キッチンで過ごしているとき、皆は頭の中に何を思い浮かべているのだろう。別に沈黙が続いているのではなく、穏やかな朝の時間が続いているわけなのだけれども、スーパーマーケットの品揃えの話や、お粥のかたさについて話しているとき、皆の頭の中にはもっと違うことが渦巻いているのではないか。いつもそんなことを考える。キッチンでの会話はいつも断片で、気配だけ漂わせて生活の中に溶けてゆく。

 「この作品、to be continuedで終わっちゃだめ?」

 藤田さんがそう口にしたのは、今日の昼、キッチンで、だった。

 「だめ」とあゆみさんが答える。
 「マジで終わりたくないんだけど、これ。どうしよう」
 「でもさ、『終わりたくない』ってことは、終わりが見えたってことだね。たかちゃんが『終わりたくない』って言うときは、だいたい終わりが見えたときだよ」
 「あっちゃん、鋭いね」と林さんが言う。
 「たしかに、鋭いね。鋭くてムカつくわ」

 ポンテデーラの滞在は今日を入れてあと3日。稽古は今日が最終日だ。今日はまず、一昨日の公開リハーサルで披露されたシーンに続く場面に取り掛かった。「ここからの20分はマジでハードだから、皆からだに気をつけて」。藤田さんの言葉が翻訳されると、ジャコモは笑う。そのジャコモを見て、「今、笑ったけどマジだからな」と藤田さんも笑う。今日新たに作られるシーンで、アンドレア、ジャコモ、それに波佐谷さんの3人は、ひたすら走らされることになった。ジャコモの顔からもすぐに笑顔が消えた。

 マームとジプシーの芝居では、しばしば身体が酷使される。『cocoon』ではオーディションの段階から女子をひたすら走らせていたし、北京で上演された『カタチノチガウ』では、それとはまた違った形で役者の身体に負荷をかけていた。今回、イタリアの俳優をひたすらに走らせていることは、そうした作品で扱われてきた身体ほどの意味や必然性を伴っているかと問われれば、答えはノーだ。ただ、とはいえ、今回出演するイタリアの皆とは去年のワークショップで出会ったのだけれども、そのときにはこんなふうに身体を酷使させることはなかったということに、思いを巡らせてしまう。

 皆とは去年も作業をしているのだという関係性が、そこには一つある。それから、もう一つ。マームとジプシーの作品では、どうしても女優に光が当てられることが多かった。男優にスポットを当てた作品として思い浮かぶのは『Rと無重力のうねりで』だ。そこでも男優の身体が酷使されてはいた。男優たちはボクシングジムに通い、ボクシングの動きを取り入れた作品として発表された。そこであらわになる身体性は男性的だ。でも、ひたすらに走らされるジャコモとアンドレアの身体というのはどこかキュートだ。そのキュートさは、藤田さんの頭の中に新しいイメージをもたらしているように見える。

 ひたすら走るシーンが終わると、次はいよいよ、待ちに待ったシーンだ。

 この日の午前中、ロビーに降りてみると、波佐谷さんが台本を手にして座っていた。その表情は、これまでで一番といって差し支えないほどの集中力に満ちている。その顔を見て、ついにこの日がきたのだと悟る。波佐谷さんによるラップ――はさラップのシーンが加えられたのである。

 波佐谷さんによるラップが初めて登場したのは、『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。 ことなった、世界。および、ひかりについて。』という作品だ。それも、2013年に発表されたバージョンには存在しなかったのだが、その翌年、2014年のツアーのときに加筆されたものだ。そのラップシーンは、「いきなりラップ?」ということも含めておかしみのあるシーンではあるのだが、そこで語られる「だからおれはその身になって語ろうとは思わないし、語る資格はないし、ってかお前はあるわけ?」「なにを知った気になってんだよ、馬鹿が。アタマかち割ったろか」「まあただ、生きている限りみんな同じ長さの時間を過ごしているわけで、その時間のなかで、おのおのかんがえていることはちがうわけで、おれはおれ、おまえはおまえで、テーマはちがうわけだから、だから一概には言えねーし、なに言われても痛くも痒くもねーんだけど」といった言葉は、作品の核心に触れてもいる。

