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時計の針は9時32分を指している。劇場では日本人の役者だけで稽古が行われている。藤田さんが口伝えするモノローグを、あゆみさん、荻原さん、ゆりりがメモしている。「これが日本人だけで引っ張れる限界かもね。これ以上増やすと日本語が多くなるから」。キーボードをタイプする手を止めて藤田さんが言う。「これ、もうエピローグに入ってたのかもしれないな。ここからさらにエピローグってことで加えちゃうと、グルーヴが下がる気がする」
時計の針は10時11分を指している。誰もいないキッチンが日に照らされている。窓の形に沿って斜めに切り取られているテーブルで、1本目のビールを開ける。蝿が2匹、日向ぼっこしている。2匹はずっとキッチンにいて、絡まり合って飛んでいる。
時計の針は10時27分を指している。皆がキッチンに引き上げてくる。「俺もビール飲もう」と藤田さんはモレッティを取り出す。あゆみさんは一杯になったゴミ袋を取り替えている。最初の頃は「役者さんにそんなことさせてしまって申し訳ない」という気持ちになっていたけれど、そうして片付けするのも、あゆみさんにとっての“私の時間”で、生活のリズムとして必要なのではないかと最近は思っている。荻原さんはエスプレッソを淹れている。ゆりりはゆでたまごを作っていて、波佐谷さんはキッチンの外でタバコを吸っている。
時計の針は10時59分を指している。藤田さんは飲み終えたビール瓶を洗いながら「このサイズのキッチン欲しいわ」と言っている。「管理人は絶対まるがいいよね。まるだったらちゃんと管理してくれそう」。ゴミ捨てから帰ってきたあゆみさんは「鳩が死んでた」と顔をしかめる。去年のイタリアツアーのときも鳩が死んでいるのを見た。トラムに轢かれた猫も見た。
時計の針は11時9分を指している。ゆりりがヤカンを振っている。「すごい白い石が出てくる」とゆりり。「ね。出てくるよね」と荻原さん。「硬水だからかな?」「え。冷たくなると出てくるよね――あ、ゆり子、水筒にお湯入れたよ」「ありがとう」。二人が話していると、キッチンの外から「うわ、でっけえ蚊!」とい波佐谷さんの声が聴こえてくる。「今の、独り言かな」「うん。聞いて欲しい独り言だよね」「家でも言ってるのかな?」「いや、家では言わないんじゃない?」「そっか。そうだよね」「うん。そう思う」
時計の針は11時51分を指している。ジャコモはパパッと料理を済ませてお昼ごはんを食べている。カミッラは巻きタバコを巻いている。サラは稽古着に着替えてキッチンに戻ってきた。アンドレアは、夜の仕込みだろうか、魚を切っている。今日は鱈を使った料理だ。魚を切り終えると牛乳にひたす。こうしておくと塩気が抜けるそうだ。僕は5杯目のビールを開けている。
時計の針は12時12分を指している。イタリアの皆に作ってもらう今日の晩ごはんと、明日日本の皆で作る晩ごはんの買い出しのためパノラマに出かける。皆より少し遅れて、鼻歌混じりに歩く。今日もいい天気だ。パノラマに行けば、なんか楽しいことが待っている。パノラマに行けば、皆で料理だってできる。パノラマに行けば、大型犬とだって触れ合える。パノラマに言えば、チーズだって生ハムだってタコのマリネだってある。今日はもうすっかり良い調子だ。パノラマの入り口にあるバーで6杯目のビールを開ける。
時計の針は13時24分を指している。あゆみさんが劇場の外に通じる扉を開けると、風と光が差し込んできて心地良い。波佐谷さんは舞台に寝そべって台詞を口ずさんでいる。イタリアの皆も台詞を確認している。全員揃ったところで、「よし、じゃあ始めようか」と稽古が始まる。
時計の針は14時32分を指している。劇場と宿泊施設のあいだにぽっかりとある裏庭のような空間で、女の子がぐるぐる自転車を漕いでいる。
時計の針は15時12分を指している。「このシーン、これまでは楽しいシーンとして稽古してきたけど、今は別れのシーンになってきてるよね。そこにアプローチしてほしい」と藤田さんが指示をする。イタリアの皆が、少しそわそわし始める。一体何だろうと思っていると、「悲しい気持ちになってきた」のだと言う。ジャコモは日本語で「さびしい」と言った。劇に登場するキャラクターたちも別れを迎えるが、私たちも明日には別れる。
時計の針は15時36分を指している。芝生の上で休憩していた波佐谷さんが「遊園地の声がするよ」と皆に言う。「えっ!」「またきてるんじゃない、移動式遊園地」。去年ポンテデーラに滞在したとき、すぐ近くに移動式遊園地が出ていたのだ。皆で芝生のところまで出てみる。「遊園地の声って、どういうこと」とゆりりが言う。「いや、キャーって声が向こうから聴こえたんだよ」と波佐谷さん。「え、それって遊園地の声ってことになるわけ」とゆりり。「いや、4、5回聴こえたからね」――そんな話をしていると、こどもがはしゃぐ声が聴こえてくる。皆、「これは遊園地の声だわ」と納得する。
