9月28日

 8時過ぎに起きる。最近おじさんのにおいがするので、湯を張り、風呂に浸かる。江藤淳蓮實重彦の対談『オールド・ファッション』を少し読み進める。12時にアパートを出て、千代田線と山手線を乗り継ぎ大塚へ。昔、友人のA.Tさんが住んでいた頃は週に何度も通っていたが、駅前の様子はすっかり変わっている。今日は南大塚地域文化創造館にて、ロロの三浦直之さんによるワークショップ「演劇目線のまちあるき」があり、これに参加する。ワークショップを見学したことはあるけれど、参加するというのは今日が初めてだ。

 まず、講師の三浦さんの挨拶から始まる。最近は場所から演劇を立ち上げるということに関心がある、と三浦さんは語る。言われてみれば、何年か前に観たロロの作品からは、特定の場所を感じるというよりも、どこでもあるどこかという印象がある。それが「いつ校」シリーズでは、ありとあらゆる学校につながっているように感じさせてくれるし、あるいは、3年前に『あなたがいなかった頃の物語と、いなくなってからの物語』を観たときに感じた違和感も、そことつながっているようにも思える。でも、三浦さんが今、場所から演劇を立ち上げるというのは興味深くもあり、最近観に行けていないけれど観に行かなければと思う。

 ワークショップは、大塚のまちを歩きながら、3人の架空の登場人物を想像するという内容だった。登場人物は太郎、花子、そしてイギリス人のアリス。ワークショップ参加者それぞれに、「あなたは太郎の6歳を」「あなたは花子の17歳を」と割り振られる。そして、まちのどこを舞台とするかも、シチュエーションごとに指定される。僕が割り振られたのは、アリスの35歳だった。

 45分ほどシンキングタイムが与えられ、参加者はそれぞれ割り振られたエリアを歩きながら、話を考える。ただ登場人物のエピソードを考えるのではなく、「私」と登場人物がそこで何かしら関わったというエピソードを考えなければならない。僕が割り振られた場所は、天祖神社から踏切前までのエリア。最初に目についたのは「やっぱりインディア」というインド料理店である。南大塚地域文化想像館まで歩いていたときも、ベトナム料理店やインド料理店を何軒も見かけていたし、インドからきたのであろう子供達が駆けてゆくのも見かけていた。アリスがイギリス人だということも含めて、やはりインド料理店で出会ったエピソードがいいだろう。そして、僕が指定されたエリアには酒場が何軒も軒を連ねている――となると、自然と話が浮かんでくる。

 僕がアリスと初めて言葉を交わしたのは、「やっぱりインディア」を訪れたときだ。他に客はおらず、僕が店に入るなりアチャールキングフィッシャーを注文すると、彼女も同じセットを頼んでおり、それをきっかけに初めて言葉を交わした。

 アリスの姿は、以前からよく目にしていた。晩杯屋でも、串カツ田中でも、あちこちで姿を目にした。彼女はいつもひとりで飲んでいた。ひとりでいることを持て余しているといったふうではなく、ひとりで飲むのが好きだといった佇まいで、すごく好感を抱いていた。ちょうど『マッサン』が放送されていた時期だったので、酔っ払ったおっさんから「あれ、マッサンだ」と声をかけられることもあったが、彼女はそれに愛想笑いをすることもなく、まったく相手にせずに、ただひとりで静かに酒を飲んでいた。僕もいつもひとりで飲んでいたこともあり、その姿を好ましく思っていた。

 そんな彼女と言葉を交わしたことで、僕は嬉しくなって、ぽつぽつ質問を投げかけながら飲んだ。彼女は高田馬場日本語学校で講師を務めていて、南大塚に家があるという。だから向原で都電を降りたほうが近いのだけれども、ひとりでお酒を飲むのが好きで、大塚まで乗り、家まで歩く途中に、その日ピンときた店に入るのだという。そして、「マッサン」と呼ばれているけれど、彼女はアメリカ人ではなく、イギリス人なのだという。

