6月15日

 5時半に目を覚ます。上のフロアから子供が駆け回る音が聴こえてくるまで待ってから、洗濯機をまわす。テレビでは一昨日の『王様のブランチ』の様子をイラストで再現し、報じている。佐々木希によるコメントも紹介され、そこに「主人」という言葉があることを知り、暗い気持ちになる。天気予報では「今日は猛暑日」としきりに報じられているが、朝はまだ肌寒いくらいだ。洗濯したのは、沖縄に持っていくつもりの部屋着たちで、早く乾くよう、ハンガーには掛けず、物干し竿にでろんと引っ掛けておく。炊飯器で米を炊き、たまごかけごはんを食べるつもりでいたのに、冷蔵庫を開けてみると卵がなかった。ツナ缶を開け、ツナごはんにして平らげる。コーヒーを挿れているうちに、知人が起きてくる。「そっか、しばらくコーヒーも飲めんのか」と知人が言う。

 ここ数日のあいだに洗濯物が溜まっていたので、もう一度洗濯機をまわす。何気なくケータイアプリから預金残高を確認すると、確定申告の還付金が振り込まれていて、ワッと残高が増えている。還付金があるということは経費を差し引くとほとんど儲けが出ていないことの証であり、その還付金も支払いが遅れてしまっていた区民税や保険料の支払いで大半が消えていくというのに、やっぱり嬉しくなる。洗濯物を干して、10時過ぎにアパートを出た。スーツケースを転がす音が、以前にもまして大きく響いているような気がしてしまう。あきらかに「わたしはこれから遠出をします」と宣言しているわけで、どんなふうに見られているのかと不安になる。ましてや今日はハープパンツで出かけてしまったから、呑気に観光に出るようにしか見えないだろう。

 千代田線で大手町に出て、東西線日本橋に、そこから都営浅草線快特に乗って羽田空港にたどり着く。空港はとても静かだった。臨時休業中の店舗も多く、書店も閉まったままだ。まずはトイレで長ズボンに履き替えて、チェックイン手続きを済ませ、荷物を預ける。身軽になったところで、空港の様子を眺めて回る。土産物うりばには、どこもビニールカーテンが貼られていて、ほとんど全員フェイスシールドをつけている。知らない世界にやってきたみたいに思える。人影はまばらで、巡回中のスタッフの姿が多く目に留まる。若い女性スタッフがふたり、連れ立って歩きながら、「歯ブラシと千枚通しの違いは……」と話しているのが聴こえた。何の会話をしていたのだろう。乗客らしき人の姿よりも、客室乗務員とおぼしき人たちの姿を多く見かけた。好むと好まざるとにかかわらず、働きに出なければならなかった人たちのことを思い浮かべる。

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 レストランも一部は休業中だ。北ウイングの端っこに「吉野家」を見つけ、ネギ玉牛丼の並を注文する。飲食店の中には席を間引いてある店舗もあったけれど、ここはそんな対策は施されていなかった。空いているうちに食べきらなければと、妙に焦りながらごはんをかき込んだ。早めに保安検査場をくぐり、ロビーで過ごす。人影はまばらだが、気分は落ち着かなかった。航空券を手配した段階では、JALスカイマークは中央席の販売を取りやめていた。だからスカイマークを選んだのだが、しばらく前に予約の確認をしたときに、中央席も選択できるようになっていた。どうやら6月に入ってからは中央席の販売を再開したらしかった。話が違う。那覇までおよそ3時間、誰かと隣り合って過ごすのはまだ不安だ。それからというもの、毎日のようにサイトにアクセスして、席の埋まり具合を確認していた。空港にたどり着き、隣がまだ空席であることを確認してから航空券を発見したものの、もしかしたら後から誰かがそこを指定したかもしれないと思うと、不安になってくる。ロビーにいると、出発までのあいだ電話をして過ごす人の姿をちらほら見かけた。大抵の場合、マスクをおろして話している。大半はひとり客だが、中には若いグループ客の姿もある。不安に駆られながら搭乗し、6Hの席に座る。隣が空席のまま飛行機の扉が閉じられてホッとした。