時計の針は15時38分を指している。「はあ。もう黒い服着たくない」とぼやく声が聴こえてくる。「黒い服?」「うん。合わせやすいようにって黒い服ばっか持ってきちゃって。しかも、寒くなってききて、長袖もズボンも黒しか持ってきてなくて。はあ、もういやだ」。いろんな感覚があるのだなあ。僕はずっと黒でも平気だ。
時計の針は16時28分を指している。「じゃあ、これで最後までできたってことで」と藤田さんが告げると、拍手が起きた。
時計の針は16時56分を指している。イタリアの皆が、今日も楽しく会話しながら料理している。この景色を眺めるのも今日が最後だと思いながら、7杯目のビールを開ける。今日はアンドレアがエプロンをつけて料理をしている、ジャコモはその手伝いをしている。カミッラはサラダの準備をしている。太郎さん、サラ、荻原さんがたまねぎを切っている。「ああ、きた!」と太郎さんがのけぞると、「あ、太郎さんがまた泣いてる」とあゆみさんが言う。
時計の針は17時36分を指している。今日はファーストがトマトソースのパスタ、2皿目が鱈を使った料理だ。うまい。しあわせ料理だね。これ、全然店出せるレベルだよね。もう日本でイタリアン食っても「うまい」とか言わないようにしよう。しみじみと噛み締めるように食べる。
時計の針は18時34分を指している。終演後のパーティーに備えて、赤ワインとスナック菓子をパノラマで買い求める。キッチンに戻ってみるともう皆の姿はなかった。今頃きっと、公演に向けた最後の稽古を行っているはずだ。僕は本番を楽しむために、ここから先の稽古は観ないことに決めていた。汚れが落ちやすいようにお湯に浸してあった鍋とフライパンを洗う。フライパンにこびりついたソースを眺めていると、さっきの味が舌に浮かんでくる。洗い物を終えると、買ってきたワインをテーブルに並べる。ラベルが印象的なこのワインを、去年も飲んだ。
時計の針は19時2分を指している。血中アルコール濃度が少し高い気がしたので、シャワーを浴びる。さっぱりした気持ちで8本目のビールを開けて外に出る。夜が始まっている。
時計の針は19時34分を指している。そういえば移動式遊園地が出ているはずだと、劇場にほど近い場所にあるシネプレックスまで行ってみる。去年はシネプレックスの隣――先週蚤の市が出ていた広大な空き地――に移動式遊園地が出ていた。でも、その場所に行ってみても遊園地はなく、ずうっと車が駐車されているだけだ。狐につままれたような気持ちで帰る。
時計の針は20時17分を指している。劇場ではもう稽古は終わっていて、プリセットも完了している。役者の皆は荷物を手に楽屋へと上がっていくところだ。いよいよ始まるのだなあ。公演があるときだけ営業するバーもオープンしていて、少しずつお客さんが集まり始めている。観劇前にビールやワインを飲んでいる人が多くて水が合う。
時計の針は20時34分を指している。表に出てみると、吉田聡子さんと難波有さんに出くわす。二人は今、ヨーロッパを周遊中だという。二人には公演期間中しか会ったことがないけれど、今日はいつにも増してきらきらして見える。「ふたり、夜とか何話してんの?」と林さんが訊ねる。「夜はね、(難波さんが)すぐ寝ちゃうからそんなに話してない」と聡子さん。「そう、すぐ寝ちゃって。後片付けとかはいつも聡子ちゃんがやってくれてるから、ストレスが溜まってないか心配」と難波さん。「うん、気をつけな。ふたりでも駄んたい行動だからね」と林さん。
時計の針は20時48分を指している。開演予定時刻の10分前に、皆が舞台上に集合する。「じゃあ、頑張って!」と藤田さんに声をかけられると、役者の皆は「メルダメルダメルダ!」と声を掛け合っている。「メルダ」というのは、直訳すると「うんこ」。開演前にこうして声を掛け合うのが習わしのようだ。
時計の針は21時9分を指している。カーテンの向こうから足を踏み鳴らす音が聴こえてくる。役者の皆はそこで待機している。ほどなくして林さんがやってきて、カーテンの向こうに「開演しまーす」と伝える。初めて通しで観る――初めて衣装をつけた状態で観る――『IL MIO TEMPO』。物語は、時に急カーブを切りながら進んでいく。そういえば去年、藤田さん、あゆみさん、林さんと一緒に移動式遊園地に出かけて、ジェットコースターに乗ったなあ。あの日の帰り道、「友達になろう」と声をかけてきた黒人の男性は今もポンテデーラにいるのだろうか。次々に断片的なシーンが繰り出される。光が乱反射するみたいにして、断片だったはずの一つ一つが彩りを持つ。そういえば数日前に虹を見た。虹というのは、ごく小さな水の粒で光が反射したものだ――そんなことを思い浮かべていると、エピローグではスクリーンに虹が映し出されていた。