8時に起きると、トルコではロシア大使が射殺され、オーストリアでは銃撃戦が起こり、ドイツではクリスマスマーケットにトラックが突っ込んだと報じられている。世界がまた大変なことになってしまった。動揺しつつも、洗濯機をまわす。最近洗濯物が多くて、干すのに苦労している。数えてみると、知人は上下の下着にタイツを履き、タンクトップみたいなやつを着て、さらにヒートテックの長袖を重ね、その上にトップスを身にまとっている。どうしてこんなに着込むのか、腹が冷えるなら腹巻を買えばいいじゃないかと伝えると、ネット通販で本当に腹巻を注文していたのだけれども、在庫がないと返事があったらしく、洗濯物は多いままだ。昼、マルちゃん正麺(醤油)を食べたのち、ひたすらテープ起こしをして過ごす。

 20時半、東京芸術劇場へ。1階にあるカフェに入り、ビールをチビチビ飲む。ほどなくしてプレイハウスのある2階から観客が降りてくる。今日は19時からの公演を観ていたAさんと、ゆるやかに待ち合わせをしていたのだ。どうしてもAさんと話しておきたいことがあり、先日、今度会って話せませんかとLINEを送っていたのだ。ただ、LINEを送ったときは酔っ払っていたから思いきれたものの、それを伝えるのがいいことなのか、そもそも時間を割いてもらうほどのことなのかとマゴマゴした気持ちになり、「もし都合がつけばでいいので……」と控えめに連絡し直していた。21時過ぎにAさんから連絡があり、駅の近くで落ち合って「PRONT」へ。Aさんは紅茶とケーキを、僕はビールとポテトサラダを注文する。

 Aさんと話したいと思ったのは、Aさんの出演する『R』という作品を観たからだった(会って話をするのがいいのかどうか迷ったのは、その作品がまだ公演中だからというのもある。今日は休演日とはいえ、公演期間中の人に付き合ってもらうのもやや申し訳なかった)。ただ、どうしても2016年のうちに話して起きたかったのだ。

 『R』という作品を観たときに思い出したのは、彼女が出演する『T』という作品のことだった(固有名詞を伏せる必要はないのだけれど、検索してたどり着いたときにここだけ切り取られると困るし、文脈が通じる人には伏せ字でもすぐにわかるだろうし、もっと言えば固有名詞が重要なわけではないのだ)。僕は『T』という作品を何度となく観ている。何度となく観ているというよりも、上演されたほとんどすべての回を観ていると言ったほうが正しいだろう。だから僕は、『T』という作品に対しては、他の作品を観るのとは違う次元で考えてしまっている。だから『R』を観ているときにも『T』のことを思い浮かべてしまっていた。何か通底するものを感じてしまったのだ。

 『T』という作品には、3つの時間が登場する。一つは彼らが中学生だった2001年であり、一つはそれから10年経った2011年であり、もう一つはその作品が上演される年(2013年の上演では2013年、2014年の上演であれば2014年という時間のことが最後に語られる)。彼らが中学生だった2001年、テレビでは飛行機にビルが突っ込む映像が流れており、また彼らの暮らす小さな町では女の子が殺されて用水路に遺棄されるという事件が起きる。そんな世界にあって、登場人物のひとりは家出をし、森の中にテントを張ってキャンプを始める。そのテントの周りに同級生である6人が全員揃っている場面で『T』という作品は始まる。

 どうでもいい話で言えば、『R』という作品にもテントが登場する。ただ、『T』でキャンプ生活を始めるのはその町に暮らす女の子だが、『R』でテント暮らしを始めるのは町を訪ねてきたヨソモノの青年だ。また、『T』という作品はこれまで様々な土地を旅してきた作品であり、「それぞれの土地を訪れ、その土地と別れて次の土地へ行く」ということに対して意識的に取り組んできた。反対に、『R』という作品は、地図から消えた静かな村に暮らす人々の物語だ(そんな村にやってきた若者に彼らがどう対応するかが、この舞台では描かれてゆく)。その意味でも、この二つの作品は対照的だった。その『R』を観て、ここ数日、改めて『T』という作品のことを思い返していたのだ。

