上野は改装中

 末広町で芝居を観る用事があって、久しぶりで上野へ出かけた。

 上野駅不忍口を出ると、右手に大きなガラス張りの建物がある。そのまま代官山あたりに移設しても通用しそうなこの建物の名前は「UENO3153」。外壁にはテナントの名前が書かれている。上野精養軒。薩摩魚鮮。Pepper Lunch。叙々苑。ねぎし。Family Mart。下高井戸 旭鮨総本店。銀座ライオン手羽先唐揚 鳥良。L' UENO――この「L' UENO」というのはフードコートで、ロッテリアやコージーコーナー、ベーカリーなどが入っている。買い物帰りの奥様方や仕事帰りのサラリーマン、女子高生たちで賑わっている。

 UENO3153のオープンは二〇一二年九月十五日。四年前まで同じ場所に建っていた西郷会館をリニューアルしたものだ。西郷会館の二階には「聚楽台」という、元祖ファミリーレストランとでも言うべき店が入っていた。僕も何度か食事をしたことがある。店内はだだっ広く、(最後の営業日をのぞけば)いつでも、何名でも入ることができた。念のため予約しようとしたら断られたというエピソードもある。「絶対に座れますから」と。

聚楽台」が閉店したのは二〇〇八年四月二十一日のことだ。

 入り口にはテレビカメラが何台か待ち構え、店に出入りするお父さんたちにインタビューしていた。「聚楽台」は集団就職で上京した「金の卵」が旧交を温める同窓会の場として利用された店でもあったので、「消える昭和の風景」という見出しでまとめられそうな声を探していたのだろう。

 平成になって上京した僕にとって、「聚楽台」は昔懐かしい昭和の風景というよりも、何かこう、キッチュな空間だった。内装からして妙だ。柱は朱色に、梁は青く塗られた空間は「安土桃山風」を謳っていたが、健康ランドのように見えた。奥には噴水があった、あれも安土桃山風だったのかもしれない。

 不思議な取り合わせだったのは空間だけではない。メニューの一部をここに書き写してみる。

○懐かしのプレート(オムライス・エビフライ・ハンバーグ・ナポリタン) 九三〇円
○カツカレー(サラダ添え) 九三〇円
○竹寿司(お寿司7カン・巻もの) 九八〇円
うな重(吸物・お新香付) 一八五〇円
○広東麺(醤油味) 八八〇円
○中華丼(スープ・お新香付)八五〇円
西郷丼(サツマイモの天ぷら・さつま揚げ・明太子・そぼろ・豚の角煮・温泉玉子・ホウレンソウ) 八八〇円

 洋食・中華・和食――何でも揃っているというのか、何でもアリというのか。そんな店だからこそ同窓会の場として重宝されていたのかもしれない。

聚楽台」の閉店はあくまで西郷会館の建て替えによるもので、建て替え後にはリニューアル・オープンするはずだったけれど、条件面で折り合わなかったらしく、UENO3153の外壁に「聚楽台」の名前はない。

 UENO3153を背に横断歩道を渡り、アメヤ横丁を歩く。平日の夕方でも案外賑わっている。数ヶ月前は松茸が目についたが今はカニだ。他には数の子スルメイカ、新巻鮭などが目立つ。いよいよ年の瀬だ。

 名前の通りアメヤ横丁の中心に位置するアメ横センタービルには、放送終了から二ヵ月経った今も「アメ横女学園」「あまちゃん ロケ地です」と書かれた横断幕が掲げられている。その様子を写真に収める人の姿は、放送中に比べるとさすがに減った。ドラマに便乗して商売をしている店は二軒ほどしか見かけない。これはドラマ放送中からそうで、ほとんどの商店はドラマのロケ地として浮かれることもなく普段通り営業していた。現実のアメ横とフィクションの世界とはまったく別個に存在しているようにも思えるが、その二つの世界を繋ぐものがあるとすればケバブ屋だ。

あまちゃん」(第七十七話)にはこんなシーンがある。アイドル目指して上京したヒロイン・天野アキ(能年玲奈)は、上野にある劇場の近くで先輩海女の安部ちゃん(片桐はいり)と偶然再会する。安部ちゃんは、アキより一足先に海女を辞めて北三陸を離れていた。北三陸の名物・まめぶ汁を広めるべく、「まめぶ大使」としてまめぶ汁の移動販売していたのである。第九十話でも安部ちゃんが移動販売するシーンが登場するのだが、彼女の移動販売車の両脇はケバブ屋に挟まれていた。

「ケバ〜ブ、オイシイヨー!」

 海産物を販売する威勢のいい声をすり抜けていくと、その独特のイントネーションが聴こえてくる。アメヤ横丁の中腹にはケバブ屋が三軒も密集している(そしてケバブ屋に挟まれているのはまめぶ汁の店ではなく海苔問屋である)。この三軒のケバブ屋のうち二軒は同じ経営者の店だ。その経営者がアメヤ横丁にケバブ屋を開いたのは二〇〇二年だという。

 店の前で立ち止まると、「大盛リ、今ナラ無料ダヨ!」と店員さんに声を掛けられる。ケバブビーフ、チキン、ミックスの三種類があって、どれでも五〇〇円だ。ソースの辛さも選べる。店の前にはベンチがいくつも置かれていて、その場で食べることができる。

 ケバブを食べ終えて通りに戻ると、今度はプチ中華街&コリアンタウンがあらわれる。どの店も軒先に小さな長机と丸椅子を置き、その場で食べられるようになっている。

「イラッシャイマセ、ドウゾー」

 言われるままに中に入ってみる。僕が魚団子のスープ(二五〇円)を注文して食べていると、五〇〇ミリのコカコーラ缶を手にした若い男性が二人入ってきて、厨房のおばさんたちと小気味よく会話を始めた。僕以外の客は皆中国語を話していて、自分が今どこにいるのかわからなくなってくる。この店はかなり年季の入った佇まいだが、僕が入った店はオープンしてまだ三年しか経っていないそうだ。