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 滑走路が空いているせいか、スカイマーク 517便はあっという間に離陸した。普段はトイレに立ちやすいようにと通路側を指定していることもあって、窓から東京の景色を眺めるのはずいぶん久しぶりだという感じがする。窓の外を流れていく風景を、食い入るように眺める。2時間ほどで、飛行機は那覇空港に向けて降下を始める。冷房の効いた機内にいるのに、暑さが伝わってくる。飛行機が着陸し、飛行機を一歩出ると、むわっとした空気がまとわりつく。空港は静まり返っている。動く歩道を歩いていると、これから飛行機に乗るのであろう人とすれ違う。両手にオリオンビールをつかんでいる。手荷物受取所に出ると、地面に張り紙がある。「感覚を空けてお並びください」と書かれていて、そうか、こういう場所にも影響が出るのだなと思う。スーツケースをピックアップして、ゲートを出る。サーモグラフィーのカメラがこちらに向けられている。モニターを確認している人の他に、もうひとりスタッフが座っていて、じっとこちらを見ていた。当然ながらロビーも静かだ。親類を迎えにきたのか、老人がぽつんとベンチに座っていて、じゅーしーおにぎりを頬張っている。レンタカーの窓口は開いているけれど、閑古鳥が鳴いている。

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 スーツケースを引いて歩くのは気が引けるので、ホテルまではタクシーで移動することにした。中原タクシーという個人タクシーだ。「今年は全国的に暑いんじゃないですか?」と運転手さんが声をかけてくれる。いやいや、空港に着いた瞬間に「沖縄のほうが暑いな」と思いましたと答える。さすがに空港は閑散としてますねと伝えると、「この二週間ぐらいで、ちょっと増えてきたほうです」と運転手さん。「飛行機が入ってきても、3、4名歩くかどうかでしたよ。最近は、波の上ビーチでも、週末になるといっぱいしてますよ」。トンネルを通過し、海が見えてきたところで運転手さんはそう話してくれた。「いっぱいする」というのは、混雑する、賑わうという意味の言葉で、その響きに懐かしくなる。沖縄に生まれたわけでも、沖縄に暮らしたことがあるわけでもないのに「懐かしい」だなんてインチキだと思いながらも、やっぱり懐かしく感じている。タクシーが国際通りに入る、ほとんどの店がシャッターを下ろしたままで、まだこの状態なのかと驚く。それを察したのか、「これでも開いてるほうなんですよ」と運転手さんが言う。「ステーキハウスなんかでもね、どこも弁当、弁当でね。千円の弁当でね、おいしかったですよ」。

 タクシーを降りて、「ホテルランタナ」(那覇国際通り)へ。最近オープンしたばかりのホテルだが、この状況で1泊3500円に値下がりしていた(普段はゲストハウスに宿泊しているけれど、この状況下でゲストハウスに宿泊すると感染を拡大させてしまうリスクが増すので、ホテルに宿泊することにした)。入り口にアルコール消毒液があり、手に塗りたくって、自動精算機でチェックイン。ここは10階建てのホテルで、ぼくの部屋は9階だ。公設市場から程近い立地ということもあり、窓からの景色を楽しみにしていたのだが、窓が磨りガラスになっていて、開けることができなくなっていた。この値段だというのにツインルームだったので、片方のベッドに荷物を広げる。一息ついたところで、16時、散歩に出る。「ホテルランタナ」から坂道を降りてゆくと、すぐに仮設市場がある。角を曲がると、旧公設市場だ。おわー、解体されている。解体工事がすべて終わったと、情報としては知っていたけれど、目の当たりにするとびっくりする。観光客はほとんど皆無で、のんびりした時間が流れている。

