8月15日

 7時に目を覚ます。横で寝ている知人に何か言おうとして、驚く。声が出なくなっている。体温計は電池が切れているから測れないけれど、これは熱もあるだろう。アイフォーンのメモに「飼い主に声帯を除去された」と打ち込んで、知人を起こして見せてみると、「切ってねえけど」と言って寝返りを打つ。すぐに薬を飲んで二度寝して、9時過ぎに再び目を覚ます。少しは声が出るようになっているけれど、あまり具合は良くなっていなかった。今日から旅行だというのにと思うけれど、これが昨日でなくてよかったと思う。シャワーを浴びてコーヒーを淹れて、頑張って生き延びて、と知人を見送る。朦朧としながら荷造りをして、12時半にアパートを出る。

 13時半に羽田空港に到着して、薬局を探す。今朝飲んだのが最後の一錠だったが、もう効果が切れてきている。モノレールの改札口からほど近い場所に薬局を見つけて、薬を探す。すぐに見つけられず、店員に声をかける。掠れた声で尋ねてみると、「はあ?」という顔を浮かべられたので、なんだおい、感じ悪過ぎだろと言い残して店を出る。出発ロビーに上がり、再び薬局を探してみたのだけれど見当たらず、このターミナルにはさっきの一軒しか存在しないらしかった。薬は諦めてチェックインを済ませ、検査場を通過し、シウマイ弁当を探す。

 飛行機に乗るときは、空港のレストランで食事をすることはあっても、弁当を買うことは滅多にない。シウマイ弁当を食べるのは新幹線に乗るときだけれども、昨日から崎陽軒の名前を見かける機会が増えて、食べたくなったのだ。それにしても、いつのまにこんな状況になってしまったのだろう。国会議員がタレントに難癖をつけ、テレビ局に押しかけるとは。しかも番組スポンサーの不買運動まで呼びかけている。2011年以降、気に食わないものがあればスポンサーにクレームをつけ、取り下げさせるという流れが出来てしまっているけれど、ここまできてしまったのか。個人的な不満や私怨を公の問題にすり替える、そんなことが繰り返されている。底が抜けてしまった感じがあるけれど、横丁の蕎麦屋を守るのが保守なのであれば、粛々とシウマイ弁当を食べる。搭乗口近くの売店には見当たらなかったけれど、出発が30分遅れていて時間に余裕があるので、ロビーを歩き回ってシウマイ弁当を見つけ、ベンチに座って平らげる。

 飛行機の中では、取材に向けた資料としてビジネス書をiPadで読んだ。素直に読んでいるのだと思われないように、隣の乗客に見えないように傾けながら読んだ。途中で台風の上空を通過するため、揺れることが予想されます、シートベルトサインは消えましたが、お座りのあいだはシートベルトをお締めになってお過ごしくださいとアナウンスがある。上空にまで影響があるのかと身構えていたけれど、ほとんど揺れを感じることはなかった。機内にはモニターがあり、ニュースが映し出されている。戦没者追悼式の映像が流れる。そうか、代替わりして初めての戦没者追悼式だったのだな。17時20分、飛行機は那覇空港に到着する。今日乗った飛行機は、ハイシーズンとあって久しぶりの大型旅客機だ。預けた荷物がなかなか出てこず、レーンさえ動かなかった。今日は300個以上の荷物を預かっているので、返却までに時間がかかる旨がアナウンスされる。しばらく待って荷物を受け取り、ロビーのドラッグストアでベンザブロックを購入し、すぐに飲んだ。

 ゆいレールに乗り、ベンザブロックの説明書きを読んだ。いつもベンザブロックを飲んでいるけれど、改めて目を通す。「服用前後の飲酒はお控えください」とあり、頭を悩ませる。どれぐらいの時間が「前後」に含まれるのだろう。牧志駅に到着して、スーツケースを引きながら平和通りを歩く。おみやげ物屋さんが多いから、今日も営業している店がたくさんある。また新しい看板が増えている。いつもの宿に到着すると、「ああ橋本さん、よかった、今電話したところ」とカーテンの向こうから声がする。「今日はもう帰るんですよ。ウークイだから。お金は明日でいいですよ」と言われて、部屋に上がる。荷解きをして、少しだけ横になり、マスクを外して出かける。市場中央通りはさすがに静かだ。ただ、旧公設市場のあたりまで出ると、営業している店もある。前々から「公設市場の建て替え工事が始まらなくて、ただ閉まったままになっていると活気がないから、市場の前のスペースを借りられないかと相談している」と話は聞いていたけれど、向かい側の店が商品を並べていたり、ガチャガチャが置かれていたりする。

 今日はウークイ、旧盆の最終日だ。今年は珍しく旧盆とお盆の期間がぴったり重なっている。沖縄では旧盆は一大行事なので、観光客相手の店やせんべろの店以外は閉まっている。そんな中でも、「足立屋」はしっかり休んでいる。ぐるりと歩いて再びゆいレールに乗り、市立病院前駅を目指す。ツイッターを眺めていると、RISING SUN ROCK FESTIVALの初日が台風のため中止になったと知る。ナンバーガール復活が発表されたとき、最初の舞台として挙がっていたのがRISING SUNだった。僕は行こうかどうか迷いに迷った挙句、飛行機代とチケット代、それに現地での飲食費を含めると7万円以上の出費になることを考えると、またどこかで機会があるだろうと見送っていた。もし「それでも行く」と決めていたら、どん底の気分になっていただろう。