 ――と、そんな話をしたところまでは覚えているのだが、間を埋めるようにお酒を飲んだせいで酔っ払い、途中で記憶は途絶えてしまっている。後日、再び「やっぱりインディア」を訪れると、店主が怪訝な顔をしている。アリスはこの店の常連だったのに、あの日以来こなくなってしまったらしく、それは僕のせいであるらしかった。憮然とした店主に詳しい事情を尋ねてみると、僕はその日、「イギリスといえば、インドはイギリス領だった時代があるから、やっぱりインド料理にも馴染みがあるんですか」と言いだし、アリスはどうにも居心地が悪そうな顔をしていたのだという。間が持たなくなって、イギリスのことも知っていると伝えたくてそんな話をしたのだろうけれど、どうしてそんなことを言い出してしまったのかと後悔する。

 しばらく経って、一度だけ、アリスとばったり顔を合わせたことがある。それは駅の近くにある「富士そば」で、彼女はカレーライスをツマミに310円の生ビールを飲んでいた。なんだか申し訳ない気持ちになっていると、アリスは僕に気づいたが、僕のことはまったく知らない人であるかのように、すぐに視線を窓の外にやり、ビールを飲んでいた。都電が通りかかる。そういえば彼女は路面電車に思い入れがあるのだと語っていたような気がする。高田馬場日本語学校で教えているのだとして、学習院下の停留所まで歩いて帰るより、山手線で大塚駅に出たほうが早くて安上がりなはずなのに、わざわざ都電で通勤していることも、路面電車が好きだからだと言っていたような気もするが、あの日は飲みすぎたので記憶がおぼろげになっている。アリスは窓の外を眺めながらビールを飲んでいる。やはり路面電車に思い入れがあるのだろうかと思うけれど、もうその質問を投げかける機会は訪れないだろう。

 シンキングタイムが終わると、駅前広場に集合して、太郎の6歳、17歳、35歳、60歳、花子の6歳……と、順番に、それぞれが考えたエピソードを話していく。言ってみれば、そのエピソードを披露する人が瞬間的に俳優となり、その人と、その人が指し示す場所とが舞台となり、それを聞いている他の参加者は観客となる。街角にインスタントな劇場が立ち上がるのは面白い経験でもある(でも、そう考えると、ワークショップの冒頭で、舞台と客席をどう設計するかという話も少しあったほうがよかったのではと、営業中の店に立ち止まらざるを得ないタイミングが訪れるたびに思う)。全員のエピソードが披露されたあと、会場に戻り、それぞれのエピソードをつなぎ合わせて年表を作成し、もう一度発表してワークショップは終了となる。なかなか面白いワークショップだったし、これまで何度も歩いたことがあるつもりになっていたまちでも、こうして歩いてみるとまったく違った見え方をするものだなと思う。

 帰り道、「やっぱりインディア」に立ち寄る。カウンターがある店を想像していたけれど、テーブル席のみであり、入ってみなければわからないものだなと思う。アチャールキングフィッシャーを注文してみたけれど、当然誰とも会話は巻き起こらなかった。キングフィッシャーとチキンティカを追加注文して、それを平らげたところで店を出る。クーポンをもらったので、すぐ近くで滞在制作している佐々木文美さんにプレゼントしようと思っていたのだが、クーポンを見るなり「やっぱりインディア、美味しいよね」と文美さんが言う。今日、ワークショップで散策しているときも、大人数で歩いていることに興味を持った近くの商店の方にスタッフが「フェスティバル/トーキョーの関連企画で……」と説明したとき、「ああ、あの、文美さんも関わってるやつだ」と言っていて、文美さんの地域への溶け込み方に驚いたことを思い出す。クーポンを渡して、山手線に乗り、「越後屋本店」で知人と待ち合わせ、スーパードライで乾杯。18時を過ぎると、人がたくさんやってくる。日曜日だというのに、この時間からお客さんが増えるのは珍しいなと思っていると、あちこちでラグビーの試合結果を語り合っている。