるんだろうとか、そういうことはずっと考えてましたけど。だから、役と関係ないことしか考えてないです。だから、舞台監督が「じゃあ始めます、どうぞ」って言う、そこからだね。

――その瞬間に、何が起きてるんですか?

青柳 何が起きてるんだろう? それはでも、観客を見てからのことだと思う。私が出てる作品って最近は自分一人しかいないことが多かったから、そうすると劇の始まりは自分で始めるじゃん。でも、『小指』のときは飴屋さんのタイミングで始まるし、観客に見えるタイミングも飴屋さんだから、それが難しかった。何日目かまではプロローグをやるのが難しかったんだけど、途中でね、息を吐けばいいんだと思ったの。

――息を吐く?

青柳 それは別に誰に言われたわけでもないんだけど、歯の隙間から出す感じの呼吸の仕方でスーッと息を吐く――それをやるのがいいって、どこかの本番中に思ったんですよ。エピローグの処刑台のシーンとかは全然そういうことは考えてないけど、その呼吸でやれてることがいい感じに繋がるんじゃないかと思って。そういうのをやるとzAkさんも(マイクのボリュームを)上げてくれて、それが(青葉)市子のギターと一緒に流れてる感じが、あ、これだって思ったの。「何か足りないのは私の呼吸だ」と。

――でも、それはどう作用したんですか。もちろん、お客さんに届く音は違ってくるけど、そういうことだけで息を吐いてたわけではないですよね?

青柳 観客に音が聴こえなくてもいいんだけど、でも、違う。そういう呼吸をしてるのと、してないのとでは。それは何でかはわかんないけど、今回は吐く息がいいなって思ったの。そういう呼吸をするってことは、考えてないってことではないのかもしれない。

――『en-taxi』で飴屋さんにインタビューしたとき、青柳さんも同席してましたけど、そこで『飴屋さんとジプシー』のときの話になりましたよね。あれはあの回数だからできたけど、倍の数やれと言われるとそれは無理だったし、「演劇なのかどうか、かなりすれすれのところだった」と。でも、たとえば『cocoon』は、「かなり一回性に迫りつつ、でも、それが僕とは違ってちゃんと再現性の中にギリギリで落とし込まれているように見える」と飴屋さんは言ってましたよね。そこで言われている再現性というのは、言い換えると、「この回路をたどってこう調整すれば、この状態にたどりつける」ってことだと思うんですよ。でも、青柳さんは、それとは違うことをやってるんだと思うんです。

青柳 うん、「私は役者じゃないのかも」と思ったのは、それと繋がるのかもしれない。はたして私がやっていることは演劇なんだろうかって。

――演劇じゃないとしたら、何をやってるんでしょうね。

青柳 そう、京都で金氏さんと作った作品をやってるときは、「何を見せてるんだろう」って気持ちにもなったわけ。私は今、何やってんのかなって。それはすごく良い意味で「何やってるんだろう」と思ったんだけど、今まであんまりそんなふうに感じたことはなかったんだよね。その作品には演出家がいなかったから、確固として「こうだ!」ってものがなくて、ふわふわした感じがあったんでしょうね。その作品は『名久井さんとジプシー』に近い感じで、美術批評家のおじさんのしゃべってることを完全にトレースしてしゃべりまくり、金氏さんっていう美術家のこともトレースして――金氏さんは既製品を組み合わせて一つの作品にしたりしてるんだけど――それは私がトレースしても同じじゃないですか。それをやってみることで、「美術って何?」ってことを考えたりしてたんですけど、そこでは別に、俳優として考える隙間みたいなことはなかったんですよ。健全なる俳優として考えるべきことが一切ない状況、それが面白かった。自分が俳優だとも思わなかったし。じゃあ何なのかはわかんないんだけど。

――今、『名久井さんとジプシー』の話がありましたけど、あのときは「自分の言葉を持たない存在である」ということが一つ重要な鍵になっていましたよね。それはブックデザイナーである名久井さんもそうだし、女優である青柳さんもそうである――そういう考え方で成り立っていた作品だったと思うんです。

青柳 うん。名久井さんのときは、「自分は女優なんだな」ってことを思ってたんだけど。

――ただ、でもやっぱり、そこでデザインされる/発語される言葉を書いたのは他の誰かだとしても、そのデザインや発語や身振りはかなり任されているわけですよね。藤田さんの作品だと、「こういう風に台詞を言ってくれ」と演出をつけられることはないわけですもんね。

青柳 ない。岡田さんの作品でも、最近は一切ないですね。表面的な体の動きに関しては何か言われることはあるんだけど、それは言っちゃえば駒みたいな感じですよね。少し前に、岡田さんに対して「何でもっと演出をつけてくれないんだ」ってことを言っちゃったことがあるんです。それを「駒みたい」と感じるのは、自分の立っている場所みたいなところに留まってしまってるから、そう感じちゃうんだと思うんですよね。でも、もっと自分エリアが広がって、もっと上からこう――見渡して考えると、「駒は駒っしょ」って思うというか……。もはやそういうことを考えるってことではなくなってる感じがある。岡田さんも藤田君も、年々演出っていうものが大きくなってる感じ。『小指』と京都での作品づくりを経て、「それはそうなるよね」ってことを思ったし、「そんなことは言わんでも含まれてるじゃん」ってことを思ったから、岡田さんに謝ったんです。「どうもすいませんでした」って。彼と一緒にやるんだったら、「何でもっと演出をつけてくれないんだ」と思ってた私の考え方が間違ってる、って。私もそういう考え方になれたし、そのことを確認できたのはすごいよかったなって思いました。

 話を聞き終える頃には1時間近く経過していた。本当はもう少し聞きたいこともあるけれど、パリにはもう1泊することになっている。それはまた明日に取っておくことにした。青柳さんはずっと僕の質問に答えているせいで、まだカレーを食べ終えられていなかった。