 「今っていうのは春で、そして、朝なんだけど。春といえば、出会いと別れの季節、らしい」。そんな台詞で『T』という作品は始まる。しかし、「今」という台詞で始まりながらも、この作品は過去を振り返り、記憶を巡り続ける構造になっている。その作品と一緒に旅をしていたせいか、僕自身、過去にばかり気をとられていて、「今」という時間への意識が足りていなかったのではないか。そんなふうに思ったのだ。『T』という作品が旅したルートを振り返ってみる。2013年にイタリアを訪れ、2014年にはボスニアからセルビアを通過してイタリアを旅し、2015年にドイツのケルンへと至る――このルートに、今になって愕然とする。

 さきほども述べたように、『T』という作品には2011年という時間が登場する。2011年といえば、シリアで騒乱が起きた年だ(そしてそれは震災の4日後、2011年3月15日だ)。内戦が激しさを増したのは2013年のことであり、シリアを離れる人の数が増え始める。シリアからの難民が最初に目指したルートは、エジプトから船に乗り、1週間近くかけて地中海を越えてイタリアを目指すルートだ。それに変化が生じたのは2015年で、メルケル首相が「すべての難民を受け入れる」と表明したことにより、危険な地中海ルートではなく、トルコからギリシャに渡り、そこからセルビアなどを抜けて陸路でドイツを目指すルートに難民が集中するようになる。しかし、2015年の年末にはケルンで難民による事件が起こることになる。僕がそれぞれの街を訪れたときには、そこで何かが起こりつつあったのだ。そんなこと、ほとんど考えてこなかった。もちろん演劇作品を観るために、現実世界で起きつつあることをすべて意識しなければならないと言うわけではないし、そうした現実に何か言及しなければならないということでもないけれど、オーストリアで銃撃戦が起き、ドイツのクリスマスマーケットにトラックが突っ込んで、トルコで大使が射殺される、そんなことが一日のうちに起こるような世界で、私たちは何が言えるのだろうかということはどうしたって考えてしまうのだ。

 たとえば、『R』という作品の登場人物は、閉じられた世界に絶望しながら生きている。そんな彼らがもし『T』という作品を観たら何を思うだろう――そんなふうな話をすると、Aさんは「そっか、そんなことを考えていたんだね」と言った。あるいは、少し前に観たドキュメンタリー番組のことを思い出す。その番組ではイスラム教徒のフランス人の若者が、フランス人によるイスラム過激派組織に潜入し、超小型カメラで撮影したものだ。『R』という作品に登場する人たちの希望のなさは、その組織に所属する若者たちとも通底するように思える。フランスに移民してきたイスラム教徒の家に生まれた彼らは、フランス社会に希望を見出すことができず、「テロを起こせば楽園に行ける」と真剣に語り、「長く生きて目的を見失うのが怖いんだ」とも述べる。その背景に過激な信仰があるか否かという違いはあるけれど、日本でも「死刑になりたかった」と言って殺人を犯した人がいるのだ。

 「その考え、すごいやだ」とAさんは言う。Aさんがそう言っているのを耳にすると、妙に安心した気持ちになった。「でもさ、『T』っていうのは怖い作品でもあるよね」とAさんは続ける。純粋に作品だけ観れば子どもが大人になって町に帰ってきて、昔のことを思い返す――話としてはそれだけなんだけど、どこまでもやれちゃいそうな作品でもある、と。そう、物語で語られるのは、ごく小さな話だけなのだ。しかし、その小さな物語には、いろんな世界を重ねることもできる。実際、『T』という作品で初めて海外を訪れたときから、演劇作家のFさんは「この作品で旅をする意味がなくなったら、この作品を終わらせる」と語っていた。だからこそ余計に、この作品が今、こんな時代に何か言えるだろうかということを考えてしまうのだ。他の作品は「これまで出会ってこなかった人に観てもらう」というだけでも旅をする意味があると思うけれど、この作品だけは少し異質だと感じてしまう。

