朝5時に起きて、いそいそと身支度をしてアパートを出た。羽田空港に到着すると早々に手続きを済ませ、朝食を選ぶ。羽田の国内線ターミナルを利用するたびに思うのだが、ちょうど良いサンドウイッチが見つからない。新幹線だと、小さいサイズのサンドウイッチが6切れくらい入ったパックが売られている。朝だとあれくらいが嬉しいのだが(しかも小さいから少しずつ食べられる)、羽田で販売されているサンドウィッチはコンビニと同じサイズだ。これだと旅の浮かれた気分が出なくなる。

 箱に入ったサンドウィッチもあるにはあるのだが、どれもカツサンドで朝食には重いのである。それでいつも量が少なめの空弁を買ってしまうのだが、空弁は量が少なくても千円近くする。「せっかくの旅行だし」と自分に言い聞かせるのだが、しょっぱなから少しくじけそうになる。今日は「母と暮らせば公開記念弁当」を購入した。『母と暮らせば』を観たわけではないが、「母」というフレーズに反応してこれに決めた。これから出かける先は、寺山修司ゆかりの街、青森県三沢市である。

 9時半に三沢空港に到着し、バスに乗って三沢駅を目指す。最初の印象は寒いの一言に尽きる。一昨日酔っ払ってマフラーを忘れてきてしまったので、首元から身体が冷える。駅周辺を散策してみるつもりだったが、寒さにくじけてすぐに待合室に入った。風情のある待合室だ。廊下にはストーブが一つ置かれていて、古い蕎麦屋が一軒だけある。

 11時半、三沢駅で穂村さん、青柳さん、それに英明さんや記念館の職員の方と落ち合う。今日は寺山修司市民大学総合講座の一環として、穂村さんが「寺山短歌の新しい解釈」と題した講演会が行うのだ。そういう講演会があるという話を教えてくれたのは青柳さんだった。

 昨年12月の公演を観ているときから、いつか青森に行こうと決めていた。ただ、公演期間中に三沢に行ってしまうと、「現実」と「虚構」のうちの「現実」のほうに引っ張られすぎてしまうのではないかという気がして――その二つであれば寺山は「虚構」を愛した人だ――、青森を訪れないまま舞台を観た。しかし、舞台が終わった今、あらためて寺山修司のことを考えてみたいという気持ちになり、これはちょうど良い機会だとやってきたわけである。

 記念館の方が用意してくれたクルマに僕まで乗せてもらって、まずは寺山修司の足跡を辿る。空襲で焼け出された母・はつと修司が身を寄せた、叔父が経営する食堂跡地。寺山がレコードプレーヤーで音楽を聴かせてもらっていた時計店。当時かくれんぼをして遊んでいた、天満宮裏にある墓地。母が米軍基地で勤め始めた頃に住んでいた自宅跡地。映画のモデルにもなった、同級生とかくれんぼをして遊んだ不動神社。それぞれの場所に「寺山修司ゆかりの地」と書かれた手書きの案内板があり、解説文が添えられている。たとえば、不動神社の解説文にはこうある。

修司はここでよく相撲をして遊んだ。運動神経は鈍く、相撲も弱かった。何度かかっていっても投げ飛ばされ、だが負けず嫌いで、そのしつこさは相手をうんざりさせるほどだった。小高い丘になっているこの場所は、孤独な修司にひとりぼっちの安らぎを与えた。読書をしては鳥の声を聴いてうたた寝する。寺山の当時の読書を振り返り、同級生らは「難しくて小学生が読むようなものではなかった」と述懐する。

 お昼は「赤のれん」というお店に案内してもらった。今、B級グルメとして取り上げられるメニューの多くは、戦争の影響を受けている。餃子であれば、大陸から引き上げてきた人たちが作ったものだろう。室蘭で「焼き鳥」と注文すれば豚肉の串が運ばれてくる、これは戦後鶏肉を手に入れることが困難になった時期に豚肉で代用し、それが今日まで続いているものだ。

 基地の街・三沢では、戦後、米兵向けに地元の農耕用の牛が食肉に加工されることになる。ただ、米兵は赤身を食べるだけで、内臓や脂の多い部位は日本人向けに払い下げられた。三沢の人にとって、それまでは肉と言えば豚肉だった。慣れない牛肉を美味しく食べようと甘辛いタレで調理して提供するようになったのが、「赤のれん」名物のバラ焼きである。この店がバラ肉発祥の店だが、他にもバラ焼きを提供する店は多く、最近では隣の十和田市が「十和田バラ焼き」としてB1グランプリに出品したそうだ。

 テーブルの真ん中には焼き台が置かれていて、自分たちで焼いて食べることになる。皿に豪快に盛り付けられたバラ肉とたまねぎを少しずつ載せていると、店員さんがやってきて「一気に焼かないとダメです」と豪快にさばいてくれる。山盛りになったバラ肉とたまねぎを「どんどん混ぜて焼いてください」というのだが、混ぜるとこぼれてしまいそうだ。しかし、こぼれるのを気にしていてはいけないのだ。

