バターケーキ

 「橋本さんね、自分が食べてるものをまじまじ見てるときがあるんだよ?」。Aさんにそう言われたのは、いつのことだったか。たしかあまり美味しくないヨーグルトを食べたあとのことだったと思う。ヨーグルトなんて一日に何個も食べるものではないのに、どうしてこれを選んでしまったのかと憤りを覚えていたときに、そう言われたのだ。言われてみれば、美味しいものを食べたときでも、まずいものを食べたときでも、食べ物のことをまじまじと見ているような気がする。

 大抵の質問には言葉を濁してしまうけれど、一つだけはっきり答えられることがある。それは「死ぬ前に何が食べたいか?」ということだ。そう訊かれたら、迷わず三つの店を挙げる。どれも寿司屋だ。具合が悪いのにその店に出かけ、途中で倒れてしまい緊急入院となったこともある。あやうく本当に最後の晩餐になるところだった。

 この「死ぬ前に何が食べたいか?」という話は、何度もしたことがある。今振り返ってみると、誰に聞かれたわけでもないのに勝手に話しているような気がして恥ずかしくなる。というのも、周りの誰かが「自分だったらこれが食べたい」と話してくれた記憶がほとんど残っていないからだ。いつも酔っ払ってしまって覚えていないだけかもしれないが、唯一覚えている人がいる。その人というのもAさんだ。公演の楽屋を訊ねたとき、ケータリングに置かれたケーキを指して、「私が死ぬ前に食べたいのは、このケーキです」とAさんは言ったのだ。

 そのケーキはバターケーキだった。フルーツが山盛りになったケーキでも、見るからに高級なケーキでもなく、ごく普通のバターケーキだった。そのケーキを見たときに、やっぱりこの人にはかなわないなと思った。僕が死ぬ前に食べたいと思っているのは、どれも旅先で食べたものだ。さほど高い店というわけでもなく(一軒は立ち食い寿司屋だ)、東京でもっとうまい店もあるのだろうけれど、旅の記憶も相俟って強く印象に残っているのだろう。でも、そのバターケーキはもっと日常の味がした。彼女はそれを死ぬ前に食べたいという。

 この夏、里帰りしたときに思い出したのはそのバターケーキのことだ。Aさんの親戚は中国地方に住んでおり、そのバターケーキも中国地方の店で売っているものだと聞いていたのを思い出したのだ。さっそくAさんに連絡を取り、お店を教えてもらう。その店は何店舗も展開しており、実家から車で10分ほどの場所にも店を構えていた。里帰りの最終日、僕はこっそりその店に出かけ、家族ぶんのケーキを買っておいた。そのケーキは、夕食のあとで食べるつもりでいた。

 夕食を終えて風呂から上がると、母と祖母が何やら話をしていた。祖母は「お腹が空いたんじゃけど、ごはんはまだかね?」と言っていた。母は少し動揺した様子で、「何を言うとるんね、はあ食べたじゃろう」と言って聞かせている。今年で八十九歳になる祖母は、少し前から同じ話を繰り返すようになっていたけれど、「ごはんはまだかね?」と言われたのはこの日が初めてらしかった。そこで僕はケーキを買ってあることを伝えて、一緒に食べようと話を切り出した。祖母はあっという間にケーキを平らげて、まだケーキを食べている僕を見て「昔は小さかったのにからねえ」と繰り返し言った。僕は小さい頃、祖母に連れられて保育所に通っていた。

 翌朝になって実家を出た。倉敷に立ち寄り、高松に泊まり、小豆島でビールを飲んで、神戸でライブを観た。ホテルに戻ったところで、ふと思い出す。あのケーキ屋、神戸には出店していないのだろうか?

 調べてみると、その店は神戸から電車で30分ほどの場所にも出店しているらしかった。少し迷ったけれど、神戸から東京に戻る朝にそのケーキ屋に出かけ、バターケーキを買い求めた。そこから僕は新幹線に乗って東京まで引き返し、ある劇場に直行した。その日、僕は芝居を観る予定があった。その演劇作品には、Aさんがアシスタントとして関わっていた。演劇の差し入れとして、ホールケーキなんて扱いづらいだろうなとは思ったけれど、それでも差し入れてしまった。

 その日観た作品に出演する人の大半は若い役者だった。しかし、その中に数人、白髪の人が混じっていた。舞台の終盤に、ある登場人物たちの幼少期が再現されるシーンがある。おそらく夕方なのだろう、あるこどもは「まだ遊んでよう」と言い、あるこどもは「怒られるから早く帰ろう」と反論する。二人が言い合っていると、あるこどもは「お腹空いたから早く帰ろう」と言い出す。そのことにムッとした子は、「そういう人ってさ、モテないと思う」と言ってしまう。「そんな女子好きになる男子なんかいないよ」と。

 そう言われた女の子は「そこまで言うことないじゃん!」「お腹空いちゃダメなの!」と泣き出してしまう。しまいには「もうごはん食べない」とまで言い出す――と、この一連を演じていたのは若い三人の役者だ。そのシーンが終わると、再び同じシーンが繰り返される。ただし一人だけ出演者が変わっており、「お腹空いたから早く帰ろう」と言い出す女の子は、白髪の女性が演じている。そのことで、同じシーンであるにもかかわらず、まったく違う場面に見えてくる。

 思い出したのは、やはり祖母のことだった。勢いよくケーキを頬張っていた姿を、舞台を観ながら思い出していた。今度里帰りしたときには、祖母に何か食べたいものはあるか聞いてみようと思う。