 藤田さんが「今回、『てんとてん』を超えたはさラップが書けたかもしれない」とまで言っていたそのシーンを、僕は楽しみにしていた。最初にはさラップのシーンが稽古されたのは、16時半になろうとする頃のことだった。波佐谷さんがラップを終えると、「違うな。そんなに歌ってないんだよな」と藤田さんがダメだしをする。このシーンを3回ほど繰り返すと、「ちょっと早いんだけど、夜の稽古の時間を多めに取りたいから、もう晩ごはんの準備をしよう」と稽古は切り上げられた。「で、波佐谷さんは俺とラップの練習をしようか」と、藤田さんと波佐谷さんのふたりは劇場に残り、何度も稽古を繰り返す。

 『IL MIO TEMPO』のはさラップには、不思議な印象を受けた。『てんとてん』のはさラップでは、物語の流れの中にあって、物語とつながりのあることが語られていた。いや、『IL MIO TEMPO』のラップも物語の流れの中に位置付けられてはいるのだが――何だろう、テキストがとても断片的であるように感じられた。

 稽古のあいまに、「やっぱり今年は断片ってことでしか見せれない気がする」と藤田さんは言っていた。それは、今年の滞在制作をフルスケールの作品として見せるのではなく、短編集として発表すると言っていたこととリンクしている。しかし、波佐谷さんのラップを聴いていると、断片ということがまた違った響きを持って届いてくる。次々に打ち出される言葉の断片と断片とが、一個の強烈なイメージをもたらしてくる。

 昨日と今日の2日間で行われたのは、一つには“断片化”の作業だ。

 『IL MIO TEMPO』には、エレベーターというチャプターと、キッチンというチャプターがある。その2つのチャプターがちょっと長くて作品のグルーヴが下がるということで、エレベーター1とエレベーター2、キッチン1とキッチン2といった具合に分割されてゆく。分割が行われるのはチャプターという規模に対してだけではなく、たとえば15秒くらいのシーンに対しても分割が加えられる。

 たとえば、キッチン2に登場する、料理中に胡椒が目に入ってしまって、カミッラが叫ぶシーン。5秒ぐらいカミッラが叫んでいたこのシーンを、藤田さんはさらに細かく分割する。カミッラが叫ぶと、隣にいたサラが心配そうに「ペペロンチーノ(胡椒)?」と声をかける。またカミッラが叫ぶ。サラはまた「ペペロンチーノ?」と心配そうに言う。カミッラは三たび叫ぶ――インタビューに対する皆の回答や即興芝居を複合させて作り上げたシーンを、こうしてまた分割し断片化させてゆく。その断片が生むグルーヴは一体何なのか、まだ答えはでないけれど、繰り返しラップを練習する波佐谷さんの姿を見ながら考えていた。

 晩ごはんを終えると、はさラップに続くシーンの稽古に取り掛かる。それはモノローグのシーンだ。そこでは、滞在制作の最初に皆に訊ねた質問に対する回答――最初の記憶について語られる。まずはゆりりが最初の記憶を語り、次にカミッラが語る。カミッラが語るのはお父さんの話だ。藤田さんは「このモノローグを、このあとにくるドルチェのシーンに繋げたくて」と言う。「カミッラのお父さんの話をやりたいっていうよりかは、カミッラからお父さんの話を聞いたことで、僕がそれをフィクションとして描きたくなったってことです」

 イタリアの皆にモノローグが与えられたのは、昨日の夜8時のことだった。ホテルの宿泊客――ジャコモとサラとあゆみ――がそれぞれの部屋で過ごしているシーンの中を稽古していたときに、藤田さんがアンドレアに話しかける。「3人の部屋にきて、モノローグとして説明して欲しいんですよね。それは僕が台詞をつけるんで、それを言ってください」。そうして、アンドレアは3人の部屋を自在に行き来しながら、モノローグを語る。今年の2週間の滞在制作では、(藤田さんの創作による)モノローグは日本の皆に対してしか与えられないのではないかと思っていたから、少し意外にも感じられた。モノローグが口伝されると、アンドレアは真剣な表情で太郎さんに話を聞き、少しでもそのニュアンスを掴もうとしている。もちろん、日本の皆に与えるモノローグとはまた質感が違っているとはいえ、モノローグを与え始めたことで、ここからさらに世界が発展するのではないかという感触がある。