 こうして歩いていると、上野は懐の深い街なのだということがよくわかる。メルティング・スポットであるとも言える(だからこそ「聚楽台」のような店があったり、オープンして三年しか経っていない店でも昔からそこにあるかのように見えたりするのかもしれない)。上野がメルティング・スポットであることは、ここが東京の北の玄関であることと無関係ではないだろう。

 東京の北の玄関は上野だった。東北や信越に向かう特急は上野駅を始発駅としていたし、現在でも北斗星カシオペアといった寝台特急上野駅を起点に運行している。東北本線の始発駅は開業以来ずっと上野駅である。

 では、現在も上野駅が北の玄関なのかと問われれば、自信を持って「そうだ」とは言いづらいところがある。一九八二年に開業した東北新幹線はまず盛岡-大宮間で営業を開始し、一九八五年の延伸によって上野がターミナル駅となったが、一九九一年に東京駅まで延伸があり、上野はわずか六年でターミナルの座を奪われることになった。今では上野駅を通過する新幹線もあるし、在来線の東北本線を東京駅まで延伸し東海道線と直結させる工事も進められている。僕が北へ旅に出るときも、新幹線であれば大宮か東京から、高速バスであれば東京駅八重洲口か新宿駅新南口から出かける。そのせいか上野駅に出かけるのは年に数えるほどだ。上野はこれからどうなっていくのだろう。

 アメ横を抜けて御徒町に出る。右に曲がると上野広小路で、角にあるのが上野松坂屋だ。東京にある百貨店のうち、江戸時代と変わらぬ場所で営業しているのは上野松坂屋日本橋三越だけだが、外壁にはこんな広告が出ていた。

「1767年、上野広小路に開店の松坂屋上野店が、来春3月12日新たな一歩を踏み出すために大規模な売りつくしセールを開催!!」
松坂屋上野店南館まるごと売りつくし館誕生」

 この「売りつくし館誕生」のフレーズが気になって南館に入ってみると、既に改装中のスペースもあるようだ。とりあえずデパ地下に降りて様子を窺っていると、奥のほうにひっそりとしたエスカレーターを見つけた。そこから地下二階へと下ると、ちょっとした食堂街になっている。今半レストラン。そば処加茂。海鮮丼おお久保。甘味処みはし。中華料理赤坂飯店――どれも上野の百貨店に入っていて不思議のない店だ。そうした店に混じって、なぜか明石焼の「たこ八」という店があった。それもエスカレーターを降りてすぐの好立地である。

 店内には四人掛けのテーブルが七つほど並んでいる。わりとゆったりした空間。先客として買い物袋を提げた奥様が三名ほど座っている、皆一人客だ。皆明石焼を食べていて、テーブルの上には徳利が置かれている。ひょっとして皆お酒のツマミに熱燗を飲んでいるのだろうか。僕もそれに習って一杯やってしまおうかと思ったけれど、メニューに「熱燗」の文字は見当たらない。おかしいなと思っていると、ある奥様が「すみません、お出汁もらっていいですか」と店員さんに声を掛けた。店員さんはすぐに新しい徳利をそのテーブルに運んで行った。なるほど、あれは出汁が入っているのか。店員さんの白い長靴はずいぶん履き込まれている。

 もう一度メニューを見てみる。明石焼(八個入)は六三〇円だ。他にもお好み焼きやモダン焼き、焼きそば、イカ焼きにとんぺい焼きもあるけれど、やはりここは明石焼を選んで注文する。

 明石焼はすぐに運ばれてきた。寿司下駄に載せられた明石焼はふっくら美味しそう。出汁の入った徳利と一緒に薬味も運ばれてくる。これは一体どうすればいいんだろうと、メニューに書かれている「明石焼のおいしい召し上がり方」を読んでいると、近くにいた奥様が声を掛けてくれる。

「最初はね、それだけで食べるの――ああ、お出汁が熱いから気をつけてね。それで、そのあとにみつばを載せてみたり、ねぎを載せてみたり、ショウガを載せてみたりして、あとは好みでね。七味を入れても美味しいわよ」

 僕はあっという間に八個食べてしまったけれど、奥様たちは時間をかけて明石焼を食べていた。デパートの食堂街にある店だというのにゆったりとした時間が流れていて、贅沢な場所だ。食堂街にある他の店も、特に行列ができるということもなく、ゆったりと過ごせそうだ。

 会計をしてもらう際、「リニューアル後もこの店は残るんですか」と訊ねてみると、店員さんは「まだ言えないことになってるんです」と言葉を濁した。その言い回しが気になって調べてみると、上野松坂屋南館を一度解体し、二十三階建の複合ビルを作り、二〇一七年、パルコとTOHOシネマズをメインテナントとしてリニューアル・オープンを予定しているらしかった。それが南館の「新たな一歩」だ。

 芝居を観た帰り、再び上野松坂屋の前を通りかかった。

 既に営業は終了していたが、南館の周りにはずうっと段ボールの寝床が並んでいた(交差点に近いせいか、本館の周りには一つしか寝床はなかった)。工事が始まれば彼らはここで寝ていられないだろうし、リニューアル・オープン後も、パルコとTOHOシネマズとなれば、今のようには寝かせてもらえないかもしれない。

 今の上野広小路にパルコを求める人がどれくらいいるのだろう。いや、そもそもパルコを求めている人がどの程度いるのだろう。堤清二の訃報が飛び込んできたのは、そんなことを考えていたときのことだった。