 それにしてもすごいボリュームだ。肉も相当量があるし、ごはんもドンブリに山盛りだ。僕でも食べきるのが苦しいほどだが、英明さんはいつのまにか平らげてケロリとしている。英明さんは不思議な方だ。こちらは映画『書を捨てよ町へ出よう』を観ているので、「あの映画の主人公だ!」と思ってしまうけれど、とても気さくな方だ。飾ったところがなく、鳥のような身軽さを感じさせる佇まいだ。穂村さんの講演が始まると、英明さんは入り口の扉のところに立っていて、遅れてやってきた聴講者が出入りしやすいように扉を開閉して過ごしていた。扉の横に立ったまま穂村さんの講演に耳を傾け、時々嬉しそうに頷いていた。

 穂村さんが話をするのを聴いていると、いつも不思議な気持ちになる。言い淀むということもなく、かといって決まり切ったことを朗々と語るというのでもなく、最初からその道筋で語ることが決まっているかのように、そう語られるしかありえなかったかのように言葉が聴こえてくる(もちろんメモを用意して語っているというわけでもなく)。

 その語りによって、寺山短歌の瑞々しさが解明されてゆく。自分で短歌を読むようになってみると、寺山短歌の異質さに気付かされるのだという。話の中で印象的だったのは、寺山の「嘘」についての話だ。「正直な人は、なんとなくくすんだ短歌を作り続ける」と穂村さんは言う。裏返せば、寺山修司は自由自在に「嘘」を――「フィクション」を構築することに、寺山短歌の瑞々しさの源泉があると言える。

 近代短歌というのは、私がハンディカメラを構えた風景を詠んでいるようなものだと穂村さんは言う。つまり、そこでは短歌というものはドキュメンタリーのような色彩を帯びる。それに対して、寺山はフィクションを構築する。その特質を説明するために、穂村さんは寺山の歌とその改悪例を披露する。

寺山修司)海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
(改悪例)海を知らぬ私の前に麦藁帽の少女は両手をひろげていたり

 改悪例の短歌は、「私」がハンディカムで捉えた風景を詠んでいる。それに対して、寺山の短歌はフィクションの世界だ。ハンディカムのたとえで考えるとわかりやすいが、どうして「われ」は「少女」が海を知らないということを知っているのか。あるいは、なぜ「われ」の麦藁帽が「われ」のハンディカムに映っているのか。寺山は「われ」と言いながら、そこで詠まれている風景の中には存在しておらず、まるで映画監督のように存在している。そうして「われ」役の役者と「少女」役の役者を起用し、「もうちょっと手を広げてみようか」なんて演出をつけている。ドキュメンタリーではなく、ドラマとして短歌の世界を構築する――だからこそ寺山の短歌は瑞々しいのではないかと、穂村さんは言う。

 寺山短歌の特質を語るために、穂村さんは塚本邦雄の短歌を紹介した。塚本邦雄は寺山の親友であり、同時にドキュメンタリーだった近代短歌をドラマに変える「前衛短歌運動」をおこした人物である。穂村さんにとっては二人とも好きな歌人であるそうだが、寺山の短歌と塚本の短歌を比べると、「塚本邦雄のほうがお人よし」だと言う。塚本の短歌に、こんな歌がある。

象牙カスタネットに彫りし花文字の マリオ 父の奈ゆくさき知れず
安息日。花屋のずるいマダム、掌に鋏ふり唄ふ音痴のキリエ

 寺山の短歌に比べると、「花屋のずるいマダム」という言葉の出てくる塚本の短歌のほうが異様に見えるけれど、「本当に素朴な性格なのはどちらかと言えば塚本」だと穂村さんは言う。その素朴さを説明するために、穂村さんは「若い人だと知らない人もいるかもしれないけど」と前置きをして“無国籍”というキーワードを紹介する。

 西洋から演劇が“輸入”されたとき、その演劇を上演するためにはかつらが使用されていた。つまり、西洋のドラマを演じるために西洋人に扮装していたわけである。だが、かつらや付け鼻をつけた日本人の姿というのは、日本人とも言い切れず、かといって西洋人であるわけもなく、無国籍な存在である。その無国籍が何かと言えば、日本というのはそのままでは素敵なものにならないんだけれども、でも本当の西洋のことはわからないし、海外でロケをすることもできない。そういったいろんな事情で西洋でも日本でもなく、現実をちょっとかっこよくしたものとして「無国籍」な世界が描かれていた、と。

 その意味では、「塚本の初期作品は無国籍」だと穂村さんは言う。そこには「マリオ」や「マダム」といった単語が出てくるけれど、それはまさに金髪をつけて付け鼻をした世界である。それに対して、寺山修司は一見するとドキュメンタリーであるように装いながら、「嘘」を、ドラマを構築している。