 ゆいレールが市立病院前駅に到着する。今回8月15日を選んで那覇にやってきたのは、道じゅねーを眺めるためだ。沖縄の旧盆にはエイサーがあり、エイサーを踊りながら町内を練り歩く道じゅねーが行われる。エイサーは何度か観たことがあるけれど、道じゅねーを目にしたのは去年が初めてで、それがとても印象的だったので、今年もまた観たくなったのだ。昨日サイゼリヤで飲んでいたとき、Uさんに「去年エイサーを観たのはどこでしたっけ?」と尋ねて、あれは古島のエイサーですと教えてもらっていたので、ネットであれこれ検索して、今日はどんなルートで道じゅねーが行われるのかを調べておいた。時計をみると、19時45分である。事前の発表では19時半がファミリーマート古島店とあり、“沖縄時間”で少し遅れるだろうと踏んで、まずはファミリーマートを目指す。

 道路のすぐそばが切り立った崖になっていて、谷があり、その向こうにはまた丘がある。地図によればその一帯が首里で、丘にはびっしりと住宅が建ち並んでおり、灯りがともっている。戦争のときのことを思い浮かべる。ここから1キロ弱の場所に、激戦地となったシュガーローフがある。ぼんやり思い浮かべながら歩き、ファミリーマート古島店にたどり着く。働いているのは皆、外国人アルバイトだ。お疲れ様ですと心の中でつぶやいて、オリオンビールを2本買う。道じゅねーがやってくる気配はなく、住宅街のほうに進んでみる。5分ほど歩き、おや、この街路樹には見覚えがある気がすると思っていると、突然音が聴こえ始め、音に近づいていくと照明を焚いている車が見えた。

 ちょうど休憩時間に入ったところで、「次は20分休憩して、大神公園で演舞します」とアナウンスがある。沖縄時間で遅れるどころか、むしろ少し巻いているくらいだ。Googleマップで大神公園を検索して、少し歩く。公園の掲示板には道じゅねーのポスターが貼られていて、携帯電話の番号が大きく書かれてある。ひっきりなしに電話をかけ、「すみません、折り返しお電話させていただきました」と告げ、次の演舞場所を案内し続けている女性がいたけれど、彼女が持っていたのがこの番号の携帯電話なのだろう。公園では、エイサーを舞う青年会の皆さんが休憩している。体力が有り余っているのか、ブランコを漕いではしゃいでいる人もいる。見物にやってきた小さな子供達が駆け回っている。近所の人がぞろぞろと集まってきて、道路に佇んで、エイサーが始まるのを待っている。

 「沖縄市のほうのエイサー、観に行ってみたいねえ」。公園の近くに住んでいるのだろう、若い母親が小学生の男の子に語りかける。「じゃあ、今から行く?」と男の子。「今から行くと、何時に着けるんだろう」「え、沖縄市だと何人ぐらいいるの」「うーん、いっぱい。沖縄市だとね、あっちこっちでエイサーやってるから」。昨日のサイゼリヤでの会話を思い出す。去年エイサーを観たのはどこだったかUさんに教えてもらったとき、「去年観たのは古島です」と言ったあとに、「そんなに規模が大きいわけじゃないし、沖縄市のほうがすごいですよね」とUさんは付け加えていた。でも、僕は大規模なエイサーを観て圧倒されたいわけではなくて、こうして生活の中にあるエイサーが観たいと思う。生活の中にある風景を眺めるのであれば、自分の生まれ育った町や、今暮らしている街にかかわっていればよいのだろうけれど、そうすることに現実感を持てず、こうして遠く離れた場所お祭りを眺めている。僕は永遠にこうやって過ごすのだろうなとふと思う。ということは、いつも「誰かと完璧に打ち解けて話すこと」を思い描いているけれど、そんなことは永遠に実現されないのか。

 ぐるぐる考えていると、太鼓が打ち鳴らされ、エイサーが始まる。道じゅねーを眺めていると、不思議な気分になる。打ち鳴らされる太鼓の音は、何かを払い、洗い流しているように聴こえてくる。これはお盆の行事で、ご先祖様を送り返す行事だ。いつまでも一緒にいたいけれど、そんな願いは叶わず、いつかは離れ離れになる。そのやりきれなさを、太鼓の音で洗い流しているように聴こえる。あるいは、夏の夕立を思い出す。ただ、夕立の音や雷の音は自然のもので、上からやってくるのに対して、太鼓の音は人の手によって地面から発せられている。それは何かに抗おうとしているようにも見える。ただ、そんなのは観ている僕が勝手に思い描いていることで、エイサーの起源は1603年に念仏が伝えられたことだ。明治以降に民間信仰として念仏が広まり、民謡などを取り込みながら大衆化し、太鼓を使いながら演舞するスタイルが生まれたのは戦後になってからだとウィキペディアに書かれている。ふいに危口さん(と搬入プロジェクト)のことが思い出される。

 ひとしきり演舞を終えると、青年団は軽トラックに乗り込んで、次の場所に移動していく。近所の方達もぞろぞろ歩いていく。缶ビールを飲みながらそれに随いていくと、次の場所にたどり着く。僕はこの四つ辻を知っている。ここがなんていう場所なのか知らないし、ひとりではたどり着くことはできないけれど、それでもこの場所を知っている。それは一年前に道じゅねーを見物した四つ辻だ。今年は一人で、ここにいる。2本目の缶ビールを飲みながら、エイサーを眺めた。向こうに月が出ているのが見えた。もう満月は過ぎてしまったのか、それももうすぐ満月になるのか、月は少しだけ欠けていた。

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