 この僕の意見にはAさんも同意してくれた。そして「やっぱし、緊張するね。橋本さんに観てもらうのは」と言った。Aさんとは『T』という作品の話だけでなく、今年の秋に僕がパリに出かけたときの話もした。僕がパリを訪れたのは、既に日本で上演された或る作品が、パリで上演されるかもしれないという話を聞いたからだった。その作品に対しても僕は思い入れが深く、もしパリで上演されることがあるのなら観に行きたいと思っている。パリという街を一度訪れたことがある――それこそ2014年の『T』という作品のツアーが終わったあと、皆と別れてパリを目指したのだ――けれど、パリで上演されるかもしれないその作品とパリの街はどこか相通じるものがあると僕は感じている。しかし、その何かについて知るにはパリに対する知識が足りず、その下調べも兼ねて今年の秋にパリを訪れてたのだ。

「橋本さんのそういうところって、でも、すごい橋本さんだよね」とAさんは言う。
「やっぱり、観ている以上、こっちはこっちで考えないと」と返す。
「それって何のためなんだろう。自分のためなのかな?」
「自分のためだとは思ってないですけどね」
「でも、誰かのためではないよね」
「誰かのためではないですけど、何なんでしょうね」

 でも、「何のためなんだろう」という疑問は、役者という仕事をする人に常々感じていることだ。どうして役を演じて人前で披露するのかということは、「それをやっていくと決めたから」ということがあるにしても、自分が満足するためではないだろう(そういう役者もいるだろうけれど)。

 ところで、僕にとってAさんは怖い存在だ。2014年に『T』という作品で一緒にイタリアを旅しているうちに、一度怖さを感じなくなったけれど、今はまた怖いと感じるようになった。その怖さが何かと言えば、以前書いたバターケーキの話に尽きる。僕はずっと、「もっと何かがあるんじゃないか」ということを欲し続けて生きている。もっとすごいことがあるんじゃないかと思い続けている(『T』という作品を置い続けているのもその一つかもしれない)。でも、普通の人はちゃんと自分の人生を生きている。僕はそれを投げ打って、もう満腹なのに「もっと美味しいものが食べたい」と駄々をこねている。そんなことを欲し続けたって、いつか死ぬのはわかっているのに。僕は死ぬ直前になってようやく、自分は何一つ地に足が付いていなかったと気づくだろう。でも、Aさんが死ぬ直前に食べたいというバターケーキは、ちゃんと地に足がついている。そこに「かなわない」と感じてしまう。

 そんなことを言うと、「橋本さんが死ぬ前に食べたいってものは高級なだけで、そんなに思いは変わらないんじゃないかな」とAさんは言ってくれる。でも、僕が死ぬ前に食べたいと思っているものは、これまでの人生で格別にうまいと感じた食べ物だ。それは僕の生活の中にある食べ物ではなく、旅先で食したものばかりだ。だからきっと、これからさらにうまいものを食べることがあれば、それを「死ぬ前に食べたいもの」に選ぶだろう。でも、Aさんにとってのバターケーキは彼女の記憶とともにあり、生活の中にある、もっと確かなものだ。それがうらやましくもあるし、かなわないとも思うし、怖くもあるのだ。

 「でも、私と橋本さんはなんか近い気がするって思ってるんだけど。似てるって思ってるんだけど。何に対して似てると思ってるのか、自分でもわからないけど、なんかわかってくれる気がして。ただの勘違いかもしれないけど、わかってくれる気がするんです」。そういって、Aさんは二つのエピソードを話してくれた。その二つのエピソードは、他では誰にも話したことがないものだという。そのエピソードに対してAさんが抱いた気持ちというのは、とてもAさんらしいものだという感触があった。「これをね、頭で理解してくれる人はいると思うんだけど、わかってくれる人って絶対多くなくて。そういう寂しさみたいなところが似てるんじゃないかと思ってる。それを橋本さんはわかってくれる気がするんだけど、どう?」

 わかる、と答えるのには違和感があった。それは、Aさんの語ったエピソードが、感情が、理解できないからではなく、むしろよくわかる感覚だったからだ。その感覚を、「わかる」という言葉で捉えることに違和感があった。それを「わかる」という言葉で答えるのでは、Aさんの言った話を受け止めきれないと言う気がした。それこそ「頭で理解する」ことになってしまうという気がしたのだ。けれど他にふさわしい言葉も見つからず、「わかる」と僕は答えた。Aさんの語った感覚は、僕の中のどこか深い場所に横たわっているものだ。