 しかし、それにしても、この作品に漂う“影”は何だろう。少なくとも、今日稽古をやっているシーンに限って言えばどれもファニーで愉しいシーンばかりなはずなのに、どこか影がある。劇中に、ごく断片として「中絶」や「離婚」と言った単語が出てはくる。ただ、それが物語に影を落としているというのでもないのだ。ずっと視界にもやがかかったように、どこか影を感じるのは何故だろう。

 21時16分になると、「じゃあ、そろそろオープンします」という林さんの言葉をきっかけに、お客さんが流れ込んでくる。今日も49人ものお客さんが見にきてくれて、公開リハーサルが始まる。藤田さんは今日、観客に挨拶することなくスタートさせた。57分の稽古が終わって観客が帰ると、藤田さんは皆を集めて話をした。

 「えっと、明日はまた同じ時間に始めようと思います。今日加えたシーンをもうちょっと作り込んで、ずっとラストまで行きます。今日更新された新しいシーンは、うまい具合にまたひと段階あげれれると思うんだけど、ラストまでのくだりはまた皆に新しくやってもらうことだから、明後日もたぶん稽古すると思うんだよね。で、明日はコスチュームアリでやります。台本アリかナシかは明日判断しましょう。

 こうやって2週間滞在して初めて『よかったな』と思えたのは――今年の滞在は来年に向けての活動だと思っていて、ようやく来年の活動も見えてきたなっていうのが今日の通し稽古で、だからすごく感触はよかった。こないだはやっぱり稽古って意識が強かったんだけど、今日、最初に挨拶しなかったっていうこともあるけど、ようやく『作品として立ち上がってきたな』と思てて。明日は位置づけとしては本番ってことになるけど、僕はそんなに焦ってなくて、今まで皆でやってきたペースを崩さずに明日も明後日も作り続けて、今年の滞在を終えたいと思ってます。今年作ったものが、来年さらにレベルの高い作品になると思うので。まああくまで来年完成させるつもりで僕はいます。ただ、今のところすごくいい活動ができてると思うので、よろしくお願いします」

 ところでこの日、イタリアの皆のうちのひとりが母親を紹介してくれた。「両親は離婚したのだ」と聞いていたけれど、お母さんは男性と一緒に劇場を訪れていた。あれは新しいお父さんなのだろうか。

 今日の滞在記に書いたように、『IL MIO TEMPO』の中には「離婚」という話題が出てくるが、イタリアの出演者の4人のうち、実に3人が親の離婚を経験している。イタリアはカトリックの国だから、本来は離婚が許されない国だった。ただ、現代において「離婚は許されない」という規律を守り続けるのは難しいことだ。そこで、妥協策として、「離婚を申請しても、5年間は離婚することができない」という法律が生まれたのだという。しかし、その法律ができたことで、離婚がカジュアルになってしまった。「もう離婚する!」と届け出をしても、猶予があるからよりを戻すことだってできるし、届けを出してしまえば、新しい恋人ができても法律的には問題がないからだ。

 キッチンには藤田さんとゆりり、それに僕の3人が座っていた。ぼんやり過ごしながら、ぽつぽつと「離婚って何なんだろうね」と話をしていた。ふと、ゆりりが言う。「二人の仲が良かったことが、自分の存在してる理由だったのに、その二人が仲良くなくなるっていうことは、自分の存在は何だっていう悲しさになる」。それに、私の家は家族揃って食卓を囲んでたから、皆で食卓を囲めなくなることが悲しい、お姉ちゃんが家を出たときもそれが悲しかった――そんなふうに語るゆりりを眺めていると、しみじみ良い子だなあと思う。そう、心の中で思っていたはずが、「良い子だなあ」と声に出して言ってしまっていた。