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 「市場の古本屋ウララ」に立ち寄る。棚を眺めているうちに、じんわり汗が流れる。堀場清子『イナグヤナナバチ 沖縄女性史を探る』(ドメス出版)、『戦後50年 おきなわ女性のあゆみ』(沖縄県)、『時代を彩った女たち 近代沖縄女性史』(ニライ社)などを買う。「トークをしてから一年経って、あっという間だったような気もしますけど、やっぱり長かったなと思います」とUさん。一年前の今日は「ジュンク堂書店」(那覇店)でUさんとトークイベントを開催したのだ。通りが静かですねと感想を伝えると、「私としては、これでも4月、5月に比べると、明るくなったほうだと思ってました」とUさんが言う。本はしばらく預かっておいてもらうことにして、散歩を続ける。仮設市場に引き返し、中に入ってみる。お客さんの姿はほとんど見当たらなかった。「山城こんぶ店」には和子さんの姿があった。「よくきたね。怖くないの?」と和子さんが言う。「見て、4時過ぎにこの状態って、信じられないよ」。いつもなら18時過ぎまで営業しているのに、あちこちで店じまいが始まっている。「やっぱり、お客さんがいないと気が抜けるんだね」と和子さんが言う。中にはマスクをしていない店主の姿もあり、外からやってきた観光客が感染させてしまわないかと心配になる。

 「ココカラファイン」(ドラッグセガミNaha平和通り店)に立ち寄る。マスクもたくさん並んでいるけれど、マスクは東京から持ってきてある。制汗スプレーと、ポケットサイズの除菌ジェルを買っておく。ぐるぐる歩いているうちに「大和屋パン」の前を通りかかり、明日の朝ごはんを買っておくことにする。「今日は年金支給日だから、あんまり残ってないね」と勝子さんが笑う。くるみレーズンのパンと、一口サイズのチーズ入りのパンを買う。「ウララちゃん、まだいた?」と勝子さん。「あなたに取材してもらって、おかげで友達になったから」。ひとしきり歩いたところで、「市場の古本屋ウララ」で預かってもらっていた本を受け取る。17時、「ファミリーマート」(国際通り中央店)で2リットルのミネラルウォーターとR-1を買って、ホテルに引き返す。

 17時半、再び街に繰り出す。「足立屋」は少し混んでいたので、「末廣ブルース」に入店。さっそく除菌ジェルを開封し、手指を消毒する。「末廣ブルース」は数日前まで休業していて、ようやく再開したばかりだという。季節が変わったせいか、メニューも少し変わっている。まぐろの時雨煮と、かしらとハラミの串、それに生ビールを頼んだ。飲み食いするとき以外はマスクをしておく。そうしていると、飲むペースがゆっくりになって、落ち着いて飲めた。ガラス越しに軒先を眺める。旧公設市場の解体工事が進んでいたときはトラックが行き交っていたこの通りも、今はほとんど車が通らず、そこを行き交う観光客の姿もいなくなった。近所の子がふたり、フラフープで遊んでいる。ビールを2杯、生レモンサワーを1杯飲んで、宿に引き返す。夕方のニュース番組では辺野古で抗議活動が本格的に再開されたと報じられている。工事車両が次から次へと辺野古のゲートに入ってゆく。

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 ホテルでしばらく読書をして、21時に再び外に出る。すっかり夜だ。湿度は相変わらず高く、空気はじっとりしているけれど、風が強くて心地よい。那覇はもう夏だ。静かな路地を抜け、姫百合橋に出る。通りの向こうを6人組の男女が歩いてゆく、あれは観光客だろう。栄町市場の飲み屋はそれなりに営業していて、賑わいを取り戻しつつある。21時半、「うりずん」の前に出てみると、ちょうどHさんがお客さんを送り出しているところだ。数秒の間を挟んで、「あれ、橋本さん? 頭どした!」とHさんが驚く。もうすぐラストオーダーだけど、よかったら入ってと言ってもらって、カウンターに座る。「うりずん」も5月末までは休業していたらしく、今は短縮営業で、週末以外は22時までなのだという。混み合った時間だと他のお客さんにも申し訳ないからと、少し遅い時間を狙ってみたのだけれど、もう少し早くくればよかった。カウンターは貸し切りだ。ポケットから除菌ジェルを取り出す。白百合をカラカラで注文。「ようやく東京を脱出できましたね」とHさんが言ってくれる。脱出という言葉に、なんだか申し訳なさを感じる。白百合を飲み干したところで店を出た。隣にある「謝花酒店」で缶ビールを買って、ごんたを眺めたのち、国道330号線を歩く。塾帰りの子たちがバスを待っている。ZAZEN BOYSを聴き、缶ビールを飲みながら歩いているうちに、企画「R」の原稿のことが浮かんでくる。この道をこんなふうに歩いていると、いつも考えがはっきりまとまってくるのを感じる。

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