 もう一つ穂村さんが指摘したのは、塚本の初期作品には「われ」が登場しないということだ。近代短歌のドキュメンタリーから遠ざかり、ドラマを構築しようとしたときに、普通は「われ」という言葉を遠ざける。「われ」という一人称はドキュメンタリーを想起させやすいところがある。しかし、寺山は「われ」という言葉を用いながら、ドラマとして短歌を成立させている。

 穂村さんの話を聞きながら、僕は最近考えていたことを思い浮かべた。それは「目」の話だ。

 世界というものは、時に瑞々しい印象を「私」にもたらす。では、どのようにすればその瑞々しさを捉えることができるのか。一つの考え方としては、世界にはまず「私」が存在しており、その目が対象の美しさや尊さや存在感を認識する。これが一つの考え方だろう。しかし、その美しさや尊さや存在感を描写するという段になると、このアプローチで著述したのではとても退屈なものになりかねない。僕はこの方法しか知らなかったけれど、最近『現象学入門』という本を読み始めたことで、それとは違うアプローチがあるということを今更ながらに知った。

 ところが、じつは唯一〈知覚〉と呼ばれる息子だけは、父親の先生を脅かす息子なのである。
 〈知覚〉はたしかに自我のうちに生じたものでありながら、つねに自我を超えた非知のもの、“独我論的自我”の自由にならぬものとしてやってくる。この理由で、自我を超えて自我の事故原因ではないものとして現われるこの〈知覚〉こそ、自我に、自我ならざるものがたしかに〈外側〉に存在することを告げ知らせる唯一の根拠となるのである。(『現象学入門』p56)

 僕はドキュメント側の人間ではある。だが、ドキュメントの最善の方法は何だろうということを最近はぼんやり考えている。知覚したものをどのように扱い、テキストにするかが問題だ。

 講演会は急遽机を追加しなければならないほどの盛況で、講演が終わると穂村さんのサインを求める長い列ができていた。ひと段落したところで、市の中心部から少し離れた場所にある寺山修司記念館に連れて行ってもらう。その途中で、基地の前を通りかかった。一般には門の向こうがアメリカだと思われがちだが、その手前の土地が既にアメリカなのだという。そんな話をしていると、「ハワイにも雪が降るっていうことだ」と漏らす。

「ハワイ、初めてだ」と青柳さん。

「僕も初めてだな」と穂村さん。

「ここをハワイにしてどうするんだろう?」

「それがわからないんだよ」

 記念館を見学させてもらっているあいだに、すっかり日が暮れていた。空には煌々と月が輝いている。「今日が満月らしいです」と青柳さんが教えてくれる。記念館を出てみると、月明かりと雪の白さで思いのほか明るかった。雪の上には小さな足跡が残っていた。何の足跡かと尋ねると、おそらくうさぎではないかと記念館の方が教えてくれた。先月上演された舞台のラストには、穂村さんが書き下ろした詩を青柳さんが語っていた。詩の中には、「満月」と「うさぎ」という言葉が出てくることを、ふいに思い出す。

 新幹線の時間が迫っている穂村さんとは記念館で別れた。青柳さんも今日東京に戻るのだが、もう少し時間に余裕があるようで、「海ってここから近いんですかね?」と青柳さんが言う。地図を確認すると、海はさほど離れていないようだった。タクシーを手配してもらって、「ここから近い海に行ってもらえませんか」とお願いする。15分ほど走ったところで、正面に松林が見えてくる。「本当はずうっと松林が続いてたんですけど、津波で流されて、今新たしく植林してるところなんです」と運転手さんが教えてくれた。

 まさに松林が途切れた場所で、運転手さんは車を停めてくれた。少し待っていてもらえますかとお願いして、海に向かって歩いてゆく。海の上に真っ白な月が浮かんでいる。高い波がしぶきを上げている。波の音というより、地響きのような音だ。低気圧の影響か風も強く、海から吹きつけてくる風で凍えるように寒く、まっすぐ立っていられないほどだ。

満月に向かって
思いっきり笑顔を浮かべて
財布を振るとお金持ちになれる
ばばちゃんが教えてくれた
でも、知らなかった
中にお金が入ってると逆に出て行っちゃうんだって

 これは舞台のラストに読まれる詩の一節だ。海辺にたどり着くと、青柳さんは財布を取り出して財布を振った。僕の位置からでは後ろ姿しか見えないけれど、きっと思いっきり笑顔を浮かべているのだろう。財布を振り終えて、しばらく海を眺めていた青柳さんは、突然思い立ったように消波ブロックを降りて、浜辺に向かって歩き出した。まだ満潮には遠く、波打ち際まではしばらく砂浜が続いていた。

 が、青柳さんが砂浜に降りた瞬間に高い波がやってきた。あ――と思った瞬間に波は一気に消波ブロックのあたりまでやってきて、青柳さんの足元は濡れてしまった。「今、完全に飲み込みにきてたよね?」と青柳さんは慌てた様子で言っている。たしかに、その波は引き込みにきたようにしか見えなかったが、海に向かって歩き始めた青柳さんの姿も、何かの意思に突き動かされて海に飲み込まれに行っているようにしか見えなかった。